Wednesday, November 21, 2012

1 advent C


待降節第1主日 C
ルカ21:25ー28,34-36

 今日、「生活の煩(わずら)いで心が鈍くならないように注意しなさい」。また「いつも目を覚まして祈りなさい」という聖書の言葉が読まれました。人間の一生は先が分かりません。だからこそ心配し、備え、煩いがつきまといます。それでも先を煩わず、いつも目を覚まして祈りなさい、と言うのです。でも逆に言えば、先が分かりさえすれば、人間は煩わずにすむのでしょうか。人間には未来のことはわからないが、もし分かっていればやりやすくなるでしょうか。
 この頃DVDで同じ映画が何回も見ることが出来ますので、私たちはそのストリーの過去も未来の出来事も、お見通しと言うことになります。例えば、若い娘が彼氏と恋愛し、結婚したくて仕方なくて、それで両親の反対にあって もめている部分が流されます。実はその先、二人はめでたく結婚します。ところが旦那さんは、人を助けるために、死んでしまうのです。でも、若い娘は、彼と一緒になりたい……そういう場面が再放送で、また流れるわけです。
 そういう先の展開の分かっている私は、「あぁ、そうやって苦労して結婚したって、あとで、悲しい思いをするだけなんだよ」と思って、声をかけてあげたくなる。でも、もしも、私が神になりすまして、本当に声をかけたとしても、「結婚したって間もなく死んじゃうんだから、やめときなさい」と声かけたとしても、きっと彼女は、そんな声を信じるわけないだろう。むしろ「そんな未来知りたくも信じたくもない。神様黙れ」と激怒するんじゃないかとと思うのです。
 人間は未来を知りたくて仕方なくて、占いに頼ったりして、未来を解き明かそうとします。でも未来が本当にすべて分かったら、未来に希望をなくし、ハラハラドキドキすることもなく、つまらない人生を生きるのだろうな、と思います。
 神の思いは、この若い娘の好きだという感情の前では、奥に引っ込まざるを得ない。神様は限りない愛をもって、彼女に、「別れなさい」なんて言えるのでしょうか。神様が人間の生活に介入しないのはそのためでしょう。
 でもそうは言っても、次の疑問が生まれます。神様は何で、旦那さんが死ぬのをそのまま、分かっていながら放置するのか。この答えは恐らく、神様が放置したのでなく、そういうように、その人間の生き方がその道に導いてしまうのでしょう。この旦那さんは、優しい人だから、自分を犠牲にしても人間を助けたいと言うことを自分の意志によって決めて、そのために死んでしまう。またそのような人だからこそ、彼女は、好きになるのではないでしょうか。
 それでもまだ納得いかないことがあります。ではなぜわざわざ神様は、そんな悪い結末をゆるすのか?なぜ神は自然の災害をゆるすのか?なぜ、あの問題は解決しあにのか?なぜ、あの人は変わらないのか?なぜ、なぜ?人間が生きていく上では、この「なぜ」がつきまといます。生活の煩いの一部です。そのなぜばかり繰り返し、自分の不運を嘆き、また他人を責めてばかりしていると、心は鈍くなり、生き生きとした、明るい心がなくなっていきます。
 「なぜ」の答が全部 分かったとき、そのとき、すっかり未来は明らかになる。でもそうしたらやはり、この「私」という人間の生きる意義が、すっかりなくなるのではないでしょうか。それが全部分かったら、ただあらかじめ定められた地図と年表に従って、ノルマを果たしていくだけの「ロボット」のようなものに成り下がるしかないのではないでしょうか。
 人間は先が分からないからこそ、自分で決定し、自分で責任をとり、自分であることができる。
 たとえば、今日はこの人と知り合って、数年後その人が自分を裏切る。
もしそんなのがすべて分かっていたら、まったく面白くないし、人生に対して、生きる意味をなくして、すっかり悲観論になって、生きる目的を失います。
 神様は、この世と人間を創造したあと、ほったらかして、傍観している神ではありません。いろいろな営みをしている人間の歴史を限りない憐れみと愛をもって眺め、そんな人間一人ひとりの歩みを、ある時は神の存在に気づかせ、回心させ、ある時は忘れることを赦しながらも、いつもそれでも限りない愛のまなざしで見守って共にいてくれている。いつも来てくれる、きて下さる。私たちはそれを待つのです。未来を知ってコントロールしようという生き方と、来られる方を待つという生き方は大分違うと思いますが、今日はその違いについて考えるように呼びかけられています。
 人間は先が分からないからこそ、自分で選択し、自分で決断し、その時その時を大切にしていくことができる。そして自分の過去も、自分のこれまでの人生の歩みも、今の時も、これから起こることも「すべて、恵みであり、これでよし」と感謝し、前向きに受け取るのがキリスト者の生き方ではないでしょうか。
  「いつも目を覚まして祈りなさい」とは、人生の一時一時を、大切に、自分で精一杯、選択し、責任を取りながら、またいつも感謝しながら過ごす、そういうことだと思います。
  待降節。このように私たちの自由を、歩みを大切に見守って下さっている神様が、ただ眺めているのではなく、本当に人間を救いたくて仕方ないのだ。そのことを明らかにするため、人間の歴史の中にイエス様として登場して下さるのを待ち望む、新しい季節が始まりました。この誕生を待ち望む新しい季節の始まりを、大切に、感謝して過ごしたいと思います。moseos

目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、それよりももっと大切なことに心を向けさせるのが「祈り」なのです。
「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることが「祈り」です。
 27節にもある「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成させる時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」なのです。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13・12)と言います。このキリストとの決定的な出会いを意識し、「来られるキリスト」に目を向けていることが「祈り」だと言ったらよいのではないでしょうか。hinto

ニセ救世主、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、天変‥‥。福音は、人生の苦しみや悩みに目をつぶっ
た非現実的な楽天主義ではなく、世の終わりまで続く人間社会の困難を知った上での、イエスの愛と
命と希望のメッセージです。
様々な暗いニュースに沈みがちな心を奮い立たせながら、この世の現実のまっ只中に共にいて、闇に
光をもたらしてくださる神の愛を、今日も信じて生きることができますように。sese04
------------

No comments:

Post a Comment