Wednesday, November 13, 2013

2 advent A

待降節第2主日 A
マタイ3・1-12

http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat07.htm

イエスさまはガリラヤ地方のナザレという村で育ちました。きょうの聖書の箇所では、イエスさまがお生まれになってから、およそ30年の歳月が経っています。2章と3章の間には、約30年が経過しているのです。

     イエスさまの露払いをした人

 福音書を続けて読むと、いよいよイエスさまの登場かと思いきや、そうではありません。登場するのは「洗礼者ヨハネ」という人です。
 イエスさまが世に出る前に、まず洗礼者ヨハネが現れて教えを宣べ伝えたのです。何を宣べ伝えたかというと、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたというのです。そして聖書が解説していることは‥‥(3)「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」‥‥主が来られる準備をする、つまり、主イエス・キリストが来られるための道を備えるためであったと、マタイは書いているのです。
 主イエス・キリストが来られるためには準備が必要でした。イエスさまはいきなり活動を開始されたのではない。まず洗礼者ヨハネが準備をしたのです。その準備が、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と世の人に向かって勧めることだったのです。

     「悔い改めよ」だって?

 「悔い改める」ということは、あらためるべきことがある、ということです。
 「自分は間違っていない」とか「自分はなにも悪いことをしていない」と思っている人は、悔い改めようとしません。それどころか「何を悔い改める必要があるというのか?」と反発するのです。
 「援助交際」という行為が、若い女子高生の間でも行われているということが報道されます。中年のおじさんからお小遣いをもらって「援助交際」をする。要するに売春です。彼女たちはお金がないのではない。きれいな服や化粧品ほしさに、あるいは遊ぶ金ほしさにそういうことをするのです。もちろん、彼女たちだけが悪いのではなく、彼女たちを求める大人も悪い。援助交際をしている高校生の一人にテレビがインタビューをしている時、その答えはこうでした。「相手も喜んでいるわけだし、なにも人に迷惑をかけていない。何が悪いの?」‥‥。
 「何が悪いの?」と言われて、どう答えるでしょうか。テレビでは、「変な男に引っかかるよ」と言うのが関の山(せきのやま)でした。そういわれても彼女たちには、お金のほうが魅力であり、そういう忠告は無駄でした。
 「なにも人様に迷惑をかけているわけではない」‥‥「自分たちはなにも悪くない」‥‥こう思っているならば、ヨハネの言葉は全くばかばかしく聞こえることでしょう。「悔い改めよ」などと言われても、全く別世界の言葉、宇宙人の言葉のように聞こえることでしょう。
 もちろん今のは例であって、援助交際をしている若い子だけの問題ではないことは言うまでもありません。むしろ、多くの人が同じように自分のことを正当化しているのです。‥‥「何が悪い?なにも人様に迷惑をかけてはいない。なにも悔い改めることなどない。悔い改めるとしたら、自分ではなくて憎いあいつのほうだ!」と言うでしょう。
 この私だって、そのように感じたものです。「悔い改める」なんて、まったく自分の興味や関心と、かけ離れた言葉にしか聞こえませんでした。もうそういう聖書の言葉は、遠い遠い世界の話であると感じました。いやむしろ感じると言うよりも、感じもしなかった。全く無縁でした。

     見えなかったことが見えてくる

  ヨハネは「荒れ野」で活動しました。(4)には、らくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた、と書かれています。
 現代はグルメブームで、何でも珍しいものを食べることが流行っています。しかしヨハネはなにも好きこのんでイナゴを食べていたわけではないでしょう。荒れ野にはレストランもコンビニもない。いやお金を得るための仕事もない。人が住まない荒れ野だからです。らくだの毛衣、革の帯‥‥いずれも荒涼とした荒れ野での生活がにじみ出ています。
 ヨハネはなぜ荒れ野で暮らし、荒れ野で人々に教え、荒れ野で洗礼を授けていたのか?エルサレムのような人が大勢いる大都会で宣べ伝えた方が、効率的ではないのか?
 荒れ野‥‥それは殺伐(さつばつ)とした大地です。レストランやコンビニどころか、人が住んでいない、雨が降らないから畑もない、どちらかというと砂漠に近いようなところです。木や草がまばらに生えているだけの、乾ききった大地。それは日本には存在しない場所です。そのままそこにいれば、どんどん体の水分が蒸発してしまって、脱水症状になって死んでしまう。そういう場所です。ここにヒントがあります。
 人が大勢文化的な生活をし、商店街やコンビニがあり、豊かな水をたたえた川が流れていて山は木々の緑で覆われている。水道の蛇口をひねればすぐに水が出てくる。食べ物は豊富にあり、飢え死にするようなことはない。‥‥そういった生活をしているときには全く気がつかないものが、荒れ野にはあります。
 例えば、もし自分が今、突然砂漠の真ん中に置かれたらどうだろうか。‥‥見渡す限りの砂と石ころで、誰もいない。太陽が容赦なく照りつけ、じりじりと身を焼いていく‥‥どうでしょうか。お金があっても役に立たない。助けを呼ぼうにも人がいない。‥‥おそらく、それまでと同じ気分でいる人は一人もいないでしょう。「このままでよいのだ」という人は一人もいないだろうと思うのです。
 ではもっと極端に考えて、砂漠どころか、「かぐやひめ」という宇宙船に乗っていて、月に一人で置かれてしまったとしたら、どうでしょうか。それこそ、飲む水もないし、食べるものもあるはずがない。もちろん空気もないから生きてもいれないわけですが。助けを呼んでも全くの無駄。目を上げると、宇宙の真ん中に地球がぽつんと浮かんでいる。‥‥どうするでしょうか。おそらく、「このままでいいのだ」「人様に迷惑をかけていないからいいのだ」「神さまなんか信じない」というわけにはいかなくなるでしょう。そこにはなにも助けてくれる者はいないのです。「神さま!」と絶叫するのではないでしょうか。
 そう考えると、なぜヨハネが荒れ野という場所を選んだのか、ということが分かってくるような気がします。
 内村鑑三が書いています。‥‥「われ、我が国を去って他国に行かんか、神必ずそこにあり。われこの地球を去って木星または水星に至らんか、彼必ずそこにあり。彼はオライオン星にあり。プレアデス星にあり。しかして遠くこの宇宙をはなれ他の宇宙に至るも、わが父はまたそこにあり。神と和し神の子になりて、宇宙はうるわしき楽園となるなり。」
 なんというすばらしいことでしょうか。神さまはどこにでもいる。人の手が届かないところにいても、神さまはいる。

 荒れ野。とりあえず生きるために必要なものが満たされている所にいるときには、決して見えなかったものが見えてくる場所です。
 洗礼者ヨハネは、自ら荒れ野に身を置きました。荒れ野にあるものを食べました。荒れ野で手に入れられるものを身につけました。そうして、自分を自ら神を求めざるを得ない場所に置いたのです。そして、そこで宣べ伝えました。人々を荒れ野に導きました。そこで語りました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」 と。荒れ野は、ユダヤでは人々が住む場所のすぐ近くにありました。

     私たちのすぐそばにも荒れ野がある

 実際の荒れ野に行かなくとも、荒れ野は私たちのすぐそばにあります。緑豊かな日本には、たしかにこのユダヤの荒れ野のような場所はないけれど、荒れ野のような状況は確かにあります。そして、私たちもまた荒れ野を経験します。
 ある若者は、大学生までは、それなりに順調に進んでいました。かつては通った教会からも遠ざかりました。「神さまなんか必要ではない」と思いました。「何を今さら教会に行って学ぶことがあるのか」と思いました。しかしそれは、自分が両親や周りの人などの手を介して神さまが守っていてくれることを知らなかったのです。卒業して、企業に就職したまではそれでも良かった。しかし転勤して、東京の空気が悪かったのか、健康を害し、ついには死に損なった所で荒れ野に置かれたのです。‥‥苦しくて意識が遠くなる。病院で治療を受けている最中だが、医者もそれ以上は助けることはできない。遠のいていく意識の中で、神さまに叫んでいました。そのように荒れ野に置かれて、はじめて神さまに向かって叫んだのです。
 その若者はこう書き残しています。「もしあのとき、あのような荒れ野に自分が置かれなかったとしたら、いまだに「自分はなにも悪いことをしていない。人様に迷惑をかけているわけではない。神さまなんか弱いやつの信じる者だ」と言っていたことでしょう。」

 実は、荒れ野は私たちのすぐそばにあります。日本が繁栄し、物質文明が栄え、ビルが建ち多くの人が車を運転する世の中。テレビのお笑い番組を見、商店街をショッピングして歩いている時には見えないものが、実は私たちのすぐそばにある。2000年前と今とは、なにも変わっていないのです。ただ見えにくくなっているに過ぎません。麻痺させられているに過ぎないのです。気がつかないだけです。

     自分の無力を知って、神にすがる

 「悔い改めよ」
 この言葉は、原点のギリシャ語を少し詳しく分析すると、一回限り悔い改めよ、という文法の言葉ではありません。言ってみれば、「悔い改め続けなさい」という言葉になっています。
 そうすると、聖書を知らない人が聞いたらますますおかしな言葉に聞こえます。「悔い改め続ける」なんて、「ごめんなさい」と謝ってばかりして生きると言うことか?と思うからです。
 聖書では「悔い改める」という言葉の意味は、「ごめんなさいと謝る」という意味もありますが、むしろそれよりも「自分の無力を知る」という意味に近いのです。
 日本語の「悔い改める」は、「悔いる」と「あらためる」に分けられます。これは本当にすばらしいことです。
 「悔いる」は、神さまの前に罪を犯したことを知ることです。しかしもっと日本人にわかりやすく言えば、自分の無力を知ることです。「自分には、なにも自分を救う力がない」ことが分かるのです。‥‥荒れ野にひとりぼっちで置かれたら、それが分かるのです。
 「あらためる」は、神さまのほうに向きを変えることです。‥‥今までは神さまの言うことなど聞かずに、自分勝手な道を歩んできた。その方向を、神さまのほうに向きを変えるということです。これからは神さまにすがって歩んでいくということです。
→こうして、「悔い改める」ということは、自分の無力を知って、方向を変えて神さまの方を向き続ける。神さまにすがって歩んでいく、という意味になります。

 荒れ野に置かれ、自分の無力を知り、神にすがる、主を求める。‥‥こうしたときに初めて、「自分がいかに間違っていたか」ということに気がつくのです。「人様に迷惑をかけなければそれで良い」それがいかに間違っていたか、に気がつくのです。人様はもちろん、神さまに対して間違ったことをしてきた、と気がつくのです。
 それで初めて「罪を告白」できるようになるのです。

     悔い改めて、キリストに出会うことができる

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
 荒れ野ではじめて、神さまが分かってくる。その神さまの方を向いて、神の助けを求める。自分の無力を知って、主イエスにすがる。‥‥そこに道が整えられると聖書は書いているのです。
 主をお迎えするには、そのように悔い改めて罪を告白する。そこに主を迎え入れる準備があるのです。どうか、主が私たちの悔い改めの心を良しとしてくださるように。

「まむしの子」と呼ばれて、どんな気分?

 「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」‥‥洗礼者ヨハネはまことに厳しい言葉を投げかけています。
 「蝮の子らよ」‥‥蝮というのは毒蛇です。日本では蝮酒が珍重(ちんちょう)されますが、とにかく毒蛇です。毒蛇は嫌われ者です。その嫌われ者の、毒を持っている蛇の子だと言ったのです。これはずいぶんと激しい言葉です。
 いかがでしょうか。「蝮の子らよ」と呼ばれて、どう感じますか?
 こう言われては、どう反応するかは主に二つでしょう。1.「何を失礼なことを言うか!」と言って、反発し、腹を立てるのが一つです。‥‥この場合は、「わたしは蝮の子などと呼ばれる覚えはない」という気持ちです。
 もう少し丁寧に見てみると、
・「わたしは本当に蝮の子などと呼ばれる覚えがない。そんなひどい悪者ではない。」と思う場合です。この場合は、自分が「蝮の子」と呼ばれるほどひどい罪人であるとは思っていない場合です。
・もう一つは、「なるほどわたしは蝮の子と呼ばれるほどひどい罪人であるが、このヨハネという男からそこまで言われる覚えはない」、と思う場合です。
 神の言を受け入れることができないということだと思います。
2.次に、「本当にその通りです」「アーメンです」と、素直に認める人です。 この場合は、先に言ったヨハネの言葉の内容にも「その通りだ」と思うし、ヨハネという人が言ったということについても受け入れることができる場合です。

 私たちはどうでしょうか。

 ヨハネはこの言を誰に向かって言ったのか。それは、洗礼を受けに来たファリサイ派とサドカイ派の人々に向かってでした。
 ファリサイ派もサドカイ派も、両方ともユダヤ教の中の宗派です。「ファリサイ派」のほうは、中産階級・庶民の出でした。この宗派の特徴は、宗教の規則を生活の隅々に至るまで作って、徹底して守ることにありました。そういう細かい規則を徹底して守ることが、神を信じることだと思っていたのが、このファリサイ派でした。ファリサイ派は、各地にある会堂や学校で人々に律法を教え、宗教上の規則を教えました。
 一方サドカイ派は、神殿に奉仕する祭司を中心とした人々でした。この人たちがどういう教えを持っていたのか、詳しいことは実はよく分かっていません。しかしサドカイ派の人たちは、神殿に仕える祭司として、ユダヤ人の宗教を守ってきたのだ、という誇りがあったに違いありません。
 このように、ファリサイ派といいサドカイ派といい、ユダヤ人の宗教では人々を教え導く役割を持った人たちでした。「先生」たちでした。「自分たちが宗教を守っている」という自負のある人たちでした。
 その先生たちが、ヨルダン川近くの荒れ野に来て、洗礼者ヨハネから洗礼を授けてもらおうとしてきたのです。
 
  なぜ洗礼を受けに来たのか。‥‥素直に考えれば、ファリサイ派やサドカイ派の人々も、自分の罪を知って悔い改めたということになるでしょう。しかしヨハネが「蝮の子らよ」という言葉に続いて言った言葉を読むと、何かありそうです。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。」‥‥形だけ悔い改めてもダメだ、と言うことです。
 これもなかなか厳しい言葉です。ファリサイ派やサドカイ派の人々には、形だけ悔い改めるということが多かったのではないか。‥‥なぜなら、「悔い改める」ということは、ユダヤ人の宗教(旧約聖書)では、なすべき大切なことだったからです。旧約聖書の預言者たちは、イザヤにしてもエレミヤにしても、神さまの前に悔い改めることを勧めています。また旧約聖書を読むと、「衣を引き裂き、灰をかぶって、粗布をまとって悔い改める」というようなことがよく出てきます。
 悔い改めが奨励され、神さまに対して罪を告白することが美徳とされる。‥‥そうすると、まかり間違うと、「わたしは立派に悔い改めをした。だから、わたしは立派だ」ということになりかねません。「わたしは罪を告白して、悔い改めた。だから自分は救われる価値のある人だ」と心の中で思う。‥‥そういうことになりかねないのです。
 つまり、悔い改めというのは、心の底から、自分は神さまに救っていただく値打ちのない者だと思い、ただ神の憐れみを求めてすがるのが悔い改めであるのに、違ってしまうのです。「さあ、わたしはちゃんと立派に悔い改めもした。だから、自分は神さまに救っていただく値打ちがあるのだ」と、自分の行いを誇ることになってしまいます。そうするとこれは、本当の悔い改めとは言えなくなります。
 悔い改めによって救われるのではなく、自分の善行や功徳によって救われるということになります。
 このことをヨハネは厳しく言ったのです。=「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」
 それが本当の悔い改めかどうかは、その結果結んだ実を見れば分かるというものです。イエスさまも、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」(ルカ6:43)とおっしゃいました。

 では、その良い実を結ぶというのはどういうことでしょうか。きょうの聖書で言えば、それはヨハネが「わたしの後から来る方」(11)、すなわちイエス・キリストを信じることです。

     高ぶりの罪

(9)「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
 ユダヤ人というのは、アブラハムの子孫です。神さまは昔、アブラハムを選びました。そしてその子孫を祝福することを約束なさいました(創世記17章)。こうしてユダヤ人(イスラエル人)は神の民となったのです。ユダヤ人というのは、このアブラハムの子孫であることを誇っていました。
 ユダヤ人の間には、有名な伝説がありました。‥‥それは、地獄の入り口の扉の所にアブラハムが立っているというものです。そして、地獄に堕ちてきたイスラエル人を、アブラハムが地獄に入れさせずに天国に送ってくれる、というものでした。
 このように、ユダヤ人には「自分たちはアブラハムの子孫、神の民である。だから結局救われる」という考えがあったのです。
 ですから、悔い改めと言ってもそれは形式的な悔い改めとなります。心の底から神さまの憐れみを求める、ということではなくなります。‥‥「自分たちはアブラハムの子孫である。唯一の神を知らない異邦人のような連中とは違う。」「今まで神の律法はみんなちゃんと守ってきた。その上、今度は洗礼まで受けて悔い改めた。わたしは立派な善人だ。」
‥‥いかがでしょうか。なんと非の打ち所のない人たちでしょうか。しかしそこには、神さまが最も嫌われるものがあります。→それは、「高ぶり」「高慢」です。罪人を見下し、異邦人を見下す高ぶりです。「自分は天国に入る資格がある」という高慢です。

 ところが、洗礼者ヨハネは「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言ったのです。
 なるほど、そのとおりです。宇宙を造った神さまです。何もない所から宇宙を造った神さま。チリから人を造った神さまです。その神さまからすれば、「アブラハムの子孫」だなどといくら自慢していても、そんなものは石ころからでも造り出すことができるのです。
 

     こんなわたしでも愛されている

 さらに考えてみると、神さまの恵みが見えてきます。
 わたしのような者など、神さまはいくらでも取り替えることがおできになるはずです。石ころからでもアブラハムの子孫を作り出せる神さまにとって、世界中60億人のうちの一人に過ぎないわたしなど、まことにちっぽけな者ではないのか。
 そうすると、神さまにつばをはき、神に背いた、神さまから見たらなんの役にも立たない自分を、神さまは投げ捨てるのではなく、生かして置いてくださっている。石ころと取り替えることなく現に今も生かしておいてくださっているのです。これは驚くべきことではないか、と思うのです。
 しかもそれだけではない。ヨハネが言った「わたしの後から来る方」=イエスさまがなぜ来たのか。‥‥私たちが知っているように、それは十字架にかかるためでした。自らの命をなげうって十字架にかかって、私たちを救うためでした。
 つまり神は、この石ころにも等しい私たちを救うために、御子イエス・キリストを送って、十字架にかけなさったのです。考えられないほどの神の愛です。

 石ころに等しい者が愛されています。いくらでも代わりの者に取り替えることができる者、いや取り替えられて当然な私たち一人一人ではないでしょうか。しかし神は、その私たちを石ころのように扱わないで、かけがいのない大切な者として愛してくださいました。そして今も愛してくださっているのです。
 イエス・キリストの十字架がそのしるしです。
 私たちが神を疑ったときはあると思います。十字架を見上げましょう。私たちは、心の底から洗いざらい、罪を告白し、赦しを乞うことができるのです。そして赦されて、神の愛のうちにいることができるのです。
 御子でありながら世に下り、罪人の間に住まわれ、罪人として十字架にかかるほどにへりくだって、私たちに仕えてくださっている方=イエスさまのおかげです。


第二講話

マタイ9・9-13

「キリスト教は普通の人間を罪びとに仕立てて、重い罪悪感を持たせて、行き着くは生きる喜びを奪い、奴隷根性を与える。自分は罪びとだと思う人は、死ぬまで教会(聖職者)に頼らなければならないからです(一生返せない仮を作ってしまう)」といったのは哲学者ニーチェです。彼は、罪のことなど考える必要はない、もっと自然に、自由に気の向くままに楽しく生きるべきです。キリスト教以前の価値観に戻る
べきだと訴えました。ここに現代社会の一つの大きな流れを認めることが出来ます。キリストは「来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉には深い哲学が潜んでいます。本当の自由、本当の喜びは実は自分が罪びとだと考えることから始まります。

自分を罪人と認めさせることで信仰心を植え付けようとする宗教のあくどい手法です。

・子供のしつけをしない親
・マナーがずいぶん悪くなっている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129075202

キリスト教にとって、人は皆罪人だといいます
それでいて自分たちだけ許されたともいいます
とすると自分たち以外は許されていない罪人だということです
キリスト教者が罪と言う場合
それは世間一般的には100%言いがかりですね
要は一般人に難癖(ナンくせ)つけてるんですな


罪の意味が違います。
一般に罪という場合、
盗み、殺人、詐欺他、法律に違反することを言います、言うまでもないことですが。
聖書が言う罪とは、
不完全であること、完全さの的に達していないことです。
現在の人間は肉体の機能においても、精神的機能においても、
神が最初に創造されたときの質を保っていないということです。
機能を果たさない機械はいずれスクラップになるように、
神は現在の不完全な人類が存続し続けることをいつまでも許すことはないのです。
最初の人間は実際に神の言葉に反しましたから、反逆の罪もあったと言えますが、
その子孫である私たちは故意に反逆してきた訳ではありません。

別の観点で言えば、
自分には罪があるとは思わないと言っても無駄なことです。
あなたが交通法規を定めたわけではないでしょう。
信号を無視してどこが悪いか、と息巻いて(いきまいて)も
法の執行者はあなたを裁くでしょう。
それで、自分は神に対して罪人であるつもりはないとか、
不完全であるつもりもないとか言っても、
神が神の法の執行者としておられる以上、全く無駄なのです。
もし、あなたが、そもそも神などいないと言うのであれば、
我々キリスト教徒の言うことは気に留めるほどのことではない、ということになります。
また、聖書的に、罪が許されているとは、現在のところ、
将来に、完全さへ回復させられる、そういう希望を持てるようになったということです。

 大変難しい問題だが、幸い、この問題を簡略化することが、われわれ漢字を使う中華文化圏(!)の民草には「ゆるされて」いる。それは「ゆるし」には二つあって、「許し」と「赦し」である、ということだ。

 「赦し」からいこう。たとえば、キリスト教では神が罪びとを「赦す」ことがある。恩赦とか大赦とかいって、刑務所の服役者を釈放することがあるが、これは、天皇家の慶事に便乗してその罪を「赦す」わけである。簡単に言うと、世俗を超越した宗教的、あるいは人間の内面にかかわるメタレベルのはたらきによって罪障をなくすことである。

 つまりこれには、神様が必要なのだ。ローマ法王(ママ)に赦されたクリスチャンは幸せであろう。そして内面的な高揚も期待できるだろう。またある意味では、人間同士の力では解決できないことに対して使う「赦し」である。

 一方、「許し」は世俗の出来事、人間界の出来事である。「神の赦し」とは言っても「王の赦し」とは言わないし、「天皇の赦し」と言っても「殿のお赦し」とはまあふつう言わない。やはり「殿の御許し」なのである。

 これは、人間と人間、個と個の間の関係で発生したことを「許す」のだ。当然、神がいないから、双方大満足、心から納得することを期待することは難しい。しかし、個と個が出来事の発生以後も関係を取り結んでいかなければならない場合、この「許し」が必要になってくる。よく言えば大人の関係である。相手の謝罪を受け止めると同時に、自分の内面の不満も克服する努力が必要なのである。そして汚く言ってしまえば、妥協が含まれるのである。

キリスト者が赦されたと言うのは、罪人でなくなったということではありません。むしろ罪がよく見えるようになるので、ますます強く清くなりたいと思うようになります。
赦されたと言うのはイエス・キリストがそれを贖ってくださったことを信じることで、神の目には清いと見てもらえると言うだけのことで、罪びとでありことに何の代わりもありません。また赦してもらえたのは私の努力でもなんでもないので、ただ赦される者であったことを感謝するばかりで、救われていない人のことをどうこう言う資格はありませんし、言う積もりもありません。
ただこれだけが救われる道と知っているからそれを伝えようとしているだけです。


「私たちが義とされるために教えていただいた祈りといえば、それは「私たちに負い目のある人をゆるします(ように)から、私たちの負い目をもおゆるしください」(マタイ6・12)なのです。アウグスティヌスが言うように(「神の国」XIX・27)この世においては、正しさは完全な徳よりもむしろ罪のゆるしにあるのです。
「この祈りは、その信仰が業(行い)をともなわないで死んでいる人にとっては効果が無く、その信仰が愛によって働いている人にとってに効果がある。」「このような祈りは正しい人にとって必要なのである。」
なぜなら、「神は高ぶる者を(敵とし)退け、へりくだる(謙遜な)者に恵みを与える」(ヤコブ4・6;1ペトロ5・5;箴言3・24)。
La Roche Foucault diceva che l'ipocrisia e' il tributo che il vizio paga alla virtu'.

今日、人々は罪意識をもっていないとよく言われる。けれども、それは完全に正しい見解ではない。なぜなら、我々の時代の特徴の一つとしては、マスコミや裁判において絶えず罪が訴えられるからである。従って、罪意識はあると言える。ただし、それは他人が犯す罪に関してである。
ところが、救いに導く罪の悔い改めは、自分の罪に対するのそれである。自分の過ちから離れることは、神に近づくことに等しい。なぜなら、神は悪の正反対であるから。

ビッフィ枢機卿(BOLOGNA教区名誉大司教)、今週教皇ベネディクト16世の四旬節黙想会を指導している。


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