王であるキリスト B
十字架上のゆるしー罪びとをとりもどされる-
◎サムエル5・1-3
コロサイ1・12~20
ルカ23・35-43
俗にいう「天国どろぼう」のエピソードで、ルカは、イエズスの受難物語に終始符を打ちます。
イエズスの息をひきとる瞬間のエピソードであるだけに、イエズスが生涯をかけて伝えようとされたメッセージのすべてがここにほあ
るといえます。すべてほここに凝縮されているといえるでしょう。
イユズスが生涯をかけて実現しようとされたこと、それは、罪びととの出会いであり、罪びとをとりもどすことでした。じつに、きょ
うの福音書の場面ほ、イエズスの生涯の終わりを飾るのに、もっともふさわしいものです。罪の中に生きつづけてきた二人の人間と、罪
を一度もおかすことのなかったイエズス。
「われわれはおこなったことの報いを受けたのだから当然だが、この人はなんの悪事もしなかったL
同じように十字架につけられながら、イエズスと二人の男たちほど、それぞれの生きてきた世界が異なるものほないと思います。二人
は、まわりの人びとの幸福を破壊し、平和を乱し、悲しみの原因になってきた男たちです。それに対して、イエズスはよろこびの使者で
あり、生命の創造者です。彼らがエゴイズムと欲望のかたまり(代表選手)だとするなら、イユズスは愛そのものです。二人の人生がや
みに向かい、滅びにつっぱしるものであるのに対して、イユズスの人生は光と希望に向かったものです。
まったくの別の歩み、まったく正反対の生き方をしてきた着たちが、十字架の上で出会うのです。(「善人なおもて往生をとぐ、いわ
んや悪人をや」、歎異抄、親鸞さん、参照)
同じ十字架でありながら、その歩んできた道がちがうように、それを受けとめる心も、まったぐ異なります。二人の男たちにとって、十
字架は絶望であり、死です。イユズスにとってほ、希望であり、生命です。イユズスの十字架ほ、やみを照らす輝きであり、罪のゆるし
を与える愛があふれています。
いま、二人の男たちがたどりついたやみのきわみ、滅びの淵と、やみを照らし生命を与えようとひたすらつとめてきた愛のきわみとが、
隣りあわせに置かれています。
やみと光が、そのきわみにおいてふれようとしているのです。じつにやみと出会うこと、死と出会うことを求めつづけてこられたイエズ
スの生涯は、その最後も、そうした出会いの中でとじられていきます。
福音書をみれば明らかなように、イエズスを、拒む人びとと、受けいれる人びとがいたように、この最後の瞬間にも、拒む者と受けい
れる者とがいます。
「あなたはメシアではないか。それならじぶんと我々を救ってみろ」。
イエスをあざ笑っている男のこころは ファリサイ派、律法学者、司祭長の系列に属するものです。おごる思いをもつ人びとと同じです
。自分の人生に対する 反省がありません。自分の欲望、自分の世界しか見えないエゴイストです。せっかく 光と隣りあわせになりな
がら、光に心をひらくことができないまま、その人生を終えることになります。
もう一人の男は、こう叫びます。
「まだ、神を恐れないのか。われわれはおこなった報いを受けたのだから当然だ」
彼は、罪びと、酒飲み、取税人、遊女と呼ばれ、貧しくへりくだりながらイユズス の愛につつまれることのできた人びとの系列に属
します。神殿にのぼって、「罪びとのわたしをあわれんでくださいLと胸を打った卸税人と同じように、彼は、自分の人生の罪を認めま
す。自分の無の自覚。それが、後に光への道をひらきます。やみから光へ、絶望から希望への転換のために、なにもとくべつなことは必
要ではないのです。善行も功徳もいりません。
自分の罪とその醜さに目覚めるというだけでよいのです。
あとはイユズスがひき受けてくださるのです。
ルカ福音書に記されているこのエビリーrのすばらしさは、じつに、ここにあります。人生をやみの中に生きつづけてきた人間が、十
字架の上で苦しみを耐える以外なにもできなくなってしまった男が、ただただ、心を転換し、へりくだる土とによって、
救いを得るということです。ここに、汚れた人生しか生きられないわたしたちに向けられた希望があります。
イユズスは、ここで、男の過去の人生のつぐないを求めていません。過去を責めることもしません。彼の一生が、罪と汚れにおおわれ
たものであるということを、彼以上に深く知りながら、それを責めず、逆に・それをおおい、新しいよろこびを与えてく
ださるのです。それがゆるしなのです。過去を塗りかえることのできない人間にとって救いの道は、ゆるしだけです。
王であるキリストの十字架は、わたしたちの過去をゆるし、しかも、わたしたちの罪の責任をかわりに背負うものです。ですから、十字
架の上で楽園を保証されたこめ男の救いは、イエズスのあがないの初穂、最初の実りといえます。そして、その後、イエズス
l
と出会い、救いを求める人びとに、救いのあり方を示すものとなります。
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