トマス・アクィナス
『カトリック信仰の真理について
不信仰者の誤謬を論駁する書』
(『対異教徒大全』)
第2巻 序 論(第1章-第5章)
第二巻
第1章
第1章
第1巻と第2巻の連続性
「わたしはあなたのなさったこと(operibus)をひとつひとつ思い返し/御手の業(factis)を思いめぐらします。」『詩編』143、5。[1]
どんな事物であってもそれの完全な認識はそれの働き(operatio)[2]が認識されなければ得られ得ない。実際、働きの様態と種とから、能力(virtus)の尺度と質とは量られ、能力は事物の本性を示すのである。というのも、それぞれのものは現実的に一定の本性を得ていることに即して、働きをなすものだからである。[3]
ところで、哲学者〈アリストテレス〉が『形而上学』第9巻(1050a23-b2)で教えているように、事物の働きには二種がある。一つは働くもののうちにとどまり、働くもの自身の完全性であるようなものである。たとえば、感覚する働き、知性認識する働き、意志する働きがそうである。それに対してもう一つは、外的事物に移ってゆき、その働きによって作り上げられたものにとっての完全性であるような働きである。たとえば、熱くする働き、切る働き、建築する働きなどがそうである。[4]
さて、今述べた二つの働きのいずれもが神に適合している。第一の働きは神が知性認識し、意志し、愛することにおいて適合し、第二の働きは事物を存在へと産出し保存し支配することにおいて適合しているのである。しかし、第一の働きは働く者の完全性であり、第二の働きは作られたものの完全性である。そして、作用者は作られたものよりも本性上先なるものであるし、それの原因である。したがって、前述のうちの第一の働きが第二の働きの根拠であり、原因が結果に先立つように[5]、本性上第二の働きに先立っている。このことは人間的事象において明らかである。つまり、技術者の考察と意志とが建設の働きの原理であり根拠なのである。
したがって、上述のうちの第一の働きが、働くものの端的な完全性として、「働き(operatio)」、または「活動(actio)」という名称を得ることになる。それに対して第二の働きは、作られたものの完全性であることによって、「制作(factio)」という名称を受けることになる。だから、この種の作用を通じて技術者から存在へと進み出る(procedunt)[6]ようなものは手工物(manufacta)と呼ばれるのである。
さて、神の第一の種類の働きについては、われわれは神的認識と意志が論じられた前巻においてすでに述べた。そこで今、神的真理の十全な考察[7]のために残されていることは、第二の働き、すなわち事物を産出し支配する神の働きを論じることである。
そしてこれを論じる順序を冒頭の聖句から知ることができる。というのは、「わたしはあなたのなさったことをひとつひとつ思い返し」と述べられており、第一の種類の働きの省察が先に置かれている。それに対して、次に「御手の業を思いめぐらします」と語られたときに制作についての省察について述べられているのである。つまり、神の手によって作られたものとは天と地、そして技術者から手工品がでてくるのと同じように、神から存在へと出て来たすべてのもののことであると、われわれは理解しているのである。
被造物についての考察は信仰の教示に有益であること
さて、このような神の作ったものについての省察は神についての人間の信仰を教示するのに必要である。
というのは、第一には、作られたものについての省察からわれわれは神的知恵を何ほどか賛嘆し考察することができるからである。実際、技術知によって生じたことがらは、技術知の類似性へと作られたものとして、技術知そのものを表象するものだからである。ところで、神は自己の知恵によって諸事物を存在へと産出した。そのために『詩編』104篇24節で「あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた」と言われているのである。それゆえ、作られたものの考察から神的知恵を取りまとめることができるのである。それは、作られた事物において散在して何らかの仕方で伝達されている神の類似性を通じて取りまとめるようなものなのである。実際、『集会の書〔シラ書〕』1章10節では「神は自己の業のすべての上にそれを」すなわち知恵を「押し広げている」[8]と語られているのである。だから、『詩編』139篇6節で「その驚くべき知恵はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない」と語られている。また、続いて「夜も光がわたしを照らし出す」(12節)云々と語られているときには、神的照明の助けのことが語られているのである。そして、神的業についての考察から神的知恵を認識するのに自分が助けられたことを告白しているのが、「御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている」(14節)と語る言葉なのである。
第二には、この考察によって神の最高のちからへの賛嘆へと導かれ、それに続いて人間の心の中に神への崇敬が生み出されるからである。実際、制作者のちからは作られた事物によってより卓越した仕方で理解されなければならないのであって、だから『知恵の書』13章4節で「彼らは」すなわち哲学者たちは「それらのもの」すなわち天や星々や世界の元素の「力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ」と述べられているのである。また、『ローマ人への手紙』1章20節では「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」と言われている。また、この神への賛嘆から畏れと尊崇がでてくる。だから、『エレミア書』10章6-7節では「御名には大いなる力があります。諸国民の王なる主よ、あなたを恐れないものはありません」と語られているのである。
第三には、この考察によって人間の魂は神的善性への愛へと高められる。実際、第1巻で示されているように(第28,40章)、さまざまな被造物において個別的な仕方で配されている善性と完全性は、その全体が善性全体の源泉としての神において普遍的な仕方で一なるものとなっている。それゆえ、被造物の善性、美、甘美さが人間の精神を引きつけている。だとすれば、個々の被造物において見いだされる小川のような善性と比べるならば、泉であるような神自身の善性は、人間の魂を燃え立たせてその魂を全面的に自己の方へと引き寄せるのである。だから、『詩編』92篇5節で「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います」と語られるのである。また、他の箇所[『詩編』36篇9-10節]では人の子が「あなたの家」という被造物全体「に滴る恵みに潤い」、そして「あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり」とある。さらに、『知恵の書』13章1節ではある人々に反対して、「目に見えるよいもの」すなわち何らかの参与によって善である被造物から、「存在そのものである方を」、すなわち、第1巻で示されているように(第38章)、真に善なる、というより善性そのものである方を「知ることはできな〔かった〕」とあるのである。
第四には、この考察は人間を神的完全性の何らかの類似性においてあるものとする。というのは、第1巻ですでに示されているように(第49章以下)、神は自己を認識することによって、自己のうちで他のすべてのものを直観している。それゆえ、キリスト教信仰によって人間が神について主要に教示を受け、神的啓示の光を通じて被造物の認識者となる時に、人間のうちには神的知恵の何らかの類似性が生じることになるのである。このゆえに、『コリント人への手紙二』3章18節で「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」とあるのである。
以上から、キリスト教信仰の教示には被造物についての考察が含まれることが明らかなのである。だから、『集会の書』42章15節で「わたしは今、主の業を思い浮かべ、わたしの見たことを詳しく語ろう。主の言葉によって御業はな〔る〕」と語られるのである。
被造物の本性の認識は神に関する誤謬を論破するために役立つこと
また、被造物についての考察は真理の教示にとってだけではなく、誤謬を排除するのにも必要なのである。というのは、被造物に関する誤謬は、神についての真なる認識と背馳している限りにおいて、信仰の真理からの離反をもたらすことがあるからである。こういったことは多くの仕方で生じる。
第一には、被造物の本性を知らない者どもは時として、他者によってしか存在し得ないものを第一原因であり神であると想定し、目に見えている被造物を越えたものが何もないとみなしてしまうという転倒に陥るということによる。たとえば、どんなものであっても物体を神であると評価した人々がいたのである[9]。このような人々について『知恵の書』13章2節で、「火、息、すばやく動く空気、あるいは連なる星々、巨大な水、太陽や月を神々であると考えていた」と述べられているのである。
第二には、神のみに属することをある種の被造物に帰属させることによる。このことは被造物に関する誤謬からも生じる。すなわち、或る事物の本性が受容しないようなことがその事物に帰属させられるのは、その本性が知られていないからでしかない。たとえば、三本足ということが人間に帰属させられる場合がそうである。ところで、神のみに属することを被造物の本性は受容しない。それは、人間だけに属することを他の事物の本性が受容しないのと同じことである。それゆえ、被造物の本性が知られていないことによって、前述の誤謬が生じるのである。このような誤謬に反対して、『知恵の書』14章21節で「彼らは共有化されえない名前を木や石に与えた」と語られているのである。諸事物の創造、未来のことがらの認識、あるいは奇跡の働きを神以外の別の原因に帰している人々はこの誤謬に陥っているのである。
第三には、被造物の本性が知られていないために、被造物に働きかける神的ちからから何らかのことが差し引かれてしまうということによる。このことは次のような人々において明らかである。すなわち、事物に二つの原理を設定してしまう人、事物が神的意志からではなく、神から本性の必然性によって発出していると主張する人、さらに、すべての事物あるいはある種の事物が神的摂理を免れているとする人、あるいは神的摂理が通常の道程をはずれて働き得るということを否定する人である。このようなことすべては神的権能を弱めるものなのである。このような人々に反対して、『ヨブ記』22章17節で「彼らは万能である者が何もなすことができないかのうに見なした」と語られ、『知恵の書』12章17節では「あなたがちからにおいて全きものであることを信じない者に、ちからを示される」とあるのである。
第四。人間は信仰を通じて究極目的としての神へ導かれるのであるが、諸事物の本性を知らないことによって、したがって宇宙における秩序における自己の地位を知らないことによって、自分の方が上位にある何らかの被造物に自分は従属していると考えてしまうのである。たとえば、人間の意志を星辰[10]の下においてしまう人々がそうである。このような人々に反対して『エレミア書』10章2節で「民が怖れている天のしるしを恐れるな」と語られているのである。また、天使を魂の創造者であるとみなす人々や、人間の魂が可死的であるとみなす人々もそうである。そして、これと同様のことによって人間の尊厳を弱めている人々も同じである。
以上から、或る人々の見解が間違っていることが明らかである。すなわち、アウグスティヌスが『魂の起源について』で語っているように、神について正しい見解を持ってさえいれば、被造物についてどんな見解を持っているのかは信仰の真理に何の関係もないと語った人々の間違いである。実際、被造物に関する誤謬は神に関する間違った見解へと反響し、人間の精神を何か他の原因の下におくことによって、信仰がそれに向かわせようとしている神からその精神を離反させることになるのである。
だから、被造物について誤謬を犯す人々に聖書は不信仰者として罰を科しており、『詩編』28篇5節で「彼らは主の業を主の手の業において知性認識しなかったので、かれらを滅ぼし建てないようにしてください」とある。また、『知恵の書』2章21節では「かれらはこのことを考えたが間違った」とあり、その後に「聖なる魂の名誉を見分けなかった」とあるのである。
哲学者と神学者は被造物について別の仕方で考察すること
さて、上述のことから明らかなことであるが、キリスト教信仰の教えが被造物に関する考察をするのは被造物のうちに神の何らかの類似性が反映していること、また被造物における誤謬が神的なものに関する誤謬を導き入れてしまうこと、このことの限りである。だから、前述の教えと人間的哲学とでは、被造物は別の特質のもとに主題とされることになる。というのは、人間的哲学は被造物を被造物である限りにおいて考察する。だからまた、諸事物の類が異なるのに応じて哲学の諸分野が見いだされることになるのである。それに対して、キリスト教信仰は被造物を被造物である限りにおいてではなく(たとえば火を火である限りにおいてではなく)、神的高貴さを表象し神そのものへと何らかの仕方で秩序づけられている限りにおいて考察するのである。実際、『集会の書』42章16-17節では「主の業はその栄光に満ちている。主は聖者たちにも自分の驚くべきことのすべてを語らしめなかったのではないか」とあるのである。
a)このために、被造物に関して哲学者と信仰者とは別のことを考察することにもなる。実際、哲学者は被造物にそれ固有の本性に即して適合していることがらを考察する。たとえば、火において上昇するということを考察するのである。それに対して、信仰者は被造物について神に関係づけられている限りにおいて適合することだけを考察する。たとえば、被造物が神によって創造されたこと、神に従属していることなどである。
b)だから、天の形状や運動の性質など、諸事物の多くの固有性を信仰の教えが等閑に付すとしても、それは不完全性に属することではないのである。実際、自然学者も同じように、線について幾何学者が考察するような特質を考察するのではなく、自然的物体の限界である限りにおいて線に生じていることだけを考察するのである。
また、仮に哲学者と信仰者が被造物に関して何かを共通して考察する場合にも、別々の原理を通じて伝えられることになる。というのは、哲学者は議論を事物固有の諸原因から得てくる。それに対して、信仰者は第一原理から得てくるからである。たとえば、そのように神によって伝えられているから、あるいはこのことが神の栄光に資するから、あるいは神の権能は無限であるからということから得られてくるのである。
だから、『申命記』4章6節で「これは民の前でのあなたがたの知恵であり理解である」とあるように、信仰は最も高度の原因を考察するものとして、最高の知恵そのものと語られねばならないのである。
a)このために、人間的哲学は最高の知恵を原理的な知恵としてそれに仕えるのである。だから、時には人間的哲学の諸原理から神的知恵がでてくることにもなるのである。
b)というのも、哲学者たちにおいても、第一哲学というものがそれに与えられた課題を明らかにするために、すべての知識の証拠を用いるからである。
a)そこからまた、その二つの教えが同じ秩序で議論を進めるのではないことになる。というのは、哲学の教えにおいては、それ自体としての被造物を考察しそれから神の認識へと達するものであるから、最初に考察されるのは被造物であり神は最後に考察されることになる。ところが、信仰の教えにおいては、被造物は神への秩序においてしか考察されない以上、最初に神についての考察があり、のちに被造物についての考察があることになるのである。
b)この意味で信仰の教えの方がより完全である。つまり、自己を認識することによって他者を直観している神の有する認識により類似しているからである。
c)以上から、この順序に従って、第1巻で神それ自体について語られたことに引き続いて、神に由来することがらへと進むことが残っていることになるのである。
論述の順序
そこで、以下での議論の順序は次のようになるであろう。第一にわれわれは諸事物の存在の産出を論じる(第6~38章)。第二に諸事物の区別について論じる(第39~45章)。そして第三に、その産出され区別されている諸事物そのものの本性を、信仰の真理に属する限りにおいて論じることになろう(第46~101章)。
Shinsuke Kawazoe
平成15年9月26日
平成15年9月26日
第6章
他のものの存在の源であることは神にふさわしいことである。
878
[1] 第一巻ですでに示されていることを前提にして、それが他のものに対する存在の原理と原因であることが神に属していることを示そう。
879
[2]なぜなら、本書の第一巻(I, 13)で、アリストテレスのデモンストレーションによって、私たちが神と呼ぶ最初の作用因があることが示された。 しかし、作用因はその効果を存在にもたらす。 であるから、神は他のものの在ることの原因である。
880
[3]また、神と呼ばれる最初の不動の動者があることは、同じ著者の主張によって第一巻に示されていた。 しかし、動きの順番の最初の発動機は、その順番のすべての動きの原因である[11]。 そうであるから、多くのものが天の動きによって存在するようになり、そして神がそれらの動きの順に先導者であることが示されたので、それは明らかに神が多くのものに対する存在の原因であるということになる。
881
[4]さらに、それ自体で物にふさわしく[12]属するものは、普遍的にその中にあるに違いない。 人間は合理的であり、火は上がる傾向がある、というように。 しかし、効果を産出することは、それ自体で、現実態にある動者にふさわしく属することである[13]。 「すべての動者は現実態にある限り、行動している」からである。 したがって、現実態にある存在者はすべて、その性質上、現実態にある存在者を産出する。 しかし、第一巻に示されているように(I, 16)、神は現実態に存在するのである。であるから、現実態にある存在者の原因であり、それらを産出することは、神にふさわしいことである。
882
[5]さらに、アリストテレスが彼の『気象学』で指摘しているように [IV, 3; 380a 13-15][14]、それらが自分に似たものを生み出すことができるということが、低次の事柄における完全性のしるしである。 しかし、第一巻に示されているように(I, 28)、神は最上に完全である。 それゆえ、自分に似た現実態の存在者を作り、そうしてその存在の原因になることが、神にできるはずである。
883
[6]それから、第一巻では、神は彼の存在を他のものに似ていることによって伝えようとすることが示された(I, 75)。 しかし、『霊魂論』(De
anima III [433a 14-31])で述べられているように、行動と運動の原理となることは、意志の完全性に属している。 それゆえ、神の意志(御心)は完全であるので、神は自分の存在を類似性という形態で、何かに伝える力を欠いていないはずである。 そしてそれゆえ、神はその存在の原因となるのである。
884
[7]さらに、物事の行動の原理はより完全であればあるほど、ますます遠く離れた物事に対してもその行動を拡張することができる。したがって、弱い場合は火は近くの物だけを加熱する。 強くなれば、遠くのものでさえも熱くなる。 しかし、純粋な現実態(actus purus)は、神はそうであるが、それが私たちの中にあるように、可能性と混ざった行為よりも完全である。 ところが現実態は行動の原理である。 それゆえ、私たちの中にある行為によって、私たちは理解し意志するような私たちの中にとどまる行動だけでなく、私たちの外のもので終結[15]し、それを通して私たちによってなされる特定のこと(facta)へと進むことができる。 一層、神は現実態にあるから、理解し意志するだけでなく、効果をも生み出すことができるのである。 そしてそれゆえに、彼は他のものにあることの原因になることができる。
885
[8]それゆえに、次のように言われている:「測りがたく大きな業を数知れぬ不思議な業を成しとげられる方に」(ヨブ記 5:9)。
第7章
神に能動力を帰することができる
886
887
能動力とは、他者としての他者に働きかける原理にほかならない。ところが、神は他者にとって存在する原理である。したがって、力強くあることは神にとってふさわしい。
888
さらに、受動力は可能態にある存在者に伴われるように、能動力は現実態にある存在者に伴われる。実際、働く者がそうするのは現実態にある限りであり、可能態にある者は受動するのである。ところが、神は現実態にあり、したがって能動力をもつのはふさわしいことである。
889
神の完全性は、第一巻(第28章)で示されたように、自らにすべての完全性を含んでいる。能動の能力(virtus)は、物事の完全性に属する。実際、何でも完全であればあるほど、そこにより大きな能力を見いだされる。従って、能動の能力は神から欠けることはない。
890
また、働く者には、そうする能力がある。実際、能力のない者は、働くのは不可能である[17]。働くのは不可能な者は、必然的に働き得ない。さて、第一巻(I, 13)で証明されたように、神は働く者であり、動かすものである。したがって、神には働く能力がある。彼にふさわしく帰されるのは、能動力であり、受動力ではない。
891
それゆえ、詩編(89,9)にはこう書かれている。「主よ、あなたに威力がある(potens)」そして他の場所(71,18以下)で、「あなたの力とあなたの正義、神よ、高い天まで、すぐれた御業を行われた。」
第8章
神の能動力は神の実体であること
892
以上のことからさらに、神的能動力は神の実体(本質)そのものであると結論付けることはできる。
893
能動力は、現実態にある限りの存在者に相応する。ところが、神は現実態そのものであり、自己と異なる現実態によって現実態にされたものではない。[18]なぜなら、第一巻(第16章)で示されたように、神にはいかなる可能態もないからである。
894
力ある者は何でも、その力と同一でない場合、ある他者の力に参与しているのである。しかし、第一巻(第22章)で示されているように、神について「参与」を語りうることは何もない。従って、能動力は神の力そのものである。
895
さらに、能動力は、前章で明らかなように、物事の完全性と関係している。だが、第一巻(第28章)で示されたように、神のすべての完全性は神の存在性そのものに含まれている。従って、神的力は神の存在そのものとは別のものではない。ところが、第一巻(第22章)で示されているように、神は自らの実存である。従って、神は自らの力である。
896
能力は本質と同一されない物事の場合は、その能力は付帯的なものである。実際、自然的能力は、「質」の第二種類におかれる[19]。ところが、第一巻(第23章)で示されたように、神にはいかなる付帯性はありえない。従って、神は自らの力である。
897
さらに、自己と別の原因から成る者は、第一として自存する者に帰せられる。しかし、すべての他の動者は、第一動者である神に帰せられる。従って、神は自ら動者である。神はその本質を通して自ら働くものである。それによって行動する者は、その能動力である。従って、神の本質そのものは、その能動力である。
第9章
神において能力はその働きと同一であること
898
以上のことから、神の力はその働き(actio)とは別のものではないということを示すことができる。
899
第三者と同一の二つのものは、互いにも同一である。ところが、前章で示されたように、神の力はその実体である。第一巻(第45章)で知性認識について示されたように、その働きも実体と同一である。同じことは、神の他のもろもろの働きに当てはまる。従って、神においては、力と働きは別々のものではない。
900
また、物事の働きは、その力の何らかの完成である。働きは力に対して、第一現実態に対する第二現実態との関係と同じである[20]。ところが、神の力は完成されるのは、他ならぬ自己自身によってである。神の本質と同じであるから。従って、神においては力と働きは別々ではない。
901
その上、能動力は何らかな動者であり、それと同じように動者の本質は存在者である。ところが、上に示されたように(900番)、神的力は神の本質である。従って、神の行動とその存在性は同じである。しかし、神の存在はその本質である。そこから同じ結論が出てくる。
902
動者の実体でない働きは、動者に対して、主体に対する付帯性との関係と同じである。それがゆえに「働き」は、付帯性についての九つの述語のうちに数えられる。
|
アリストテレスの『範疇論(カテゴリー)』によれば、ある主体について語られるすべてのことは、九つのカテゴリーに入る。
1.
「実体」(例:人間、馬)
2.
「量」(例:2センチ、3センチ)
3.
「質」(例:白い、文法的)
4.
「関係」(例:二倍、半分、より大きい)
5.
「場所」(例:学校、市場)
6.
「時」(例:昨日、昨年)
7.
「体位」(例:横たわっている、坐っている)
8.
「所持」(例:靴を履いている、武装している)
9.
「能動」(働き)(例:切る、焼く)
10. 「受動」(例:切られる、焼かれる)
のいずれかである。
|
ところが、神において付帯性という様態で何もあり得ない。従って、神においては、働きは、その実体と能力とは別々ではない。
第10章
神における能力についてどのように語られるか
903
神の能力はその活動以外のなにものでもないので、そしていかなるものは自分の原因になることはできないために、神においてその活動の原理として能力を帰属させることはできず、むしるその産物の原理であることは明らかである。能力は他の主体に対して語られる場合は、原理または原因という概念を含んでいるので、そして、哲学者〔アリストテレス〕は『形而上学』第五巻(第12章、1020a5-6)言うように、能動力は「他なる者に対する働きの原理」であるから、神について能力を語るのは、産物に関してであり、つまり事物の真理性に関してであり、その活動に関してではないことは明らかである。もし、我々の理解の仕方に従って、その活動に関しても語るならば、それは我々の知性は両者、つまり神の能力と活動を、異なった概念でとらえているに過ぎない。従って、神について動者にとどまり、名何らかの産物に渡らない行動をふさわしく語られるのなら、それに関して能力(可能性)を語れない。もし、その語り方をするならそれは物事の真理に従ってではなく、理解の仕方に従ってであるに過ぎない。上述の行動とは、たとえば知性認識すること、意志することである。厳密な意味で、神の能力は上記の行動ではなく、その結果にだけ関連するのである。こうして、知性と意志は、能力としてではなく、活動としてのみ神にあることになる。
904
以上のことから明らかなように、神に帰せられる多数の行動、考える、定める、造る、その他似たようなものは、それぞれ異なった現実ではない。なぜなら、それぞれが、全く同一である神の存在性に同一されるからである。同一のものについて複数の表現を使っても、どのようにしてその真理性を損なわないことは、第一巻で示した(第31,35章)ことで明らかである。
[2] トマスは詩編のoperibusという語からoperatioを引き出し、factisは次章の外的働きにあてている。「聖霊の力強い働きにより、すべてにいのちを与え、とうといものにし(“Spiritus Sancti operante virtute vivificas et sanctificas universa”)」(第三奉献文)参照。
[4] 自分の中で、友達に電話をかけると思うこと(自分の中にとどまる)と、実際に受話器をとって電話をかけるのとは、かなり性格が違う。思っただけで実際に電話しなかったから、友達との関係は変わる場合がある。
[5] “In general,
causality denotes the objective and real counterpart of the question and
further questions raised by the detached, disinterested, and unrestricted
desire to know” (Lonergan, Insight, 1997, p. 674).近代科学はアリストテレス的な因果関係を疑問にしたが、上記のロナーガンの定義で考えると現代にも通用できると思われる。「一般的に因果性とは、(何ものにも)執着しない、私心のない、無制限な知る欲求によって立てられた設問とさらなる設問に対応する客観的で現実的なものを意味する」。第一巻第81章686参照。
[7] Kretzmann (1999, 9)が指摘するように、この「十全」(completam)は、神についての「完全(perfecta)な認識」(I,14,118およびI,30.278参照)と区別すべきである。考察すべき側面はすべて取り上げられるが、対象は完全に把握されるわけではない。
[11] Kretzmannが指摘しているように、一連の原因はすべて第一原因の結果であるのは、「本質的に秩序づけられた」場合である。例えば、手は杖を通して、石を動かす。娘の娘とそのお母さんは、そうではない。手は変化のプロセス全体を支えている。お祖母さんとお母さんが死んでも娘の娘は生き続ける。
[19] アリストテレスの範疇論(カテゴリー)参照。明日書くべき手紙について今、自分の心の中で考えること①と、明日実際に手紙を書くこと②とは、能力と能動性の観点から見た場合、同じぐらいの能動性をもっている。現実性の観点からみたら、②の方がはるかに高いと言える。神について能動力を語る場合は、②のタイプの意味であるべき。
[20] 練習などを通して200キロを挙げる能力を持つようになった(第一現実態)選手は、ベンチに座っているときにもその能がを認められるが、競技の舞台にのって実際に重量挙げするとき(第二現実態)は、その力は完成される。
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