復活節4主日 B
【ヨハ10:11ー18 イエスは良い羊飼い】
「私は良い羊飼い。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10:11)。
ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)などなど。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白の言葉でもあるのです。
パレスチナ地方は、雨が少なく、緑も豊かではありません。このような地方で自分の羊に水を与え、牧草を与えて養うことは、とても厳しい仕事でした。旧約聖書の中でも、その地に住む人々が大きな干ばつに見舞われた出来事や、井戸を確保するためにこの地方の部族が争った出来事などが数多く記されています。また、この地方では一日の寒暖の差も大きく、砂嵐の季節があったり、一年の内の気候の変化も激しく、羊飼いはそのような中をあちこちに点在する僅かな青草と水飲み場を求めて、自分の羊を導くのです。
このような地方では、野の獣にしても餌(えさ)になる物はそれほど多くはなく、狼などの野獣が羊を襲いに来ることも決して珍しいことではありませんでした。羊飼いはこのような外敵から自分の羊を守り、自分が飼っている羊に水と青草を与えるために、命がけで働き、また羊はか弱く迷いやすい家畜ですから、羊飼いに導かれることなしには生きていけなかったのです。このように羊飼いと羊が一体となっている姿は、パレスチナの人々にはごく身近なものであり、主イエスさまは、しばしばこのような羊飼いと羊の譬えを用いて弟子や群衆に神のことを語り聞かせたのです。また、ユダヤの指導者たちと論争をする時にも、主イエスさまはこうした身近な譬えを用いられたのです。
この福音書の記者ヨハネは自分の信仰の証として主イエスさまを読者である私たちに紹介し、私たちを「良い羊飼いである主イエス」のみもとに招き、導こうとしていることがよく分かります。今日、私たちは主イエスさまが聖書のみ言葉によって、迷える羊のような私たち一人ひとりの名を呼んで下さり、私たちをみもとに招いておられることを覚えることができたら幸いです。
私たちが羊飼いである主イエスさまに一人一人の名前を呼ばれていることを考えてみましょう。 羊飼い主イエスさまは羊飼いがその羊の一頭一頭に名を付けその性質も知っておられるように私たちの全てを知ってくださり、私たちの名を呼び、一つの群れとするために、私たちを導いてくださっておられるのです。私たちは、生まれてから今日まで、どれだけ自分の親や周囲の人々から、自分の名前を呼ばれたことがあるでしょうか。私たちがまだ乳飲み子で自分で自分が誰であるかを意識できないような時から、周りの人から優しく穏やかで柔らかな声で数え切れないほど幾度も名前を呼ばれて来たのはではないかと思います。
それは例えて言えば、まだ形の定まらない大理石の原石にノミを加えているようなことであり、私たちが名前を呼ばれるたびに少しずつ自分が名前を持った尊い一人の人間であることを刻み込まれ、次第に今の自分が彫り上げられてきたと言えるのではないでしょうか。あるいはまた、身に危険が及びそうになった時や過ちを犯しそうになった時に、親は厳しく子どもの名前を呼んで、安全な場所へ連れ戻し、もう危険な所に行かないように、更にはもう過ちを繰り返さないように導こうとします。そのように子を知り子を思う親のように、羊の一頭一頭を知っている良い羊飼いである主イエスさまは、私たちの名を呼び私たちをかけがえのない羊として導こうとしておられるのです。
私たちは、良い羊飼いであられる主イエスさまの御声を聞き分けることができるでしょうか。イエス様を信じて従おうとされるなら、そのみ声を聞き分けることが出来るのです。主イエス・キリストは、このみことばの通りに、十字架に掛けられ、永遠の滅びから私たちを救ってくださるために死んで下さいました。羊と羊飼い(牧者)とどちらが価値があるでしょうか。もちろん、それは言うまでもなく、羊飼いの方にはるかに価値があります。しかし、驚くべきことにその羊飼いが羊のためにいのちを捨てられたのです。主イエスさまの御声を聞いて従って行くことは、私たちがかけがえのない自分自身として生きていくことを意味しています。私たちは、主イエスさまによって養われ導かれている者として、羊飼い主イエスさまのすばらしい福音を囲いの外の多くの迷える羊たちにも届けるために働くことができる者となるのです。
囲いの外にいる羊や主イエスさまの御声を聞かない羊は、良き羊飼いである主イエスさまの御声に導かれて生きる人々を見て初めて自分もその喜びに与りたいと思い、自分も主イエスさまの愛に触れたいと思うようになります。ですから、良き羊飼いである主イエス様に導かれるクリスチャンたちは、主イエスさまの御声を聴き、導かれ、生かされていくことがどんなに大きな喜びであるかを僅かでも証しできればと願っているのです。私たちは、すべての人が良き羊飼いである主イエスさまのもとに導かれることを願っています。クリスチャンは、そのためにこの世に遣わされている者たちなのです。私たちは、一人でも多くの人が感謝して主イエスさまの福音を信じてみ言葉に聞き従っていくことが出来るように祈っているのです。
また、主イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネの福音書10:17,18)と言われました。主イエス様は、人間の側から見ると、そのいのちを無理矢理に奪われたように見えますが、そうではなく、自ら進んでいのちを捨てられ、また十字架の死後、墓に葬られ、三日目に自らよみがえられた御方なのです。どうか、このようなすばらしい救い主を信じて救われ、希望に満ちた生涯に導かれる主イエス様に従う方となって下さい。
●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(御父なる神)は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。」(イザヤ書53:6)。
●「わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして、彼ら(クリスチャン)はわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10:27)。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/9a10aab2426bf822540f6707b89a4e12
確かに私はイエス様のことは完全には知らないかもしれない。しかし私のために死んで下さった方がいる。それがイエス様だと知っている。もしこのことが本当に分かったならば、他に何を知る必要があるでしょう。私のために死んで下さった神の子がいる。それだけ知っていればもう十分知っていると言えるのです。
私がそのことを真に悟ったとき、嬉しくて人々に告げ知らせたい衝動にさえ駆られます。毎週ミサに通いながら、自分が変わっていないのなら、それは復活体験前の使徒と同様に、ただ情報としてイエス様のことを聞いているだけだからなのではないでしょうか。
真にイエスが自分のために死んだと理解するなら、自分も人のために死ねるように当然変わって行かざるを得ない。私も「御子に似た者とな」らざるをえないのです(Iヨハ3:2)。
こうしてあの弱虫の裏切り者のペトロも聖霊に満たされ、堂々と主の復活を議員・長老の前で宣べ伝えるものに変わっていった(使徒4:8)。ペトロの心にあったのは「私の弱さを背負って死んで下さった。そして復活して下さったイエス様。アレルヤ!」という満たされた思いだったでしょう。それに尽き動かされ、ついに殉教をするにまで変えられました。
イエス様の十字架の死。それは、私をとても大切に思ってくださった神様が、この私の罪、弱さ、寂しさ、満ち足りなさ、つまり神様から離れようとするところから救い、補い、償い、帳消しにするため。それをキリスト者は信じます。
No comments:
Post a Comment