待降節第1主日 A 武庫之荘教会
イザヤ2・1-5
ローマ13・11-14a
マタイ24・37-44
待降節は救い主の到来を待つ季節ですが、今の私たちにとっては、ふたつの「時」を味わう季節であると言えるのではないでしょうか。ひとつは、救い主の誕生を待つ“今という時”であり、もうひとつは、救い主の再来を待つ“今という時”、ということになります。待降節のはじめに、主の再臨について述べる福音が朗読されるのは、私たちが“今という時”を
理解するためのものです。今日の福音では、主の再臨が突然であることが語られるので、
私たちの眼差しは、“近い(近視眼)”けれども、漠然とした“将来の時”に向かいがちです。sese04
「目を覚ましていなさい」とは?
イエスさまは、「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。では「目を覚ましている」とは、いったいどういうことなのでしょうか?イエスさまがたとえておられるのは、まず、「家の主人」が泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう、ということです。
そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?
あるいは、37~38節では、「ノアの大洪水」の時にたとえられています。ノアの箱船の時です。この世に悪がはびこり、みんな神さまのいうことを信じなくなり、堕落して不法に満ちてしまいました。神さまは、地上に人間を造ったことを後悔なさり、この地球上の人間を滅ぼすということになさいました。ただノアという人は、神を信じ神と共に歩んだ人でした。ノアは神さまの言葉に従って、巨大な箱船を造り始めました。まわりの人々はそれをどのような気持ちで見ていたことでしょうか。人々は、あざ笑って、「そんなばかばかしいことが起こるはずがない」と言って相手にしませんでした。誰も神さまを信じようとはせず、あいかわらず、好き勝手なことをしていたのです。そしてノア以外はみな滅びました。
そうすると、イエスさまがおっしゃるキリストの再臨とは、それと同じようなことがもう一度起こる、ということでしょうか?「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃるのでしょうか?
それゆえ、「目を覚ましている」というのは、終わりがいつ来るのかは分からないから、いつも緊張して立派な行いをし、熱心に神を信じてなければならない、ということでしょうか?‥‥
しかしもしそうだとすると、「イエスさま。今来られては困ります」ということになるのではないかと思います。私たちにはおそらく誰でも、神さまを信じられなくなったりしたことがあるし、あるいは神さまを信じていないときもあっただろうと思うのです。
わたし自身、中学生までは教会に行っていましたが、その後しばらく教会をサボったことがあります。そうすると、仮にそんな時世の終わりが来たとしたら、どうでしょうか。もし旧約のノアの時と同じならば、わたしなど救われずに滅びてしまったことでしょう。また、つらいことがあると、「本当に神さまは助けてくださるのだろうか?」と疑ったこともあります。もしそんなとき、泥棒が突然やってくるように、キリストの再臨があったとしたら、どうなるのでしょうか?
つまり、もし「目を覚ましていなさい」ということが、一瞬たりとも神を忘れずに、信仰と良い業を行うことに励んでいることである、としたら、まさに運が良かった人と、運がなくて救われずに滅んでいく人と分かれてしまうことになります。ですから、いつも熱心に聖書を読んで祈り、断食をし、良い業に励み、立派な行いをし続けていなければならない、ということになります。
「目を覚ましている」というのはそういうことでしょうか? もしそうだとしたら、旧約聖書のノアの大洪水がふたたび来るということになってしまいます。今度は大洪水か、あるいは地球の温暖化で地球が滅びるか、という違いだけであって、やっぱり同じように、その時信じているものは天国で、信じていない者は地獄行き、という、まさにどこかのあやしい団体が宣伝カーで言って走り回っているのと同じことになってしまいます。そうすると、それこそいつも緊張して、いつ来るかとビクビクして過ごすことになってしまいます。それがイエスさまのおっしゃった信仰生活なのでしょうか? でないとしたら、「目を覚ましている」というのはどういうことなのか?
今日読んでいる福音書のもう少し後のところに、実は目を覚ましていないで眠りこけてしまった弟子の姿が登場します。
それは、イエスさまが十字架にかけられる前の晩のことです。イエスさまは、夜に最後の晩餐を弟子たちと共にとられたあと、弟子たちと共にゲッセマネに行って、父なる神様にお祈りに行かれました。そうして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。それでイエスさまはおっしゃいました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い」。つまり「目を覚ましていなさい。祈っていなさい。」とおっしゃったのです。そうしてまた少し離れたところに行って、ふたたび父なる神様に祈られました。そして又弟子たちのところに戻ってみると、なんとまた弟子たちは眠っていたのです。そしてまた主イエスは少し離れて3度目の祈りを祈られました。そしてまた戻ってこられたとき、弟子たちにこうおっしゃいました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」そうして、イエスさまは、弟子であったユダの手引きによって、イエスさまをとらえに来た人々によって、逮捕されたのです。
いかがでしょうか。この場面は、今日の聖書の言葉に完全に重なっていないでしょうか。今日の聖書の言葉を聞いた弟子たちは、それから数日後にイエスさまの逮捕の時を迎えるのです。その時、弟子たちは、主イエスが「目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃったのに、一時も起きていることが出来ませんでした。まさに時が来たのです。そして弟子たちは神の裁きを受けて滅んだでしょうか?
いいえ。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか?それは他ならぬ、主イエス御自身でした。イエスさまがとらえられ、はずかしめを受け、そして十字架につけられて死なれたのです。目を覚ましておれず、眠りこけていた弟子たちの代わりに、もっと言えば私たちの代わりに、神の裁きを受けられたのです。それが十字架です。
そして主イエスが三日目によみがえられたとき、今度こそ弟子たちは主の怒りを受けたでしょうか? それも違いました。主イエスは主を見捨てた弟子たちを責めるどころか、ゆるし、ふたたびご自分に従ってくるように招かれたのです。
ここが旧約のノアの大洪水による神の裁きと違うところです。今度は、神の御子イエスさまが、私たちの代わりに裁きを受けたのです。それが十字架です。「目を覚ましていなさい」と主がおっしゃったのに、一時も目を覚ましていることが出来なかった。その結果、主イエスが十字架にかけられた。ゆるし、愛して、ふたたび弟子として招くために復活なさったのです。これが神の愛です。そして弟子たちは、その愛を知って、そのすばらしい主イエスに従っていったのです。
主イエスは何度でもおっしゃいます。「目を覚ましていなさい」と。しかしそれは、わたしたちがおそれおののいて、ビクビクして緊張した信仰生活を送るためにそうおっしゃるのではない。むしろ、そんな弱い私たちさえも見捨てないで、むしろご自分が代わりに十字架へ行ってくださる、その愛をもっておっしゃるのです。私たちではなく、主イエスが裁きを受けられたのです。ですから私たちは、感謝を持って、喜びをもって、自発的に主イエスに従っていくのです。自らの力では、目を覚ましていることすらできない自分であることを知り、イエスさまにおすがりするのです。イエスさまにおすがりし続けるのです。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat145.html
神はノアに箱舟を造りなさいと言われた。雨の降りそうも無いときに、洪水になるから船を造れと言われたら、私たちだったらどうするであろうか。他人に言われたことなら面白い話ですが、自分に言われたのなら大変なことです。長さ150メートルもある船を片手間(かたてま)に造ることはできない。しかもノアは農夫であって大工ではなかった。他の人は、食い、飲みして、この世のことに一生懸命なのに、ノアは箱舟を造った。自分の全財産を使い込んで船を造って、家族たちとその中に入った。カンカン照りのとき、洪水になるという神の言葉を聞いてそうしたのであるから、世間の人は笑ったと思います。ノアが箱舟に入って戸を閉めたら、ポツンと雨が降ってきてそれから降り続いた。
ノアが箱舟に入ったのは、洪水が来るという神様を信じて、その時のために備えたのです。私たちは自分で箱舟を造る必要はない。今はイエス・キリストが箱舟を造ってくださったのだから、その中に入りさえすればいいわけです。その船に乗るということ、それにのってこの世を(渡る)出るということが、私たちの信仰です。洪水になることは、すべての人に言われたのだと思います。他の人々は自分の経験や常識で神の言葉をまともに受けとめないが、ノアだけがその言葉に従ったのです。今日においても、聖書は世の終わりがある、あるいは自分の人生に終わりがることを告げている。それをまともに受けとめて未来(終末)への備えをするところに、信仰者の姿があると思います。(榎)
「目を覚ましていなさい」。それは、現代の私たちに対して、日常性に重なり合う非日常性を決して忘れないようにしなさい、というメッセージであるかもしれません。そのことは、
自分を見失わないためにも、極めて大切な姿勢ではないでしょうか。私たちは、日常性と非日常性、というふたつの世界に生きていることを、折りに触れて感じることがありますが、
それでも、目の前の出来事だけを見て判断し、その奥にある世界を深く確信する間もなく、
日常性に埋没しがちではないでしょうか。
目の前に起こっていることがすべてだと心のどこかで思っていて、見える結果に一喜一憂したり、ちょっとしたことで揺れ動く感情に振り回されたりしてはいないでしょうか。
たとえば苦しみのように、できることなら避けて通りたい事柄を、ただただ嫌なこと、忌まわしいこと、という姿勢に留まるのではなく、正直に向き合い、正面から取り組む勇気と力は、どこから汲むことができるでしょうか。私たちの体験のすべて、喜びも悲しみも、そして苦しみも、その意味を本当に知り、それをありのままに受けとめるためには、その事柄だけを見るのではなく、長い時間の流れの中で見つめることが必要です。ある哲学者のモットーを使えば、“永遠の相のもと”に見るときに、初めて分かり、そのとき初めて、力がもたらされるのです。
「目を覚ましていなさい」というイエスの教えは、イエスの教えに忠実であるようにという
メッセージであると同時に、私たちが、どのような“命”に招かれているかを思い起こすようにと促されているのです。sese04
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きょうの主日から待降節が始まります。
待降節とは、文字どおり、ご降誕を待つ季節、救い主の誕生に向かって心を備え、高めていく準備の時期です。
きょうの典礼の三つの聖書は、それぞれ、やがて訪れる救いの時を語っています。イザヤは「終わりの日」といい、パウロは「救いが近づいた」といい、イエズスは「人の子のあらわれの日Lといっています。表現は異なっていても、救いの時が訪れてくるという〝たしかさ″ においては一致Lています。
しかし、それがいつのことなのか、どのような形をとるのかは告げていません。むしろ、イエズスは「思いがけない時にくると語っています。「思いがけない時」、つまり、その時について、わたしたちはわかることもできないし、予想をたてることもできないのです。(計画やプランを立てることで対応できるようなものではない)まして、その時をわたしたちの力でつごうのよいように、早めたり、遅らせたりできないのです。
それは、完全に、神の思いの中にあること、神の一方的な業なのです。しかし、それは、わたしたちの五感で確かめられなくとも、〝刻々と″時間の流れにしたがって、確実に熟し高まっていくのです。したがってわたしたちは、その時が熟し、わたしたちの前にあらわれてくるのを、注意深く、待たなければならないのです。
決定的な時(たとえば、結婚、就職、入学試験)との出会いをふさわしく待つ姿勢を学ぶこと、これが待降節の課題といえるのです。この待降節をきっかけに、待つことの重さを学んでみたいものです。
ふだん、わたしたちは待つことの重大さに気がついていませんが、人生は待つことによって織りなされています。日常を観察してみますと、待つことが、ひじょうに大きな意味をもっているのに気がつきます。わたしたち人間を「待つ存在」とか、「人生とは待つことである」とか規定することができるほどです。
若いカップルは愛が熟していくのを待ち、妊婦は小さないのちが胎内で日をおって成長し、やがてぶじに出産するのを待ち、母親は、生まれた子がことばをいいはじめるのを待ち、はいはいしだす時を待ち、成長し、やがて幼稚園にはいる時を待ち、卒業する時を待ちます。
このように、生命の成熟に閑してほ、わたしたちは待たなければなりません。いのちの成熟に関するかぎり、わたしたちは無力です。あせったり、むりしたりすれば、その生命はゆがみ、へたをすれば、破壊にもつながります。待たずに、せかせかと、自分の思いどおりにしようと功をいそいでも、ろくなものは生まれてきません。お金の力や才能を過信して、むりを通しても、時を得ていなければ〝ほんもの″は生まれてきません。(無理を通せば、道理がひっこむ))ごうまんな人、自分の限界を知らない人からは、落ち着いた待つという姿勢は生まれてこないでしょう。
生命の神秘とその成長に関するかぎりは、じつくりと謙虚に待たなければなりません。待つということは、自分の限界をしっかりとみつめたところから生まれてきます。
しかし、それは同時に信頼の心をも前提とします。大きなカによって、いのちが、ゆっくりと時間をかけて成長していくのだということに対する信頼です。わたしたちのカをはるかにこえた力が、むりをせずに、やさしく生命全体をつつみながら、働きつづけているのです。すぐには、わたしたちの思いどおりにならない現実を大きなカに信頼をかけて、忍耐深く待つことが必要なのです。したがって、わたしたちがこの待降節に、救いの訪れを、真実の意味で待つことができるために、謙虚さと信頼を養うことが必要です。謙虚さを養う、つまり、自分の力では自分を救うことができないという自覚を深めることです。
わたしたちの中には罪に汚され、輝きを失ったやみがあり、エゴイズムや乱れた欲望にひきずりまわされて愛せなくなった現実があるということ、そして、世界全体が愛を失って深く傷つき病んでいるということを、しつかりと感じとる心を育てることです。
しかし、そうした自覚が絶望につながるのでなく、希望の中でのやみの自覚となるために、信らいに向けて心を高めなければなりません。つまり、神の大きなカが、わたしたち人類をやさしくつつむ愛としてあらわれてくるという〝たしかさ〟に心を高めていくのです。これが待降節なのです。
深いやみの自覚を深めながら、神の無限のあわれみの確かさにひとみを添えて、その訪れを待つこと、これが待降節の課題です。
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