Sunday, April 22, 2012

5 Easter B

復活節5主日
  【ヨハ15:1ー8 イエスはまことのぶどうの木】  
「私につながって、実を結びなさい」。

教会暦と聖書の流れ

復活節第5、第6主日の福音では、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。世を去るにあたってイエスが 弟子たちに語られた遺言のような言葉ですが、なぜ、これが復活節に読まれるのでしょうか。これらのイエスの言葉はほとんどが 「わたしは去っていくが、何かを残していく、その何かのかたちでわたしはずっとあなたたちと共にいる」という約束です。この 約束は、福音書を書いているヨハネにとっては将来のことではなく、すでに自分たちの中で実現した現在のことでした。今のわた したちもこのイエスの言葉が、わたしたちの中で現実になっていると気づくときに、イエスが今も生きていることを確信できるの です。復活節は、ただ単に2000年前にイエスが死者の中からよみがえった、ということを祝う季節ではありません。復活して今も 生きておられるキリストとの深いつながりを味わう季節なのです。

枝が木全体の中にとどまっている、というイメージは分かりやすいと思いますが、ぶどうの木全体が一つ一つの枝のなかにとどま っている、というイメージはどうでしょうか? ぶどうの一房一房の中にぶどうの木全体が含まれている、というと、現代人には 携帯電話の話のように聞こえるかもしれません。(一人一人の電話は電話会社につながっている、そしてその会社の技術はすべて1 個の電話に現れます)。となると、一人のクリスチャンの中に、キリストとつながっていれば、キリストのすべての力が現れる、 ということになるかもしれません。とにかく、ヨハネ福音書は「互いが互いのうちにとどまる」という表現で両者の深い交わりを 表そうとしています。  

「キリストがわたしのうちにおられる」と感じるのはどんなときでしょうか。「わたしがキリストのうちにいる」ということは 、どんなときに感じられるでしょうか。それを自分たちの経験の中に見つけることができれば素晴らしいことでしょう。 たとえば、2節「手入れをなさる」。イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しいこと・痛いことがありますが、それが自分にとって 大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験はわたしたちにもあるのではないでしょうか。 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そ うすればかなえられる」(7節)という約束がありますが、このような約束は、ヨハネ14章13-14節、15章16節、16章23-24節でも繰り 返されます。もちろん誰の中にも「祈りがかなえられなかった」という苦い経験があるでしょう。わたしたちはこのイエスの約束 をどう受け止めるべきでしょうか。ここでは、キリストの愛に結ばれてわたしたちが願うことは、わたしたち自身が愛する者にな る、わたしたちの中に愛が実現することだ、と言えるかもしれません。そしてわたしたちのこの願いと祈りを支えるものは、イエ スご自身が苦しみと死を味わい、愛によって死を越えて、愛そのものである神と一つに結ばれた、という信仰なのです。何度も繰 り返される「実を結ぶ」ということも「わたしたちの中に愛が実現する」ことそのものだと言えるでしょう。そして、それは「イエ スの弟子になる」こと、「父が栄光を受ける」ことにつながっています。

  (5) このように見てくると、「イエスというぶどうの木につながっている」ということは洗礼やミサへの参加などよりももっ と根本的な生き方の問題だということが分かります。もちろん、ミサや秘跡をとおしてイエスにつながることは大切です。でもそ れはもっと大切な、目に見えないイエスとのつながりを生きること、そして、わたしたち自身が愛する者に変えられていくことを 表しているものなのです。  2節「つながっていながら、実を結ばない枝」や6節「つながっていない人」に対する厳しい言葉は、キリスト信者でない人を断 罪するための言葉ではなく、キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないようにと警告するための言葉です。わたしたち はキリスト信者でなくとも、愛によってキリストにつながっている人を知っています。その人々についてここでは直接的には何も 述べられていません。ここで問いかけられているのは、キリストの愛を知ったわたしたち自身の生き方の問題なのです! イエス様につながって実を結んでいるかどうかは、愛がそれにより実っているかによって分かります(Iヨハ3:18)。実りに愛が 実現されていなければ、たとえ神のため一所懸命働いていても、それは独善、偽善で終わっている可能性があります。ちょうどイ エス様に出会う前のサウロが、神のために働きながら、キリストの教会を迫害していたように。愛が生じ実っているのか。このこ とが真の実りかどうかの目印になります。  私たちはふだん、自分や自分のグループの権利を守ろうと、正義、正しいと思うことを主張することが結構あります。その時、 とかく愛を忘れ、人を裁き、切り捨て、独善的になりがちです。教皇ヨハネパウロ2世が明確にしましたが、過去のユダヤ人、 プロテスタント教会、他宗教との関わりには、反省すべきところがあるのは、そこでは正義の名のもとに愛が忘れてしまったからです。 もしかすると、私たちは同じ過ちを繰り返しているかもしれません。

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