Sunday, March 20, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳) ➃

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11   聖なる日と聖なる時

「天地万物は完成された。 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 」(創世記 2・1ー3)。第七の日、安息日(Sabbath)。ところが、新約の安息日は週の初めの日、日曜日となった。
  ここもまた、新約聖書らしいことが起こった。イエス・キリストは旧約の完成者であったが、その主でもあった。イエスにおいては、旧約聖書全体にわたってきらめく、来るべきメシアの約束は、満たされる。以前のものはすべて、完成者である彼の方に向かって進んでいく。彼はそれらのものに新しい意味を与え、それらの終末を告げた。旧約の代表者たちが、彼を神の敵と見なして、彼を殺した。それほど決定的な終末であった。だが、彼の殺害という行為は、意外なことに彼の贖罪的愛という制度の制定を決めた。
  キリストの死と復活から、新しい秩序が始まった。死ぬ前の晩、エウカリスティアを制定しながら、神的単純性でもって、「私の血における新しい契約」(ルカ22・20)について語った。また、自らのミッション(使命、役割)の最後を栄誉で飾りながら復活した日は、今や完成の新たな日となる。今一度、神は創造の仕事を離れ、安息なさる。今度は、その創造から新しい人、新しい天と地が現れるはずである。その日とは、毎週日曜日に戻ってくる。日曜日は第一の創造と第二の創造の婚姻の記念である。安息日の神の安息は、今や復活の勝利と交(ま)ざっていく。平安のうなりに勝利のファンファーレが侵入する。約束と成就が一つとなった。なぜなら、安息日は、永遠に、創始に、後ろにむいていた。日曜日は、永遠に、終末に、来るべきものに、前に向かっている。日曜日は終末論的性格をもっている。日曜日は、キリストの新しい創造、新しい世界を宣言している。それは、キリストのわざから生まれ、いつか永遠に示されるのである。
   神は「在りて在るもの」, 全能者、永遠なるもの、不変のものであるから、神の安息について語るのは可能であろうかと、我々は問いかける。啓示(聖書)は答える。神は真に決意をたてておられる。創造を志し、創造から休むのを決める。偏在する神、全宇宙を支配する神のさらなる側面、人格として自由を持ち、特殊的な出来事に関わり、行動することは、聖書全体に公布されている。聖書は、特定の人の選び、彼と誠実の契約を結び、選ばれた人の子孫から成長した民との契約の強化、その民の惰性および頑固さとの絶えざる闘いにおける神的導きと支え、神の失われることのない誠実さ、彼らの度々の背信からの救いなどについて語っている。何度も何度も神は寛大な心の裏切り行為を飲み込む。それから記述が進んで、神はどのように自分自身の全存在を示したかを語るようになる。父なる神が永遠の御ひとり子を、長らく待降されたメシアとして、世に派遣した。聖霊はいのち全体を支配し、誰もが前代未聞(ぜんだいみもん)のその力を自覚できる。最後に、神のひとり子が、人々の間で計画された定めを最高に快諾し、何世紀にもわたって神に対する抵抗という募った嵐雲(らんうん)が、自らの頭の上に降りかかり、自らを虐殺されるのを受け入れた。カルワリオにおけるこの行為の完成、そして復活の勝利が、主の日に表現される。
  ところが、人々の間での神の定めた分け前には、時間におけるもう一つの表現がある。つまり、ミサである。
  神の「定め」(Gottesschiksal)は時間において現れた。けれども、「神の」行為、「神の」定めとして神の意志から発出した。一旦、始まりと終わりを持った地上の出来事として現れた。しかし、同時に永遠変わらない現実でもある。そこで、キリストが自らの受難と死をもって、おん父の前に立っている。死ぬ前に彼は、[定めの]この救済的成就が絶えず記念されることを命じた。最後の晩餐においてキリストが、ご自分の友にご自分の身体のパン、血のぶどう酒を与え、記念として「これをしなさい」と勧めた。「これをする」権限を持った人たちがこの命令に従うたびに、最後の晩餐の時に起こったことは、今現在再び起こる。この「記念」(memoria)は単なる想起ではない。実際の存在への帰還である。主の記念という行為を通して、地上に対する神の定めの永遠なる現実が、何度も何度も時間の中に入り込む。その戸口は聖なる時間[一時間]であり、絶えず再起する「今」である。人間が神のために一時間を取っておくというようなことではない。神ご自身が救済的定めを伴いながら、一時間の中に入り込むのである。その一時間は神を通して自己実現するのである。今や新しい創造の一部分となる。そのような一時間を通して時間は永遠を含み、永遠は時間を抱擁する。
  永遠なる神が我々の人間的はかなさをご自分の上に受けとった時、言葉の本当の意味での聖なる時間は存在し始めた。最初は、天使による受胎告知と主の昇天の間の時間しかなかった。その数十年の間、受肉した神の子は我々と共に生活し、働き、苦しんだ。ちょうどその間に、そしてその間にのみ。皇帝カエサル・アウグストゥスの在位の間、神が実に人間となり、ポンティウス・ピーラートゥスがユダヤの総督だった間に、実に亡くなった。ちょうどその間、早くなることも遅くなることもない。この二つの出来事の間に、永遠なるロゴス[言]が人間として存在していた。地上におけるその寄留はミサにおいて新たにされる。主自身から権限を受けた司祭がパンとぶどう酒の上に式文を唱える時に、生きたキリストが自分の会衆の間に歩き、聖なる晩餐において自分自身を糧として与えるまで。これもまた、始めと終わりのある、限られた一定の間である。まことに文字どおり、「主の過ぎ越し」である。
  効果的にミサに与るために、その時間性、即ちその始まり、その経過、その終わり、を意識することが本質的である。この短い時間の部分は永遠を包んでいる。ミサ中にご聖体を顕示するというような習慣は、以上のことを曖昧にするきらいがある。それは、御聖体の神秘のうちに在る主キリストの現存をはっきりと、親密に、できるだけ長く味わいたい会衆への譲歩である。信仰生活に関して、この要望とそれに対する教会の対応にはとても重要なものがある。ところが、もっと深く見れば、以上のような特権は、詳しい制限なしには与えられていないということが分かる。御聖体の展示はいとも簡単にミサの聖なる時間性という感覚を鈍らせる。長い間、祭壇の上に星のように輝くホスチアの姿は、主キリストが来て、しばらく滞在し、そして去ったという感覚を消えさせる。
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訳注:  ここで、グアルディーニがおそらく、「40時間の祈り」のような、16世紀以来行われてきた「永久聖体礼拝」という聖体信心を念頭においていると思われる。「40時間」とは、キリストの死(金曜日の午後)と復活(日曜日の朝)の間に経過した時間にちなんだものである。
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  永遠から生まれた聖なる時の過ぎ越しを経験するのはとても重要なことである。その聖なる時は我々を永遠に吸い上げる。それが続く間は、すべての他の時とは全然違う次元に我々は住むのである。それから退出を命ずる、その後我々は日常生活のはかなさに戻る。しかし、もし我々はそれに生き生きとした与かり方をしていれば、我々は復活から生まれた聖なる永遠の種(たね)を持ち帰ることができる。こうして、浮世における我々の生活は変えられる。
  


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