第16章
神は万物の存在は無から想像されたこと
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神から出た効果に先在するものがあるか、あるいは先在するものはないか、どちらかである。先在するものがなければ、上記の命題は然りとなる。つまり、何も先在することなしに、神は何らかの効果を産出する。ところが、先在するものがあれば、無限の系列に遡るか、ただしそれは哲学者〔アリストテレス〕が『形而上学』第2巻(994a1-b31)で証明しているように、自然的原因において不可能である。あるいは、何も別の前提をもたない何か第一のものにたどり着くか、どちらかである。しかし、その第一のものは、神自身以外はありえない。実際、第一巻(第17章)で示されたように、神は何かのもとの材料ではない。そして先(前章)で示されたように、神以外のもので、神がそれの存在原因ではないものはない。残るは、神の産出する効果には、先在する材料、それをもとに働きかけるものはない、ということである。
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いかなる質料も、形相を受けることによって、一定の種に限られるようになる[2]。従って、先在するものから働きかけ、何らかの形相を持たせる動者は、一定の種に限られる動者であることは明らかである[3]。ところが、こういう動者は特殊的な動者である。原因は結果に比例するから。従って、そこから働きかけるために先在する材料を必要としている動者は、特殊的な動者である。ところが、神は、先に(前章)示されたように、存在の普遍的原因として働きかけている。従って、神は働くために何も先在するものを必要としない。
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さらに、ある結果が普遍的であればあるほど、その固有の原因は高度でなければならない。なぜなら、原因は系列に高ければ高いほど、その能力はより多くのものに及ぶからである[4]。さて、存在は運動よりも普遍的である。自然哲学者も教えているように、石など不動の存在者もあるから。従って、運動させ変化させるしかできない諸原因の上に、存在させる原理となるあの原因があるはずである。ところが、そのような原因は神こそであると示してきた(前章)。従って、神は働くのは、運動させ変化させるに限らない。しかし、先在する材料なしに、物事に存在を与えることはできない諸現実は、運動させ変化させるしかしない。質料から何かを作りだすのは、何らかの運動か変化を通じてであるから。従って、先在する質料なしに、物事を存在に産出することは不可能ではない。
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また、運動させ変化させるしか働かないものは、存在することの普遍的原因に適しない。実際、運動や変化を通じて、非存在から端的に存在は出てこない。むしろ、非乙から乙が出てくるのである[5]。ところが、先に(前章)示されたように、神は存在することの普遍的原理である。従って、運動させ変化させるしか働かないことは、神には適しない。従ってまた、何かを作りだすときに、先在する材料を必要とすることも、神に適しないのである。
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「すべての作用者は、何らかの方法で自らに似たものを作る」[6]。しかし、作用者は、現実態にある限り、作用するのである。したがって、何らかの方法で材料に形相を内在させることによって効果を生み出すことは、その作用者全体によってではなく、それに固有の形相によって実現態にある作用者に適切である。こうして、哲学者〔アリストテレス〕は、『形而上学』第7巻(1033b10)で、物質の中に形相を持っている物質的なものは、それ自体として実在する形相によってではなく、物質の中に形相を持つ物質的な作用者によって生成されることを証明している[7]。しかし、神は、神に内在する何かを通してではなく、上で(第一巻第22,23章)証明されたように、全体的な実体を通して、行動している存在である。それゆえに、神の行動の正しい様式は、単なる内在する実体、すなわち物質における形相ではなく、存在するもの全体を生み出すことである。さて、その行動に材料を必要としないすべての動者はこのように振る舞う。その結果、神の行動において、神は既存の事柄を必要としない。
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そしてまた、物質はその作用者から始まる作用の受動者として、作用者に関して成り立つ[8]。実際、作用は、作用者に属するのは、出発点としてであり、受動者に属するのは、内在的なものとしてである。したがって、物質は、それがその作用者の行為を受けることができるためにその作用者から要求される。受動者の内在で受け止められる作用者の行動は、受動者の実際の実態であり、その中にある形相、または形相の始まりである。しかし、上で(本巻第8,9章)証明されたように、神の行動は自らの実体であるので、受動者に受け入れられなければならない行動ではない。したがって、神は効果を生み出すために既存の事柄を必要としない。
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また、その行為が物質の以前の存在を必要とするすべての作用者はその行動に比例した物質を所有しているので、作用者の可能性はすべて物質の力の範囲内にあるものである[9]。さもなければ、作用者はその有効な力の範囲内にあるもの全てを実現することができず、それゆえ、それが実現できないことに関しては、その力を無駄に持つことになる。しかし、物質はそのような神との比例関係にはない。 哲学者〔アリストテレス〕は、『自然学』第3巻(206b15-27)で指摘しているように、特定の量に対するポテンシャルは存在しない[10]。これに対して、第一巻(第23章)で証明されたように、神の力は絶対的に無限である。それゆえに、神の行動のための必要な根拠として、神は既存の事柄を要求されない。
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さらに、それぞれ異なるものには異なった質料がある。なぜなら、霊(精神)的な事柄は物体的な事柄の質料と同じではなく、天体の質料も腐敗しやすい物体の質料と同じではないからである。確かに、これは、物質の性質である受容性がこれらの存在者において同じ性質ではないという事実から明らかである。霊的なことへの受容性は、その性質上理解可能である。こうして、知性は、それらの物質的存在ではないが、理解可能なものの種を受け取る。天体は新しい地位を獲得するが、下部の存在者がそうであるように、新しい存在を受けない。それゆえ、普遍的な存在に潜在的なものは何一つもない。しかし、神は物事の総体的存在(totius esse)に関して普遍的に生産的である。それで、比例した方法で、神に対応するいかなる質料もない。それゆえに、神は質料を必要としない。
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さらに、諸事物の間に相互の比例関係や秩序が見いだされる場合、それらのもののうちの1つは他のものから、または両方は第三者のあるものから派生させる必要がある[11]。秩序は他のものに対応することによって設立されなければならないからである。さもなければ、秩序や比例は偶然の結果となろう。しかし、それは物事の第一原理では許されない。なぜなら、それを認めるとそれから尚のこと他のすべてが偶然であるという結論になってしまうから。であるから、神の行動に比例した質料が存在するのであれば、それは一方が他方から派生したものであるか、または両方とも第三者のものから派生したものであるか、どちらかである。しかし、神が最初の存在であり最初の原因であるので、神は物質から出た効果であることはできず、また神が自分の存在を第三者の原因から引き出すこともできない。それゆえ、神の行動に比例した質料が存在するのであれば、神ご自身がそれの原因であるということに変わりはない。
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さらに、最初に存在するものは、必然的に存在するものの原因である[12]。なぜなら、それらが引き起こされていないのであれば、先(941)示したように、最初から存在するものに秩序付けられないからである。さて、現実態と可能性の間で得られる順序は次のとおりである。一つの同じことにおいて、時々現実態であったり可能態にあったりするが、時間的には現実態より可能態は先在する。本性的には現実態は可能性よりも前にあるはずであるが。それにもかかわらず、絶対的に言えば、現実態は必然的に可能性の前にある。これは、実際に存在していること以外には可能性が実現されていないという事実から明らかである。しかし、物質は潜在的にしか存在しない。であるから、純粋な現実である神は、絶対的に物質の前にいなければならないし、その原因でなければならない。それで、物質は必ずしも神の行動のために前提とされない。
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また、ある意味で第一質料[13]は存在する。それが潜在的に存在するからである。しかし、神は上(前章)に示されたように、すべての原因である。それゆえに、神は第一質料の原因であり、第一質料以前には何も存在しない。それゆえ、神の行為は既存の性質を必要としない。聖書はこの真実を承認している。「初めに神は天と地を創造された」(創世記1:1)。実際、創造するということは、既存の物質なしに何かを存在に産出することに他ならない。この真理は、物質には何の原因もないと主張した古代の哲学者の誤りに反論している。彼らは、特定の動者の行動には、常にその行動の根底にある先行する何かがあると認識していたからである。そしてこの観察から、彼らはすべてに共通の見解を仮定した。つまり、「無から何もならない」。さて、確かに、これは特定の動者に当てはまる。しかし、古代の哲学者たちは、全存在の生産者である普遍的な動者の知識にまだ達していなかった、そしてこの普遍的動者の行動には何も前提をおく必要はないのである。
[6] “Omne agens agit simile sibi”。スコラ哲学の基本命題の一つ。上掲、48,
270, 393, 413, 907参照。以下、964, 977, 986, 992, 1004, 1067,
1173, 1176, 1201, 1220, 1225, 1233, 1286, 1562, 1736, 1830, 1833, 2007, 2035,
2292, 2449, 2452, 2825参照。
[7] 「なるほど、青銅の球としての存在は我々によって作りだされる、すなわち我々はこれを青銅と球とから作り出す。というのは、これこれ〔の質料〕のなかにこれこれの形相を作りこんで、そしてそこに作られてあるこれが青銅の球なのであるから。しかし、もし一般に球なるもの〔球の本質〕に生成があるとすれば、これもまた或るものから或るものがという仕方で生成するのであらねばならない。なぜなら、生成するものは常に部分を有するものであらねばならず、そしてその一つの部分はあれであり他はこれである、すなわち、一つは質料で他は形相であらねばならない。そこで、もし〔球の本質が生成しうるものであり我々の作りうるものだとすれば、そして〕この球なるものが「その球面のすべての点がその中心から等距離にある図形」であるとすれば、これの一つの部分は我々の作ろうとしているこのもの〔球なるもの〕がそれに包摂されるところのそれ〔すなわち類としての図形〕であり、他の部分はそれに包摂されるところのもの〔種差としての等距離性〕であり、そしてその全体はこれらから生成したもの〔球そのもの〕で、さきの例で言えば「青銅の球」に比せられるものである。さて、上述からして明白なことは、まず(1)形相または実体〔形相としての実体〕の意味で言われるものは生成せず、生成するのは〔質料と形相との〕結合した実体(すなわち形相としての実体の名で呼ばれる具体的個物)であるということ、および(2)およそ生成した事物にはすべてそれに質料が内在しており、そしてその一部分はこれ〔質料〕であり他の部分はあれ〔形相〕であるということである。」(出隆(いで・たかし)訳、岩波文庫)
[9] 画家たちは、ウルトラマリンという色を作るために、ラピスラズリ―という物質を使ってきた。例えば、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」や、聖母マリアの衣装などは、ラピスラズリ―無しでは、制作することは不可能であったと言われている。
[13] 全く質料をもたない純粋形相(神)に対する全く形相のない純粋質料という概念。現代の自然科学で言えば、すべての物質の根本(たとえば、「原子」や「量子(quantum)」に共通するエネルギーがあると考えているのに似ている。
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