Sunday, November 17, 2013

地獄の明るい(ありがたい)側面

地獄の明るい(ありがたい)側面

地獄はあまりポピュラー(人気のない)教えである。最近、といってもここ十年間の間、日曜日のミサ説教で地獄について話されたとの覚えのある人はどのぐらいいるであろうか。地獄は暗い時代の名残というイメージはかなり強いではないだろうか。「最後の審判」や死後の賞罰など、恐れによる信者の引きとめは、現代の感覚からして、もはやありえないとしている学者もすくない。[1]もしも、地獄に言及する説教があったとしても、それはおそらく、実は恐れる必要はないものであるというような内容であろう。もしも地獄はあったとしても、実はそこにだれもいないだろう。空っぽな場所だろう。[2]
また、このごろのお葬式では、皆天国行きというのは大前提となっている。神さまがすべてをゆるして下さる方だと。死んだら皆聖人となる(成仏というべきかもしれないが)。もしも人生には罪があったとしても、それは弱さのせいであるとか、環境の悪さであるとか、社会学的にないし心理学的に説明されて、言い訳みたいなものがいっぱい浮かんでくる。
さらに、地獄という考えは「人権」に反するものであるかのように思われている。慈しみ深い神は、まさか誰か人を地獄に落とすという、とんでもない気味悪いまねをするものではないでしょう。地獄はあるとすれば、神は残酷な方となるだろうか。神の仕事は人を救うものであって、地獄行きの人がいれば、それは神の失敗にもなるではないかと。神の愛は地獄と矛盾するではないか。善良な人であれば、誰でもそのような、取り返しのつかない、逃げ道のない恐ろしい罰をうける場所などは、決して作る必要はないと思うであろう。

ところが、こうした考えは、もしも地獄を造るような神があれば、私たちはそんな神よりもっと寛大な考えができるという思い込みに基づいている。地獄を恐れながら生きるということは人権に反するのだと。神はもっと住みやすい世界を作るべきではないか。地獄というそんな狭い発想より、神にはもっといい考えはできないのか。やはり、私たちは神より偉い、神が創った世界よりも、もっと善い世界を造れるのだと、そんな思い上がりにつながるであろう。

天国はいいけれど、地獄はいらないとい考えは成り立つであろうか。地獄なしに天国はあり得るのか。おそらくそうではないであろう。天国も地獄もロボットのために作られたものではない。天国と地獄はワンセットであり、自由を持った被造物としての人間が神を拒むことのできるものであるということの、必然的で直接的な帰結である。逆から言えば、地獄は、我々人間の個人としての人格的尊厳の保証なのである。実は、地獄がなければ人間の価値は大変減ってしまうというのが本当なのである。

カトリック教会のカテキズム
      
       1033 わたしたちは自由意志をもって神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分自身に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3∙14-15)。キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、わたしたちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからです629痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。

1034 イエスはしばしば、消えることのない火630の「ゲヘナ」について話されました。それは、生涯の終わりまで信じることも回心することも拒み続ける人々のために残されたもので、そこでは霊魂も肉体もともに滅ぼされうるのです631。イエスは深刻なことばで、「人の子は天使たちを遣わし、……不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」(マタイ13∙41-42)と述べ、また、「のろわれた者ども、わたしから離れ、永遠の火に入れ」(マタィ25∙41)という宣告を下すことを予告しておられます。

1035 教会は、地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、地獄の苦しみ、「永遠の火」632に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということなのです。

1036 地獄に関する聖書の主張と教会の教えとは、人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという責任遂行への呼びかけであると同時に、回心を促す招きでもあります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7∙13-14)とキリストはいわれました。 「主も忠告されたように、わたしたちはその日も時も知らないのですから、たえず警戒を怠ってはならないのです。わたしたちの地上生活一回限りの行程を終えた後、主とともに婚宴に入り、祝された人々のうちに数えられることがゆるされるよう心掛け、また、怠惰な悪いしもべのように、『嘆きと歯がみのある』外のやみの中へ、永遠の火の中へ離れ去るように命じられることのないよう警戒しなければなりません」633

1037 神は、だれ一人地獄に予定してはおられません634自分の意志で、神から離れる態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちるのです。教会はエウカリスチアの典礼と信者の日々の祈りとの中で、「一人も滅びないで皆が悔い改める」(二ペトロ3∙9)ことを望まれる神のあわれみを祈願します。 「わたしたち――奉仕者と全家族――のこの奉献を快く受け入れ、あなたの平和を日日わたしたちに恵み、永遠の滅びから救い、選ばれた者の群れに加えてください」635

地獄は自由と愛ということがらと結びついていることが語られている。地獄を正しく理解するために、やはり愛と自由を深く理解する必要がある。神自身は、こうした事柄にいわば「縛られている」というわけであろうか。神でさえ人間の自由を侵すことはできない。否、侵すことをしないと決めたと言った方が正しいかもしれない。神の自由だからである。神の自由と人間の自由、両方損ねることがないように地獄というものがある。
逆説的であるが、我々の日常生活におけるもっとも重要な事柄、愛と自由の重みを(強調)引き立たせるものとしては、地獄をおいてほかにないわけである。地獄を否定することは、皮肉なことに、人間を自由にするのではなくて、逆に突き詰めたところで人間という存在者を無意味な存在にしてしまうのである。操り人形(ロボット)にしてしまう。人生はすべてハッピーエンド!

この点をもっと詳しくみてみよう。既に、プラトンが『国家』[3]という対話編で指摘したように、この世においては、最も善い人間でさえ殺されることがある(例えば、ガンジー、M・ルーサ・キング牧師、死民権運動)。国家でさえ、よい人間を殺してしまうことがある(例えば、MyammarSyriaで自由や民主主義のために戦う人たち)。あるいは罰を受けることがある(マンデラが長年、30年間、牢獄に入れられた)。逆に、悪い人間は金持ちになり、名声や名誉が高くなる場合がある。こうした状態は、この世には正義がないということを意味する。この世には我々の正義感は満たされることがないので、プラトンは、哲学的な推論として、地獄と天国というものを想定するのである。この世の不正を補う何かがなければ、フェアーではないと、悪人は罰を受けない、善人は報われないということほど、我々の理性に反するもの、納得いきにくいものはないのだと。この世には、すべての犯罪が罰せられると限らない(もしかしたら、罰せられない犯罪の方が多いかもしれない)、またこの世では、すべての善い行いは報いを受けると限らない(むしろ、人に知られない善行の方が多いかもしれない)。こうしてみると、この世は本質的に不正である。この世を越えたところで、きちんと賞罰を与えるものがなければ、この世の矛盾は大きすぎて耐えられないのである。善い行いは報われない、悪い行いは罰せられないということになれば、人間の行いは善くても悪くても結果的には大した違いはない。犯罪者の行いと聖人の行いは同等のものとなってしまう。善い人と悪い人、善い人生と悪い人生という区別は成り立たなくなる。行き着くところは、善と悪の区別さえ成り立たなくなる。人に見られない(従って何らかの見返りを受ける可能性は一切ない)ところで、なぜ悪を避けなければならないのか。公務員は見つからないのは確実だと思ったら、なぜお金をごまかさないのか。
あまり楽しみのない人生を送りながら、大変な苦労をしてまじめに子供を育てた人がいる。戦後豊かになった日本社会も、こうした人々のおかげだと思われる。地道に隠れたところでよい行いをし続ける人々がいなくなったら、社会はどうなるであろうか。
逆に、不正を行い続ける人々がいる、独裁者とか、暴君とか、テロリスト、貧しい人を搾取するひととか。こうした人々が罰せられることがないだろうと思っている間は不正をやめるだろうか。そうではないであろう。不正な行いを止めさせるものとしては、唯一地獄の恐れではないだろうか。地獄はないという考えは、やはり悪人には大変都合のよい考えである。正義と平和を本当に促進させたいなら、やはり地獄の恐ろしさという考えを普及させるべきであろう。

地獄は文明をつくる[4]

文化人類学によると、「古代人のほとんどは地獄を知らなかった」、「21世紀の今に至っても地獄を知らない民族はいる」という。たとえば、古代メキシコでは戦士や貴族は死ぬと鳥になり、卑怯者や民衆は昆虫に生まれ変わると信じられていたという。つまり、天国も地獄も知らなかったのだ。古代ケルト人は、死後は誰でも遠い海の彼方の幸福の島に行くと考えていたという。つまり、天国は知っていたが、地獄は知らなかったわけである。ナイル川流域に住むヌエル族は「死者の魂は川を渡って動物界に帰る」と考えているとある。日本人に人気のバリ島でも、村の人口を数えるときは死者もその数に入れる村があるという。つまり、「あの世」の存在自体を認めていない民族もいる。「人類の歴史」というスパーンでみると地獄が比較的新しいものである。また、地獄のあるところには必ず高度な文明があること。このことは、地獄が「文明を作る」ことを示唆している。

  昔の日本に地獄はなかった

国立歴史民俗博物館の新谷尚紀[しんたに・たかのり]教授はその著作『なぜ日本人は賽銭(さいせん)を投げるのか』(文春新書)の中で「『古事記』や『日本書紀』の伝える黄泉(よみの)国の神話には死の世界は恐ろしい暗闇の世界として描かれてはいるが、地獄の思想はない。」としている。
『古事記』には、イザナミノミコトの後を追ってイザナギノミコトが黄泉の国に下る有名な話が載っているが、「黄泉」という「死者の国」があるだけで、そこには「天国」も「地獄」もない。
では、日本人はいつ地獄を知ったのか。新谷尚紀教授は「日本に地獄思想が伝わったのは仏教と共にであろう。」としている。「日本思想史」という観点から見れば「日本に地獄を伝えたのは仏教。日本人が地獄を知っているのは日本が仏教国だから」ということができるが、日本には仏教徒でない人もたくさんいる。もちろん、「仏典を読んで地獄を知った」という人もいるとは思うが、けっして多くはないはずだ。では、なぜ、仏教徒でない日本人も地獄を知っているのか。「きみは仏教徒でもないのに、どうして地獄を知っているの?」とある人にきくと、次のような答えが返ってきた。「学校で教わったからよ。みんな、そうよ。地獄はお寺で教わるんじゃなくて、学校で教わるのよ。学校で芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んで、みんな地獄を知るのよ」。『蜘蛛の糸』は誰でも知っていると思うが、忘れている人もいるかもしれないのでおさらいをしておこう。
 この話の主人公はかん陀多(カンダタ)という名の「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」で、話の舞台は地獄の底にある血の池。かん陀多は生前、さんざん悪事を働いたので、地獄に落ちたというわけだ。
 しかし、大悪党のかん陀多も、生前、一つだけ「善い事」をしたことがあった。道ばたを這っている蜘蛛を見つけたとき、その蜘蛛を踏み殺すのを思いとどまり逃がしてやったのだ。お釈迦さまはそのことを思い出し、血の池でアップアップしているかん陀多の頭上に蜘蛛の糸を垂らす。これにつかまって出てきなさい、というわけだ。かん陀多は糸につかまって地獄からの脱出をはかる。ところが、他の罪人たちも糸につかまってよじ登ってきたため、糸はその重さに耐えかねてプツンと切れてしまう。わかるように、これは出ることの出来る地獄なのである。キリスト教の言う地獄とは違うわけである。ちなみに、芥川龍之介(18921927)といえば「人生は地獄よりも地獄的である」という言葉を残した作家である。

日本人の「地獄の原風景」

源信は天台宗の僧。生年は942年、没年は1017というから平安時代中期の人だ。『往生(おうじょう)(よう)集』じょしゅは源信の代表作で、「その後の日本人の『地獄観』を決定づけた」といわれているほどの古典中の古典。芥川の地獄文学も『往生要集』なくしてはありえない。『往生要集』の中に描かれている地獄の光景こそ、「日本人の地獄の原風景」といえるだろう。[5]
地獄は地下8階建てのビルディング。地獄の一丁目、等活地獄を源信はこう描いている。
 「ここに落ちた罪人は敵愾心(てきがいしん)に凝り固まっていて、他の罪人を見つけると襲いかかる。その様子は『猟者の鹿に逢へるが如し』。また、ここの罪人は鉄の爪でお互いの体を切り裂き合う。そのため血肉は尽き、骨が残るばかり。」いきなり何ともすさまじい描写だが、地獄の光景はまだまだ続く。
仏教では、世界を「欲界」「色界」「無色界」の三つに分ける。欲界は、食欲、性欲、金銭欲、出世欲などの「欲望」がある世界。色界は、欲望からは解き放たれているが、物質的条件に規定されている世界。無色界は、あらゆる欲望、あらゆる物質的条件から解放された精神的な世界。
 人類の大半は「欲界」にいるわけだが、ここにも六つの世界がある。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の「六道」だ。
 それに対して、キリスト教では「この世」と「あの世」はまったくの別世界。地獄はあくまでも「あの世の一部」。 地獄が「この世の一部」なら、「この世のもの」と思えるように具体的に描かなければならない[6]。が、「あの世の一部」ということになると事情が変わってくる。例えば、ダンテの『神曲』だとか、ミケランジェロの「最後の審判」だとかがある。実際、ダンテもこの作品は「笑える話」と考えていたようだ。日本語では『神曲』と厳かに呼ばれているが、この作品のもともとのタイトルは『喜劇』(La Commedia)。ダンテの死後、この偉大な詩人への敬意を表す意味で『神聖な喜劇』(La Divina Commedia)と改められたが、ダンテは「喜劇」として発表したのである。西洋人にとっては、地獄は楽しむべきところなのだ。西洋人が頭の中で描いている地獄のイメージは、日本人のそれと比べると非常に明るい。「最後にわらう者こそ、よく笑う」。

ザビエルの直面した困難  

(1)  地獄の霊魂(坊さんの反応) 坊さんは呪われたる霊魂を地獄から解放する力をもっているというのがひろく一般に行き渡った信念である。ザビエルが地獄に落ちたひとはもう絶対に助からないというと、彼らは食い(くい)扶持(ぶち)がなくなり、衝突になった。
(2)  地獄の霊魂(民衆の反応): ザビエルは言う、「日本の信者には一つの悲しみがある。それは私たちが教えること、すなわち地獄に落ちた人はもはや全然救われないことを非常に悲しむのである。なくなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に彼らの悲しんでいる様子は非常に哀れである。
死んだ人のために大勢のものが泣く、そして私に、あるいは布施、あるいは祈りをもって死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと応えるばかりである。この悲しみはすこぶる大きい。・・・私がこんなにも愛している友人たちが、手の施しようのないことについて泣いているのを見て、私も[7]悲しくなってくる。」[8]
「かれらの教義によれば、地獄におちたひとでもその宗派の創始者を呼ぶと[9]救われると書いてあるから、神が地獄に居る人々の救霊をしないのはすこぶる不愉快であり、自分たちの宗派の方は神の掟よりもはるかに慈悲の教えだと主張する。
 このような大切な質問に対して私たちは我らの主なる神の恩恵の助けによって罪の償いが出きる[10]と説明し、こうして彼らの満足するほどに応えた[11]。神の御あわれみの大いなることを示すにあたって、日本人は私の見た他のいかなる異教の国民よりも理性の声に従う民族だと思った。非常に好奇心が強く議論に長じ、質問は際限がないくらいに知識欲に富んでいて、私たちの答えに満足するとそれを他の人々に熱心に伝えてやまない。」[12]
(3)神の義: 「山口の信者はその洗礼を受ける前に神の全善について重大な疑問におそわれた。それはわたしたちのくるまで、けっして日本人に神は啓示をお与えにならなかったからである。また私たちの教えているように、神を礼拝しないものは地獄へ落ちるとすれば、神は祖先に対して無慈悲である。なんとなれば、神は教えについて何もしらない祖先が地獄へ堕ちることを許したからである。
この難問にたいして、いろいろの証明法で了解させることができた」という。日本人といえども中国からその宗旨が渡来しないとっくの昔から人を殺したり、盗んだり、詐欺を働いたり、あるいはその他の神の十戒に背くようなことはすべて罪悪であることを知っていたはずだ。
悪のしるしとして、彼らは良心の呵責を感じていたはずだ。なぜかといえば、善をおこない、悪をさけることは、人間の心に書き記された掟だからである。故に人間はただ全世界の創造主のことのほかは、誰に教えられなくてもおのずから神の掟をしっているのである。と彼らに説明したのである。それは納得させることができたようである。[13]一つは神の恩寵、二つ目はある山口の学者の例をだす。この人一番の学者といわれていた人で、旧来の日本の教えに満足できずに信者になった。彼はとうの昔から一人で天地の創造主に対して礼拝していたという。」
4)悪の存在: 「彼らは悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に創造主のことを認められないと言った。もし神が善ならそんな悪いものを造るはずがないというのである。
それに対して私たちは、神はそれらをみな善いものとして造ったが、彼らが自分勝手に悪くなったので神は彼らを罰した。その罰は永劫に続くと応えた。
 すると彼らは神はそれほどまでに残酷に罰するものならば、哀れみのないものだ、しかももし、神が私たちの教えのごとく人間を造ったことが本当なら、なぜこんなに悪い悪魔がいて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。私たちの教えによると人間が造られたのは神に奉仕したてまつるためであるにもかかわらずである。また神が慈愛のものならば、人間をこんなに弱く、かつ罪の傾きをもったものとして造らないで、悪い傾きのないものとして造ったはずだ。またなぜ神が善ならば、こんなに守りにくい十戒などを与えなかったはずだ。というのである。」
「日本はキリスト教の公布にすこぶる適した国であるから、困難はすべて喜んで忍ぶべきである。・・今まで発見された国々の中で、日本だけがキリストの教えを永久に伝えることが適当な国である。けれどもそれは非常な困難のうちに実現するであろう。」[14]


一コリ9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

マルコ16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
 16:16 信じて洗礼を受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

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・人間というのは、自分の行いによって自分の運命を決める存在である (humanism)。

・「日本では「地獄の沙汰も金次第」という言葉のように来世の見方はそれほど厳格ではない。

La vocazione dell’uomo non e’ doppia: 人間の使命は二通りではない
-       Terrena per tutti         全員はこの世での使命をもっている
-       Trascendente per chi vuole     信じる人だけは地上的な使命もある
-        

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それではなぜ世界はこの新しい来世観を受け入れたのだろうか? この答えとなるのが冒頭の「コーラン」の言葉である。最後の審判が人々に保証するのは何よりも公平と正義との実現であるといえる。「日本人の発想では「地獄の沙汰も金次第」という言葉のように来世の清算はそれほど厳格ではない。一説によると、人は地獄で閻魔大王の前で裁きを受けるが、その際、地蔵菩薩が弁護者としてその人を弁護するという。これはいかにも日本的だが、イスラムではあり得ない。

イスラムの教えとはこのような混乱の時代にあって部族や民族を越えた正義とそれによる救いがあることを明らかにした教えである。人はその個人個人の行いによって審かれる。これは極めて単純明解な教えであるが、現実には実現しがたい理想である。

マタイ16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
 16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。

天の国は目の前にあるが、鍵がないと入ることができない

 主イエスは、ペトロにおっしゃいました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。
 天の国の鍵。神の国の鍵です。「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。皆さんの中には、自動車のキーをエンジンキーのところに差し込んだまま、車のドアをロックしてしまった経験がおありの方がいると思います。わたしにはその経験はないのですが、いっしょに釣りに行った友人が自分の車をロックしてしまったことがありました。あれは歯がゆいものですね。目の前に自分の車がある。しかも窓からのぞくと、鍵がハンドルの横にぶら下がっているのが見える。しかしドアは鍵をかけてしまっていて、中にはいることができないのです。第3者から見ると、滑稽この上ない光景です。
 「天の国の鍵」‥‥このことは、天の国に入るということをたいへんよくあらわしていると思います。まず分かることは、天の国(天国)にはそのまま入ることができないということです。もちろんイエスさまがおっしゃる「天の国」とは、いわゆる「あの世」のことではありません。死んでから後行く場所ということではありません。もちろんこの肉体が死んだ後もその天の国に生きるわけですが、「天国」というと一般の人にはどうしても「死んでから後行く場所、あの世のことだ」と思われるのです。しかし主イエスがおっしゃる天の国というのは、死んでから後に限定されるものではない。今この世にこの私たちの肉体が生きているうちに、天の国に生きることができるものです。
 ルカ福音書17章の20節からのところで主イエスが次のようにおっしゃっています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」‥‥ここでは、神の国(天の国)とは、あなたがたの間にある、つまりあなたがたのすぐ隣にあるとおっしゃっています。私たちのすぐそばにあるというのです。またルカ11:20では、イエスさまが悪霊を追い出すことについて、「しかし、わたしは神の指で追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」とおっしゃっています。そうすると、天の国(神の国)は、イエスさまとともに、わたしたちの所まで来ているということになります。天の国がわたしたちの所に来ている、神が支配しておられ神が住んでおられるすばらしい天の国が、わたしたちのすぐ隣まで来ているというのです。しかしそれは主イエスがおっしゃっているように、目で見える形で来ているのではない。しかし確かに来ている。わたしたちのすぐそばに来ているというのです。
 そうすると先ほどの、車のキーをしたままドアを閉めてしまったケースを思い出します。自分の目の前に車があり、窓越しにはキーがハンドルの横についているのが見えるのだけれども、鍵がかかっていてどうしようもない。‥‥ただ天の国のほうは、目の前にあると主はおっしゃるが、この肉の目には見えない。しかし確かにそれはあり、そして確かにすぐにでもそこに入ることができるのだ、ということです。

     天国の鍵はだれが持っているのか

 ではそのわたしたちの肉の目には見えない天の国の、その鍵はどこにあるのか? ‥‥するとそれは、主イエスご自身がペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃっているように、イエスさまが持っていらっしゃることが分かります。授けたのがイエスさまですから。

     天国の鍵はだれに与えられるのか

 ではどうしたらその天の国の鍵はいただけるのか? ‥‥イエスさまはなぜペトロに天の国の鍵を授けるとおっしゃったのでしょうか? ペトロが立派な人だったからでしょうか。ペトロが優秀な人だったからでしょうか? ペトロがイエスさまのために良いことをたくさんしたからでしょうか?‥‥いずれも違うのです。イエスさまがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃったのは、イエスさまの問いに対するペトロの答えにありました。
 イエスさまはその場にいる弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」(15節)と問いました。世間ではイエスさまのことを、ヘロデ王によって投獄され、首をはねられた洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという人がいる。あるいは、イエスさまのことを、昔旧約の時代に活躍した預言者エリヤであるとか、エレミヤだとか言う人もいる。そのようにいろいろとイエスさまのことを評価している。しかし、「あなたがたは、わたしのことをいったい何者だと言うのか?」と。
 それに対して弟子の一人のペトロが、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と答えた。それに対してイエスさまが、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とおっしゃったのです。
 すなわち、イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。これも肉の目には見えない鍵です。しかし確かにそれが鍵であるということです。
 実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所なのです。カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。 カトリック教会では、このときイエス様は、ペトロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。すなわち、使徒ペトロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。鍵は何本もありません。ペトロが持っている。 イタリアはローマのカトリック教会の総本山であるバチカンに行きますと(私は行ったことはありませんが)、そのサン・ピエトロ寺院の広場には、天国の鍵を持ったペトロの立像が置かれているそうです。そしてペトロというのは、最初のローマ司教なのですね。ローマの司教がすなわち、ローマ教皇(法王)です。そして天国の鍵の権能を授かったペトロの後継者が歴代のローマ教皇だと主張します。ですから、天国の鍵の権能は、ペトロ以来、歴代のローマ教皇に受け継がれていると解釈します。今日でも、法王が教会に入場してくる時、聖歌隊は「おまえはペテロ、この岩の上にわたしの教会を......」と歌うそうです。
 それに対して、私たちプロテスタント教会は、天国の鍵は、16節のペトロの答え、「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉に対して与えられたものであると解釈します。イエス様が弟子たちに向かって、「それではあなたがたはわたしを何ものだと言うのか」と問われた。それに対してペトロが、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と答えた。これはイエス様がキリストであると言う、信仰告白の言葉です。その信仰告白に対して、主イエスは天国の鍵を授けた、と理解しています。ですから、天国の鍵はローマ教皇が持っているのではありません。イエス様を生ける神の子キリストである、と信じ、告白する者に対して与えられるのだ、と信じているのです。もちろん目には見えない鍵です。信仰告白に対して鍵が与えられる。ですから、私たちにも天国の鍵が与えられているのです。

     「教会」に与えられている

 ただここで注意しなければならないことは、なにか「天国の鍵」というものが、試験をパスした個人に与えられるということとはちょっと違うことです。イエスさまが、「うん、あなたは正しく信じた。だからあなたには天国の鍵を授けましょう」、そして他の人には、「あなたはまだダメだ。鍵は与えられない」というように、ひとりひとりに鍵を授けたり授けなかったりするということではありません。それでは、天国の鍵のコピーが全人類分用意されていて、無事信仰の試験に合格した者に、順番に授けていくということになってしまいます。
 実は、イエス・キリストの信仰というものは、そんな個人主義ではないのです。かつてイスラエルの民が神の民としてまるごと約束の地へと導かれて行かれたように、イエスさまは、教会という新しい神の民を、丸ごと救おうとされるのです。その教会の代表として、イエスをキリストと信じ告白した、ペトロに与えられたのです。
 18節に、「教会を建てる」という言葉が出てくるのは、そのためです。わたしたちが、バラバラに信仰生活を送るのではなく、教会につながって信仰生活をするのであることは、そのためです。
教会を建てる

 主イエスは、天国の鍵を授けるとおっしゃる前に、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とおっしゃいました。
 「ペトロ」と「岩」、これはちょっと語呂合わせのようになっているのですね。イエス様というお方は、実に上手に言葉を用いられた方です。「ペトロ」という言葉は、ギリシャ語では「石」という意味です。「岩」だと書いている本もあるかと思いますが、正確には、「石」という意味なのです。つまり、ここでイエス様は、「石」と「岩」を並べておられる。言うまでもなく、「石」よりは「岩」の方が大きいのです。「石」の上には建物は建たないが、「岩」の上には建ちます。
 今回新会堂建築で、最初に地中深く建物を支える杭を打ちました。そして、さらに地面を数メートル掘り下げて、コンクリートを流し込みました。その一画に、聖書を入れた壺を埋設したのです。建物の目に見えない部分、建物を地面の下で支える部分に、時間をかけ、手間をかけ、お金をかけている。このことを見て、ある姉妹が感慨深い思いをしました。
 建物はそのように、基礎がしっかりしていないと、弱いものとなってしまいます。大きな地震が来れば倒れてしまいます。しかし逆に基礎がしっかりしていれば、大丈夫です。地震が来ても、嵐が来ても、ビクともしません。
 きょうの聖書の言葉で言えば、「岩」の上に建てれば大丈夫です。しかしペトロという人間自体は、その名の通り「石」に過ぎません。石は小さくて、その上に建物を建てることができません。ペトロという人間自体は石に過ぎない。しかし、その小さな石に過ぎない人が、「イエス様はキリストであり、生ける神の子である」と信仰を告白したときに、岩となるのです。揺るぎないものとされるのです。地震が来ても、嵐が来ても大丈夫。
 そのように、わたしという人間はまことに弱いものです。しかしその弱い私たちが、イエス様をキリストであり、主であり、生ける神の子である、と信じ告白したときに、主によって岩のように強くされるのです。
 あるいはこうも考えられます。ペトロという石は、最初の一個。それに続いて、他の人々が同じように「イエスは主、生ける神の子」と告白する。そういう多くの石が集まって、岩のようになる。そこにイエス様が教会を建てるということです。
 教会とは、キリストの体であると、新約聖書は述べています。キリストは教会をご自分の体とされる。教会と共にキリストは歩まれるのです。
 「教会」という言葉は、実は福音書には2個所しかでてきません。そのうちの大切な1個所がきょうの所です。「教会」と翻訳される言葉は、原語のギリシャ語では、「集会」という言葉に、定冠詞がついたものです。英語で言えば、「The」です。「ザ・集会」というのが教会です。一人では「集会」になりません。集会といえば、二人または3人以上の人が集まらなければなりません。つまり、キリスト信仰というのは、最初から、一人では成り立たないのです。一人では、「岩」ではなくて、「石」にすぎません。しかしその石が、集まって岩のごとくになる。そこに主イエス・キリストが、教会を建ててくださると約束しておられるのです。

 私たちは、16節でペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と、「生ける神の子」と告白したことを覚えなくてはなりません。生きておられるのです。私たちが神の子と信じるイエス様は、生きておられる神です。なにか聖書という本の中だけの存在ではありません。昔話ではありません。また、遠い遠い天国から、下界を見おろしているだけの方でもありません。この世の中に生きている私たちと共に生きてくださる方です。現に今、生きておられる方です。この方と共に歩むのです。
 私たちひとりひとりは、小さな石に過ぎない。嵐が来れば揺らぐし、困難なことにぶつかれば倒れてしまう。しかしその私たちが、イエスを主と信じ、生ける神の子キリストです、と告白したときに、主イエスは「あなたは幸いだ」と祝福してくださるのです。「わたしはこの岩の上に教会を建てる」とおっしゃってくださるのです。嵐が来ても、地震が来ても、ビクともしない。教会の岩の中に加えてくださるのです。そして天国の鍵をゆだねられているのです。世の人々を天国に案内する力を与えられているのです。
 この小さな弟子の集団が、ペンテコステで教会となりました。この一握りの小さな集団が、イエスを主と告白し続け、成長していきました。そして世界へ広がりました。わたしたちの教会も、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白し続けるのです。この日本において、この富山において。生ける神の子キリストの働きを見続けるのです。そこに未来があります。

http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat109.html

人は神の前では自分の髪の毛一本も黒くも白くもできない無力な存在である。しかし、神は現に生きる人間一人ひとりに生きるすべを与え、信じる者には必ず救いの手を差しのべる。この神と人との関係は帆船に乗る人と風との関係にたとえられるだろう。いかに優秀な航海士でも風なしに船を進めることはできない。人は神の送る風に従い、自らの船を操ることによって航海できるのである。思うに、この発想が今の日本人とイスラムの考え方との決定的な違いだろう。日本では成功した人の努力や苦労が賞賛され、またその人はそれまで自分を助けてきた人々に感謝する。しかし、自分の心臓を動かし水や空気を与えてくれる自然や神にまで敢えてその意識を及ぼすことはない。






[1] 川村信三、「カトリック新聞」、200611日、一面参照。
[2]  The Brighter Side of Hell | Fr. James V. Schall, S.J. | November 11, 2005  (www.ignatiusinsight.com).
[3] カントも『実践理性批判』の中で魂の不死性は道徳論の要請であると言っている。
[4] http://www.josephandleon.co.jp/hellsbirth/chapter00/01.html
[5]二十世紀に入ってからも『往生要集』の影響は衰えていない。太宰治は最初の小説集『思い出』の中で、幼い頃に見た地獄絵の強烈な印象を語っているし、高橋(たかはし)和己(かずみ)も小説『悲の器』(ヒノウツワ)の冒頭に『往生要集』の一節を引用している。
[6] 仏教というのは、輪廻転生が基本である。死んだら何かに生まれ変わるわけである。にもかかわらず、どうして仏典には地獄が出てくるのか。それと、そもそも地獄というのは誰が言い出したのか。世界で最初に地獄を押し出した宗教はゾロアスター教だったといわれている。仏教の地獄のルーツは古代ペルシアにある。源信の地獄は、戦争の体験から生まれたと言われている。「この世の地獄」とは、たとえばキリストの十字架というような体験である。けれども、その後に復活がある。源信の地獄は十字架に留まる、復活がない。ちなみに、仏教では、悟りを開き煩悩がなくなると、輪廻から脱出し、涅槃に入り、もはや生まれ変わる事はない。これでは、キリスト教の煉獄と同じではと?
[7] ザビエルの優しい心と、人々と同感する姿勢。
[8] 書簡96、4849。書簡96はヨーロッパのイエスズ会員あて、コーチンから出されている。
[9] 「南無阿弥陀」を唱えることであろうか。
[10] この世における働きが大切。
[11] 諸宗教の対話。ザビエロの謙虚さ。
[12] 96、21
[13] 96、2325
[14] 96、20

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