復活節第三主日 B
ルカによる福音(24:35-48)
聖書には、作り話ときこえる部分がありますが、間違いなく歴史的事実と言えるで部分もあります。
例えば、「イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られたこと。その事実を目の当たりにしたとき、弟子たちが、自分も同じような目にあうのではと逮捕を恐れ、皆逃げ出してしまったこと。そしてその同じ弟子たちが、その後、自分の命さえなげうって、自ら死ぬことになりながらも、イエス様の復活を第1朗読に見たように証しするものに変わったこと。その命がけの弟子たちの宣教によりましてキリスト教が成立し全世界に広まったこと」。これらのことです。
しかしここには常識的には、どうしてもつながらない2つの事実があります。「イエス様の死とそれを見た弟子たちが皆、裏切り、逃げ出してしまった」こと。そして「その同じ弟子たちが命を捨ててまで宣教した」こと。この二つには大きな溝があります。そしてこの2つをつなぐものこそ、イエス様の復活の出来事ということになります。
しかしこの復活という出来事こそ、躓きであり、正しく理解することの難しいところです。世間では幽霊の話は、結構聞きますので、イエス様の復活の出現を、この幽霊話と結び付けて理解するかもしれません。しかし今日の箇所は、復活の出来事が幽霊話とはまったく違うことを、証しする大切な箇所ということになります。
弟子たちもイエス様が現れたとき、亡霊が現れたと思い、恐れ、びっくりしたのです。むしろ聖書に記される弟子たちの復活体験は喜びよりは驚きと恐れのほうが強調されています(マコ16:8)。それにはさらに裏切ってしまったイエス様に顔を向けられない、今会うのは恐ろしいという思いもあったかもしれません。
しかしこうしておののく弟子たちにイエス様はこうおっしゃいました。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」。そう言って手足を見せた。それでも不思議がっている弟子に、わざわざ焼いた魚を食べて見せた。ここにはイエス様のユーモアがある感じがします。そこに「あんな人知らない」といって逃げてしまった弟子へのゆるしも含まれているように思えます。
私たちも目の前で死んだ人間が、突然現れたらびっくりして逃げ出してしまうでしょう。しかし肉体があることをしっかりと見せただけでなく、物を食べ、本当に、そこにいるのが死に打ち勝ったイエス様がいるということを証してくださったのです。聖書はこのようにしてイエス様の復活の出来事、赦す神、神様の愛を伝えます。
私たちはこのことから、自分の復活も同じことだと分かります。
復活とはただ死後霊的な部分だけが続くということではない。滅びた肉体がよみがえり、霊とともに、永遠のものに、滅びない肉体に変わるということです。これは確かに私たちには理解しがたいことです。永遠の滅びない肉体というものを理解できないからです。肉体は滅んでいくもの、老いて行くものというのが私たちの常識です。しかし聖書は復活の事実を霊と肉が永遠のものに変わることと言います。
確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。
聖書はこう私たちに迫っています。「臆病者の私たち弟子が変わった。それはこのようにして実際に復活の出来事を体験したからだ。そして裏切り者をさえ赦す神様の愛を体験したからだ。この証言を聞いたあなたも、私たち弟子の証言を信じて、神様の深い愛を伝えるために、イエス様に、私たちに従いなさい」と。
私たちがその命がけの弟子たちの証言を、そのまま受け止めていくことができるよう、恵みを願いましょう。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_046.htm
直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。
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