Monday, August 29, 2016

24 新しい契約の記念

24  新しい契約に記念

イエスは、自らの存在とその贖罪的運命の記念を、弟子たちに残すべく行為をどのように定めたのか。聖ルカによると、次のように。


「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。 
イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。 
二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、 
イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、 
家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』 
すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」 
二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 
イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 
言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 
そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 
言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22・7〜20)

年の最初の月の十日に毎年律法に従って祝われていた過越祭である。それは、出エジプト記第12章に記されている神的命令を果たすことである。数世紀にわたってイスラエル人は奴隷としてエジプトで暮らしていた。それから、神がファラオに民の解放を命じるためにモーセを立てた。ファラオは拒否したため、彼の抵抗を克服するために、神によって送られた不可思議な疫病は彼にだけしばらく影響を与えていた。今や、ファラオの頑固さを破るために意図された、最後の災いの最も恐ろしのは手元にあった。それは、その土地のすべての人間及びすべての動物、獣の初子(ういご)の死であった。しかし、神が民にご自分が主であろことを証明するために、また解放の記憶を深く意識に焼き付けるために、神がこの出来事に心と感情に印象を残すに間違いない形を与えた。神がヘブライ人の各家族に、子羊を殺すように命じ、その血で戸口の側柱にしるしをつけるように命じた。こうして死の天使が、土地を通る時に、側柱のしるしを見て通過することになる。(出エジプト記12・11〜14参照)。この出来事の記憶は、生かされるために記録され回想されるだけではなく、毎年典礼儀式で祝われるようになった。このように、神が過越の祭典、「ぺサハ」を制定した。
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過越はヘブライ語で《ペサハ》という。すなわち《通り過ぎる》という動詞から来ている。エジプト脱出という神の救いのわざ全体を表す重要なことばになった。」(『聖週間の典礼《会衆用》』、オリエンス宗教研究所、5頁参照)。

ヘブライ語       פָּסַח
ギリシア語       Πάσχα(Paska)
ラテン語 Pascha
イタリア語 Pasqua 
フランス語 Pâque
スペイン語 Pascua
ドイツ語 Pessach
オランダ語 Pesach
英語        Passover
スウェーデン語 Pesach
ハンガリー語 Pészah 
ポーランド語 Pascha
ロシア語 пасха (paskha)
エスペラント語 Pesaĥo
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  最初のうちは、お祝いは威厳のある形をとったが、次第に楽しい祭りという性格を持つようになった。食事はますます豊かになった。食卓を囲んで杖を手に立ち、旅のために帯を締めることをやめて、快適に座るようになり、もともと規定されていたように急いで食べるのではなく、もはや安らかな会食となった。
  饗宴の儀式およそ次の通りであった。まず、家の主人は杯にワインを注ぎ祝福し、それから杯は周りの人々に渡された。その後、最初のコースを食べてから、第二の杯が祝福され、回された。それから、主人が食卓の上にあるパン種なしのパンを割き、各人に一切れを手渡す。それぞれのために主人が鉢に苦いハーブの小さな束を浸漬し、それを差し出す。この時点で、いくつかの詩篇が唱えられ、子羊が拝領された。続いて、第三と第四の杯が回された。詩篇のさらなる唱和でもって、お祝いが終わっていた。食事中に主人が、モーセの時代に戻ったかのように、記念される偉大な出来事を説明していた。

イエスはこのパターンを破った。ご自分が律法と契約の主であると知って、これまで記念されていた考えに終止符を打ち、代わりに新しい記念を確立された。同様に彼は記念される出来事によって確立されていた契約にも終止符を打ち、ご自分の死によって贖いの新しい契約を締結されts。
   イエスは、どこに手をつけたかを、我々は見ることができる。上記の聖ルカの箇所で言及される杯は、ぺサハの第三の杯である。ある解釈者は、主の言葉「皆、これを受けて回しなさい」に、「古い儀式に従って、最後の時として」と、美しくも加えている。それから、イエスはパンを取り、皆に渡す。これも、家の主人がやっていたことだが、今やイエスの言葉によって新しい意味を持つようになる。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」そして、家の主人がいつもしていた通り、「食事を終えてから」杯を取り、祝福し、神に感謝して捧げる。ここも、イエスの言葉によって新しい意味が与えられる。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
   生贄の動物の血によって締結された古い契約は終わりに来ている。新しい契約が締結された、これも血によってであるが、キリストの血である。キリスト自身が捧げられている、つい先に子羊が殺され、拝領されたように。彼の体は「あなたがたのために与えられる」、彼の血は、「あなたがたのために流される」。
  ここも、ぺサハのように、記念となっている。「わたしの記念としてこのように行いなさい。」 この言葉の続きであるかのように、聖パウロは第一コリントの手紙で、次のように書いている。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」(1コリ11・26)。
以上、ミサの制定が成り立っていつのは、このような出来事である。キリスト自身が、彼の愛、贖いとなる彼の運命が、その中味である。キリストが、古い契約という鋳型(いがた)に流し込んで、それを完結したのである。儀式的会食という形だけは残っている。それ以降は、新しい契約は、歴史の終わりまで、「主が来られる時まで」、それらの中味を保つのである。





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