Friday, April 26, 2019

Summa Contra Gentiles II 11-15 (905-931)


11
被造物との関係において神について語られる事柄について

905

能力はその結果との関係において神に帰せられるので、そして既述(前章)のように、能力は原理(原因)という意味合いをもち、原因は原因されたものとの関係で語られるために、神の働きの結果との関係で神に帰せられうる事柄があるとは明らかである。

906

また、甲は乙と関係していると言いながら、乙は甲と関係しているということは言えないことは考えられない。さて、物事は神と関係していると言われる。それは、まさに神からもらっている存在においてであり、上記(本巻第6章)のように、神に依存するからである。従って、逆に、被造物との関係で神について語られる事柄がある。

907

なお、似ていることは、関係の一種である。ところが、「作用者は自らに似せて作用するものである」[1]と言われるように、神も自らに似せて物事を造っている。従って、神との関係で語られる事柄がある。

908

さらに、知識は知られる事柄との関係において語られる。しかし、神は自分自身についてのみならず、他なる物事についても知識をもっている。従って、神と諸事物の関係について語られることがある。

909

また、動かす者は動かされる者との関係で語られる。動者がその結果との関係と同じように。上記のように(I13)、神は動者であり、動かす者である。したがって、神について関係は語られ得る。

910

また、「第一」とは何らかの関係を含んでいる。「最高」も同じである。ところが、第一巻(1341)で示されたように、神は第一存在であり、最高善である。

911

結論として、神についていろいろ関係的なことがらが語られるのは、明らかである。

12
被造物との関連で神に帰せられる諸関係は、実は神のうちにないこと

912

被造物との関連で神に帰せられる諸関係は、実際には神のうちにあることはできない。

913

実際それらは、主体に関わる諸偶有性のように、神にあることはできない。第一巻(第23章)で示されたように、神に何の偶有性もないからである。神の実体(本質)そのものであることもできない。なぜなら、哲学者〔アリストテレス〕は『範疇論』(6a36-37; b6-8; 8a39-b1)で言っているように、「関連するものごとは、その存在性において他なるものに関わる」からである。こうなれば、神の実体そのものは、別なるものとの関わりで語らなければならないことになろう。ところが、他なるものとの関連で語られるものは、その他なるものに依存することになる。それなしには、存在することも理解されることもできないからである[2]。従って、神的実体は外なるものに依存することになってしまう。こうなれば、第一巻(第15章)で示されたように、それ自体で「必然的に存在する」ことではなくなってしまうだろう。従って、上記の諸関係は実際には神のうちにはない。

914

また、第一巻(第13章)において、神はあらゆる存在者の第一尺度であることは示された。従って、神と他なる存在者との関係は、認識可能なあらゆるものと我々の認識との関係に比例している。我々の認識は認識対象の尺度であるから。なぜなら、哲学者の『範疇論』(4b8-10)に従って言えば、「事物が存在するかしないかによって、意見や命題の真偽は決まる」からである。ところが、理解可能とは認識に関して語られるが、その関係は実際は認識可能なものになく、認識においてのみ存在するのである。そのために、哲学者は『形而上学』第五巻(1021a29-30)において、理解可能と言われるものは、「自らにおいて他なるものへの関係をもっているからではなくて、他のものがこれらに対して関係的[相対的]である」から、そう言われるのである。従って、上記の諸関係は実際には神のうちにはない。

915

さらに、神に帰せられる諸関係は、現実態にあるものごととの関連だけではなく、可能態にある事物に関しても語られる。実際、神は後者について認識し、それらに対して第一存在者と最高善と言われる。ところが、現実態にあるものの現実態ではなく可能態にあるものとの諸関係は、実際の関係ではない。そうでなければ、同じ主体に無限の諸関係が現実態にあることになってしまう。例えば、2という数字を上回り、それと前後関係する数字は無限にあり得る[3]。神はもっている、現実態にあるものと可能態にあるものとの関係は、上述の関係とは変わらないだろう。神は産出した事柄から変えられることはないからである。従って、神は関連させられる事柄との関係は、実際に神の内にない。

916

それ上、何かに新しいことが起これば、それ自体によってか偶有的にかで、それは変わるのは必然的である。さて、神について、新たな関係が語られる。例えば、神は、初めて起こった新しい出来事の主とか主宰であると言われる。もし、神の内に実際に存在するものとして、何らかの関係性が語られるなら、神に何か新しいことが起こったということになってしまう。従って、神はそれ自体によってか偶有的にかで、変わることになってしまう[4]。しかし、それと反対のことは第一巻(第13章)で示されている。

1314[5]
神について述べられる上記の諸関係はどのように考えられるべきか

917

ところが、上記の諸関係は、いわば神の外にある何らかの事物であるかのように語られることはできない。

918

実際、神は第一存在者であり、さまざまな善の最高善であるため、神以外の存在者や善との関係は、事物のようなものであれば、その関係との関係を考えなければならない。また、この新たな関係は、事物のようなものであれば、第三のシリーズの諸関係を見付けなければならない。こうして、無限に進むことになる。従って、神以外の諸事物との関係は、神の外にあるものではない。[6]

919

また、何かが呼称的に述語されるには、二つのやり方がある。あるものが、そのものの外にあることから、例えば場所から、「ここやそこにある…」、あるいは時間から、「ある時にある…」と言われる。もう一つは、あるものに内在することから、例えば、白い色から「白い…」と言われる。さて、関係から、あたかも外からであるかのように、何かが述語されることはない。実際、「父親」と言われるのは、その人に内在する父性から他にないであろう。従って、神と被造物との諸関係は、あたかも神の外にあるかのような事物ではありえない。
上に示された(前章)から、つまり実際に神にある関係ではないのに、神について語られるから、次の結論しか残らない、神に帰せられるのは理解の仕方(述べられるintelligentiae modum)においてのみである。実際、我々の理解の仕方は、乙が甲と関係していると理解するときに、同時に甲と乙との関係をも把握するものであるが、必ずしも後者は実際にあると限らない。[7]

920

以上のことから、上記の諸関係は神に帰せられる仕方と、神ついてほかの属性の語り方は異なっていることは明らかになる。実際、知恵とか意志とかのほかの属性は、神の本質を表現している。被造物との諸関係はそうではない。帰せられるのは、我々の理解の仕方のゆえんのみである。だが、我々の理解の仕方は間違っているわけではない。なぜなら、神に由来する結果の関係が神自身にまで帰せられると我々の知性は理解している事実から、神自身ついて何か関係的な事柄を語っているからである。それは、理解可能なものを関係的に理解し、表現するのと同じである。なぜなら、知識というものは理解可能なものに関係しているからである。

921 (第14章)
さらに、神に帰せられる多様なの諸関係は神の単純性を損なわないことも明らかになる。神の本性にかかりなく、理解の仕方にかかわるからである。我々の理解力は、多様なものを理解し、それ自体として単純なものを複数の関係で考察することを許さないものはなにもない。単純なものは単純であればあるほど、多くの能力と原理をもち、従ってより多くの関連を持ちうるのである。例えば、[幾何学的な]点は、線よりも多くのものの原理となりうる。線もまた、面よりも多くのものの原理となる。神に多くの諸関係が帰せられるということ自体は、神の単純性を証ししているのである。[8]

15
神は万有の存在する原因である

922

神は、何らかの事物の存在の原因(原理)であると先に示された(本巻第6章)ので、残るは、神以外の存在者の存在は、神以外に何ものにも由来しないということを、さらに示すことである。

923

実際、ものごとに、それ自体として適合しないものは、そのものごとに適合するのは何らかの原因を通してである。例えば、人間に「白さ」が適合している場合。原因されていないものが、第一義的で直接的であり、そのあり方は自体によるものであり、必然的である。けれども、ある属性は、二つのものごとに、それら自体として、適合するのは不可能である。実際、あるものにそれ自体として帰せられる属性は、そのものを超え出ることではない。三つの内角は二つの直角に等しいことは、三角形を超え出ることではない。従って、ある属性は二つのものに適合するならば、両方ともそれ自体として帰せられることはない。従って、一つの属性は、原因に言及せずに、二つのものごとに帰されることは不可能である。一方は他方の原因でなければならない。例えば、火は混合体の熱の原因である。火も混合体も「あつい」といわれるが。あるいは、第三者は両方の原因でなければならない。例えば、二つのロウソクによる照明の原因は火である。
さて、「存在」とは万有について語られる。従って、二つの現実の内、一方は他方の原因であるか、あるいは両方は原因を通して存在を受ける以外はありえない。従って、何らかの形で存在する者すべては、原因されないものから存在を受けなければならない。しかし、上(第一巻第13章)に示されたように、原因されない存在者である。従って、いかなる仕方にもせよ、およす存在するところのものは、神に由来するのである。[9]ところが、「存在」とは、同音同義語(univocum)ではない、と反論されるかもしれない。その通りであるが、上記の結論には変わりはない。なぜなら、「存在」とは、多々について同音異義的に(aequivoce)語られるものでもなく、むしろ類似語(analogia[10]として語られるからである。従って、一つの原理に還元されるべきである。

924

あるものに、他の原因からではなく、本性から適合することが、そのものにおいて減ったり欠乏したりすることはできない。ある本性には本質的な何かが引かれたり加えられたりすると、別の本性になってしまう。数字においてのように、一つ足し算しても引き算しても、数字の種類は変わる。[11]ところが、本性や本質が変わらないで、あるものに何かが減ったり、欠乏したりしていると見られる場合は、変化は直接にその本性にではなく、別の現実に由来することは明らかである。その別の現実の欠如によって変化が起こるからである。従って、他なるものと比べて、より多くあるいはより少なく適合する属性は、本性によってではなく、別の原因によって適合している。従って、あらゆる類において、その類の属性は最高に適合する存在者がいて、その存在者はその類のあらゆるものの原因である。こうして、最高に熱いものは、あらゆるあついものの熱の原因であると思われる。また、最も明るいものは、すべての明るいものの原因である。ところが、第一巻(第13章)で示されたように、神は最高に存在するものである。従って、神は、それについて「存在」が語られるあらゆるものの原因である。

925

また、諸効果は諸原因に比例するので、諸原因の秩序は諸効果の秩序に対応するはずである[12]。従って、固有の諸効果の共通のものは共通の原因に還元されるように、固有の諸効果は固有の諸原因に還元されるべきである[13]。例えば、太陽は、あれこれの存在者の固有の産出を超えて、あらゆる産出の普遍的原因である。同じように、王国の統治の原因は国王であり、国王は諸副官や個々の諸都市を上回るのである。さて、森羅万象に共通しているのは「存在」である。従って、あらゆる原因の上に、「存在」を与える原因があるはずである。しかし、前に示された(第一巻第13章)ように、神は第一原因である。従って、存在するすべてのものごとは、神からでなければならない。

926

さらに、本質上言われている事柄は、参与ゆえに言われている事柄の原因である。例えば、火はすべての発火したもの、発火したものとしての原因である。ところが、神は、存在そのものであるから、本質上存在していると言われる。他の存在者は、むしろ、参与の故に存在者と言われる。何となれば、自らの存在である存在者は一つしかありえない、ということは第一巻(第42章)で示されている。従って、神は他のすべての存在者の原因である。

927

その上、存在することも、存在しないことも可能であるあらゆるものごとは、別の原因を持っている。存在する・しないことに関して中位にあるものごとは、どちらかに傾けさせる他なるものがなければならない。従って、無限に遡るのはできないから、存在することも、存在しないことも可能であるあらゆるものごとの原因である、ある必然的な現実がなければならない。ところが、必然的な現実のうち、その必然性の原因をもっているものもある[14]。ここも、無限に遡るのはできないから、本質上必然的な現実にたどり着く必要がある。こうしたものは、しかし、一つしかありえないことは、第一巻(第42章)で示されている。それは、神である。従って、神以外のすべての存在者の原因は神に因(よ)らなければならない。

928

先(本巻第7章)にみてきたように、神は物事の創造者(factivus)であるのは、現実態にある限りである。ところが、神はその現実性と完全性において、第一巻(第28章)で示されたように、万象のあらゆる完全性を含んでいる。従って、神は能力的にすべてのものであり、すべてを創造している。しかし、神以外のあるものは、もし神に因らずに存在しうるならば、これに反することになる[15]。実際、他者に因り、そして他者に因らない本性を持つものは何もない。もし、何かが他者に因らずして生まれたならば、それは自ら必然的存在であり、他者に因ることは一切ありえない。従って、神に因らないものなにもないのである。

929

また、動物の精液(semen)のように、不完全なものは完全なものから生じる。さて、第一巻(第2841章)で示されたように、神は最も完全な存在であり、最善である。従って、神は森羅万象の存在の原因である。上に示された(第一巻第42章)ように、第一原因は一つしかありえないと考えれば、なおさらである。

930

以上のことは、神的権威によって確証される。実際、詩編(1466)には、「天地を造り、海とその中にすべてのものを造られた神」とある。また、ヨハネ福音書(13)には、「万物は神によって成った。成ったもので、神によらずに成ったものは何一つなかった。」とある。さらに。ローマ書(1136)において、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。栄光は神に永遠にあれ。」とある。

931

このように、古代の自然哲学者たち[16]の誤謬は論駁される。彼らは、ある物体は存在原因をもっていないと主張していた。神は、天体の実体の原因ではなく、その運動のみの原因であると主張した人々も反駁される。



[1] 『形而上学』、(六、8 1033b29-32)参照。本書4巻において30回以上引用される。上記参照、48, 270, 393, 413, 907, 以下参照、937, 964, 977, 986, 992, 1004, 1067, 1100, 1162, 1173, 1176, 1201, 1220, 1225, 1233, 1286, 1562, 1736, 1830, 1883, 2007, 2035, 2292, 2449, 2452, 2825
[2] 手工品は職人に依存している。職人は人間であり、職人であることは人間の本質に属さない。従って、人間としての職人は、手工品との関係なしにも存在することはできるし、理解されることもあり得る。
[3] 「ヒルベルトの無限ホテル」のパラドックス参照。
[4] もし、私のいとこ違い(私の父母のいとこ)の子供に初めての子供ができたとしても、私にはそれほどの変化はないであろう。「背理法」(reductio ad absurdum)、帰謬法ともいう。例えば、ある窃盗事件の二人の容疑者a、bについて、次の事実が明らかになった。誰が犯人である、あるいは誰が犯人でないと結論できるか。(1)a,b以外に犯人はいない。(2)aが盗みをやるときは必ずbを相棒にする。解答。bは犯人である。証明の方法はいろいろあるが、背理法を使えば結論の否定を仮定してみる。bが犯人でないと仮定してみよう。そうすると、この仮定と前提(1)によりaが犯人でなければならない。しかしaが犯人なら、前提(2)によりbが犯人となり、結局bは犯人でありかつ犯人でないという矛盾が生じる。ゆえに仮定が偽であり、bは犯人である(内井惣七、『いかにして推理するか、いかにして証明するか』、ミネルヴァ書房、3ページ以下参照)。第一巻第1386番参照。
[5] トマスの直筆写本には第13章と第14章の区別は設けられていないが、のちの編集者による便宜上の区別だと思われる。
[6] 今、私が使っているこのコンピュータ(C)と私(A)との関係を「CA関係」と呼ぼう。もし、この関係は手に取れるようなものであれば、私と「CA関係」との関係(ACA関係)と「CCA関係」を考えなければならない。また、AACA関係とCCCA関係も考えなければならない。などなど。無限まで進むこの論じ方に明らかに問題がある。
[7] ある子供が大人の女性を「お母さん」と呼んでいる。そうすると、我々はその女性は産みに親と考えるが、もしかすると「養親」かもしれない。
[8] ここで、トマスは神の概念の非擬人化と非神話化を試みていると言える。
[9] 第一巻第15章参照。
[10] 第一巻第3234章参照。
[11] 1%の違いで「円高」になったり、「円安」になったりする。
[12] 食べ物の消化には、それぞれの器官(口、胃袋、腸など)の固有の働きと固有の効果がある。
[13] 日産自動車の「インフィニティ」と「ジューク」は、共通の原因として、「横浜工場」を持っている。横浜とイギリスで作られた日産自動車は、日産株式会社に共通の原因がある。
[14] 地球上に人間が生きていくために、必然的に空気がなければならない。空気が存在するために地球の引力がなければならない。地球の引力があるために、「古典力学」の運動法則がなければならない。
[15] 充足理由律(じゅうそくりゆうりつ、英:Principle of sufficient reason)とは、「どんな出来事にも原因がある」、「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という原理。すなわちどんな事実であっても、それに対して「なぜ」と問うたなら、必ず「なぜならば」という形の説明があるはずだ、という原理のこと。なお、充足理由律とは「すべての真なる思考は根拠づけられているべきであるという法則である」とする見解もある。
「充足理由律」という名称を与えたのは17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツである。ライプニッツは充足理由律という名称を作り、それを事実の真理を保障する為には充分な理由がなければならないとする原理とし、推理の真理を保障する矛盾律に対する、論理学の二大原理の内の一つとして扱った。なお、自然諸科学も、この原理を前提にしている。常識的に考えても、銀行口座からお金がなくなったとわかったら、「偶然になくなっただろうな」と考えずに、「誰か取った(おれ詐欺かな)」と考えるだろう。
[16] アリストテレスは『形而上学』A において、哲学の祖はミレトスのタレースであり、彼は万物の根源(アルケー)を水であるとしたと記している。アルケー(αρχη)とは、「はじめ、始源・原初・根源・原理・根拠」等のことであり、哲学用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙の起原である。それ以外にも、ヘラクレイトスは火を、ピタゴラスは数をアルケーとし、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体)が根源であるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(無限定)(アペイロン)がアルケーであると考えた。
ヨハネ福音書は、その冒頭に「エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)と記されているが、代表的なラテン語訳である『ウルガータ聖書』では、この部分を、「In principio erat verbum 」と訳している。「principium」はラテン語では「はじめ」という意味以外に「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは「世界の根源原理」としての神への問いとして、中世のスコラ哲学に引き継がれた。

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