Sunday, March 13, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳) ③

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)
Romano Guardini, Besinnung von der Feier der heiligen Messe, 1939. (english tr.: Preparing Yourself for Mass, Sophia Inst. Press, 1993)
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目次
第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
2.静と言 (Silence and the Word)
3.沈黙と聴くこと
4.平静 (Composure)
5.平静と行為 
6.平静と参加
7・聖なる場
8.敷居としての祭壇
9.食卓としての祭壇
10.聖なる日
11.聖なる日と聖なる時
12.聖なる行為
13.啓示する言葉
14.遂行する言葉
15.賛美の言葉
16.祈願の言葉
17.会衆と正された不正
18.会衆と教会
19.障害となる習癖
20.障害となる感情
21.障害となる人間性
第二部: ミサ聖祭の本質
序文
22.制定としてのミサ
23.記念としてのミサ
24.新約の記念
25.現実
26.時間と永遠
27.典礼的形態の模倣
28.自己自身を捧げるキリスト
29.会合と祭り
30.真理とユーカリスト
31.ミサと新約
31.ミサとキリストの再臨
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9.食卓としての祭壇

  祭壇は神との一致への敷居である。キリストにおいて主なる神は近づきがたい方、知られざる方でなくなった。その方は我々に向かって語った、我々の方に来られた、我々の一人となった。それは、我々が神に立ち返り、再び神のものであるために。祭壇は、主が我々の世界に渡ってくる、そして我々は主の世界に渡っていく境界線を印している。
  この時点で、神のことを語るために使用される隠喩[類比]について一考察しておこう。隠喩は、秘儀の豊かな倉庫のロックを解除し、神的現実のいくつかの側面に集中させ、我々の理解力を助ける。こうして、祭壇を敷居という隠喩で捉える場合、一側面を注目し、他の側面、例えば食卓、を脇においておく。隠喩はどうしてもこの世の経験からとられる。しかし、個室と別の個室は区切られているように、我々はそれほどに神の世界とその命から切り離されていないので、神の現実を表すために隠喩の不十分さにあまり重点をおくべきではない。もし、そこに重点を置くならば、我々は重要な宝、本質を見失うだろう。隠喩は、子供向け、あるいは大衆むけの単なる方便ではない。インテリが隠喩を嫌って、その内容を純粋な概念で捉えるということになっていない。アブラハムの孫息子ヤコブがその偉大なる夢から目覚めたとき、恐れおののいてこう言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28、17)ヨハネは黙示録にこう書いている。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」(黙示録4、1)
  さて、ここで言われる「門」とは「単なる隠喩」であり、それは神が目に見えないにも関わらず近くにおられる、という意味であろう。また、人間は神に近づくことはできないが、神から近づいていただくことができる、という意味であろうというならば、それは間違っていないがあまりにも陳腐な考えである。使徒ヨハネは「門」というならば、それは「門」であるはず、単なる文彩(ぶんさい)ではない。理性は努力して聖書思想の内容を概念や言表で表そうとするのは間違ったことではないが、所詮その努力は思想の内容に表現を与えるための補助的なものにすぎない。従って、逆から考えるべきである。大事なのは隠喩であって、概念はその深みを探ろうとしているにすぎない。隠喩は概念よりも豊かな内容をもっている。そして、隠喩を把握しようとする行為は、つまりそのイメージを見ることは思考よりも、生きたものであり、豊かで意味深くて心に浸透する。この事柄に関して、現代人は、言い方が許されるならば、概念的過ぎる。我々はイメージを見、物語を聞き、シンボルを操る能力を失ったしまった。けれども、その能力を回復させることができる、それは観想する訓練によって、長らく疎(おろそ)かにされた能力を呼び覚ますことによってできるのである。
  隠喩、イメージ、シンボルに関する考察でちょっと横道にそれたが、本題に戻って、祭壇は「敷居」に尽きるものではなく、「食卓」でもあるということを見てみよう。
 人間だけではなく、神(々)もそこに座る聖なる食卓というイメージはどの民族の宗教にも見られる。予感のようなものであろう。どのような宗教でも敬虔な信者は何らかの祭壇に供え物を捧げる場面が見られる。供え物を神に快く受け入れてもらいたい。その意味で、その捧げ物は人間のものでなくなり、神のものとなる、という発想であろう。そのために、その捧げ物は消耗されたり、あるいは少なくとも人間によって使用されないようにされたりする。生け贄の遺体は焼かれ、血が出されたりするのは、それは死の過ぎ越し、彼方への通過、神的空間への通過を象徴するためであろう。
 さらに、よくある例として、生け贄の一部分が脇においておかれること、もっと正確に言えば「戻される」(消耗される部分は全体を象徴するから)ことである。それは捧げる人々によって味わわれ、神と人間は同一の食卓に参し、同一の食べ物を味わうことを表している。その上、捧げる人は、捧げられる物で自分自身を表し、自分自身を捧げることを志向している。同時に、その同じ捧げ物は、本当の食物は神的いのちであるから、神を象徴する。
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訳注: お供えと御下がり、神仏の供物の取り下げられたもの。神仏に供えた飲食物(神の場合は神饌)などを下げたもの(同、撤饌)。神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のこと。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる。(広辞苑)
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我々は、このような儀式にはそれなりの深い意味がある。けれども、さらに深くその意味を見抜こうとすれば、それらは往々にして陳腐で、因習的なもの、自然崇拝的なものに堕落しがちであることを見るだろう。こうなると、神は人間の生活の産物となり、一定の部族、民族の性格を持つようになる。ところが、人間にとって神は自分のいのち、自分の部族、民族の命の根拠であり、要するに神は人間を必要とし、人間は神を必要としている。捧げ物、生け贄はこうした人間と神の一致をいつも新たにする役割を受け持っている。
 ところが、旧約聖書はこうした表象、象徴とは無縁である。旧約の場合、祭壇に捧げ物を捧げるとき、神は民族の命の秘密、世界のいのちの秘密ではなく、すべての創造主である。この主に捧げ物を捧げることは、すべてが彼のものであるということを告白し、神の思し召しに沿ってのみ人間はすべてを使用できると認めてもらうためである。生け贄が祭壇の前で捧げられるのは、あたかも神が血を必要としているからではなく、すべてのいのちが彼のものであるということを意味している。同じように、初穂が祭壇に捧げられるのは、「自らの内に種子」を持つものは、つまり新たないのちを生み出せるものはすべて神のものであることを表している。動物の生け贄と果物の初穂によって奉献の表象が成し遂げられる。そこから、奉献がなされた祭壇から人間が家畜をいただき、生活に使用される土地の産物をいただくのである。
 祭壇とは、天の父なる神が我々を招いておられる食卓である。贖いの業によって我々は神の子供となり、その家に入ることができる。祭壇においては、我々はその聖なる食卓を共にする。そこで、神の手は我々に「天のパン」を与える。天のパンとは、つまり真理のみことばと、すべての想像を超える賜物、人間となったひとり子、生けるキリスト(ヨハネ6)である。我々に与えられるのは、同時に身体的現実と認識できる真理である。要するに、いのちと人格、賜物によってしか受けられないもの。
  聖なる食卓で神もまた何かをもらっているか、と問うならば、これは容易に答えられる質問ではない。昔からの予感、同じ食卓での神との交わりはキリスト教において成就を迎えたといえるだろうか。言い過ぎ[冒涜]を恐れて慎重に考えるべきであろう。けれども、ここでパウロの書簡とヨハネ福音書に頻繁に出てくる秘儀に目を向けるのは有意義であろう。神の地上の降臨の結果は救いである。なお、救いとは、赦しと贖いだけ意味するのではなく、世界が父なる神のもとに「[実家に] 帰らせていただいた」ことでもある。それはまた、人間が再び従順と愛のうち神に帰ったことだけではなく、人間が神的いのちに受け入れられた、そして人間を代表として世界全体は神のいのちに受け入れられたことをも意味している。これは神の計画であり、その計画のうちに成就される。神が我々を愛しておられると言われるときは、それは神が我々に対して善意を持っているということだけを意味するのではなく、愛ということばをその完全な意味で受け止めるべきである。つまり、神が人間を慕うのであり、御自分が造った者を必要としておられ、そばにおきたいのである。キリストが「渇く」(ヨハネ29、28)と叫んだときに、それは物理的な渇きだけ意味しているのではない。ヤコブの井戸があったところのエピソードのように、弟子たちが準備していた食事を勧めると、イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4、34)その飢え、その渇きは不可思議なものであり、神の飢えと渇きであると言える。アウグスティヌスが言ったように、エウカリスチアをいただくことは、それは神のいのちをいただくというより、いのちの神が我々をそのうちに引き寄せることである。ところが、これについて慎ましく語るべきである。なぜなら、これは慎ましい聖なる秘儀だからである。けれども、神と人間の間に愛と交わりの秘儀があるという事実、そしてその秘儀は祭壇において実現されるということを思い起こすのは有意義なことである。

10.聖なる日

世界という空間に聖なる場が現れたのは、神の子が地上に現れたとき、ナザレで受胎され、ベツレヘムで生まれたときである。また、パレスチナの町々で人々と語るときである。そのとき、神の子は「ここにある」とか「そこに行かれる」というふうに、非常に具体的に言えたほどである。さて、聖なる場があるように、それに相当する聖なる時があるのだろうか。
 人間にできることとしては、いかなる行為、いかなる出来事、いかなる荘厳な儀式も、神の前で聖なるもの、聖なる日、聖なる時となるほどに高められうることはなにもない。これは成し遂げられるのは神のみであり、神は時間の制限に入るのを惜しまないときである。
 私は「時間の中に」いる。つまり、私は一定の時間の流れのうちに生き、成長し、行為し、自分自身を実現させるのである。我々はこう考えるのである。さて、神についてもそれに似たようなことがあるだろうか。まず、「否」と答えるべきである。実際、神はすごく長く生きるというのではなく、永遠に生きると言われる。それはすなわち、神のいのちは時間とは無関係であるということを意味している。神には何も加わることもなければ、減ることもない。神について、成長しているということも、変化したということも、つまり時間と関係する諸概念はあてはまらない。神は無限に単純ないのちを完全に完璧に永遠の現在に生きておられる。時間そのものが、存在するあらゆる物事のと同様に、神の手から出てきたものである。もっと正確に言えば、神は世界を創造し、それは時間において存在する。こうして神は時間をも満たし、時間のうちに存在する。ところが、神がすべての時間、長い時間、短い時間、一日、一時間、一分のうちにおられる。我々の感覚から漏れ、物理学者の実験でしか計れない時間の原子も神のものである。同様に一世紀も、一千年も、すなわち我々は直接に経験できない時間、天文学的な時間も神のものである。時間全体は神のものであるから、時間のどんな一部分も、それとして他の部分より聖なるものであるとはいえない。一定の時間は聖なるものとなるのは、神の偏在的聖性は人間に、いわば触れるかどうかにかかっている。人間に触れる神が、こうやって歴史において記憶という痕跡を残すのである。
 ところが、こういう話は直接に我々のテーマには入らない。神が人間に触れるという「聖なる時」とはいつでもありうる。自然現象から、家族の人間関係、歴史の諸出来事までたくさんの例がある。ところが、典礼においては「聖なる時間」と言われる場合は、それは正確に決定されたものであり、聖なる場というときと類似的関係にある。それは、啓示によってのみ知られうる。例えば、一週間の七日のうちに一日は聖なる日であるというときがそうである。一日が主のために聖別されるわけは、それは主御自身が創造の業を終えて、七日目に安息なさったからである。
 
 「安息」という言葉は正しく理解しなければならない。これは、神秘に満ちた言葉であるが、はっきりと限定した意味をもっている。創世記の言述によれば、創造の業は一週間の間に行われた。神は六日間働かれ、七日目には休まれた。こういう言述は、自然科学で調べられる惑星や動植物の起源とは関係ない話である。聖書において「週間(七日間)」とは、日常的な意味での時間の尺度とは異なる。それにはむしろ二つの意味がある。まず第一に、我々は理解できる時間という範疇でもって、宇宙の起源を司(つかさど)った最も知恵深い秩序を象徴することである。さらに、宇宙の起源そのものから神が、七日のうち仕事に六日間、そして七日目は創造の業が完成され安息に入られたから、ご自分のためにとっておかれたというように、週間を分けられたということを強調することである。
 従って、人間が休む習慣があるから聖なる日になるというのではなくて、七日目は聖なる日であるからやすまなければならないと言った方が正しい。主日(dies domini)が聖なる日であるのは、生活のリズムから湧き出るものではない。あたかも、人間が六日の間義務に縛られ、この世的な目標におわれ、そして七日目に自由になり、その自由から主日の聖性が成立するかのようなものではない。
 仕事と休みは交互に成り立つということにおいて心が密かに宗教的ともいうべき平安を味わうことは否定できないが、信仰と典礼の場合はそれとは異なる意味がある。主日の聖性は、人間の心が主日に巡り合うたびに繰り返し体験できる秩序から出てくるのではなく、主なる神が七日に何かをなさったということから成り立つ。つまり、神が安息なさった、もっと正確に言えば、神と創造の業の間に、「神の安息」ということで、秘儀的関係があるという事実に基づくのである。
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付録

「いったい神さまは何のために休まれたか。神さまは六日間天地創造のために働いて、大変お疲れになったので七日目に休まれた。そういうことは、まず考えられません。なぜなら、神さまの力は無限ですから、六日ぐらい働いても、疲れて休むというようなことはない筈です。ですから、『創世記』に書いてあるように、神さまが六日間働いて七日目にお休みになったのは、疲れたから休まれたわけでは絶対にありません。それでは、遊ぶためでしょうか。神さまは六日間、義務的な労働として世界を創ったけれども、それがやっと終ったので、あとはゆっくりと骨休みをして遊び給う。そんなこともありえない。(...)神さまは、働らいては休み、休んでは働らくのではなくて、働らいたのは六日間だけです。その後は、七日目というのが、いわば永遠に続いている、永遠にお休みになっている、そのようにも考えられるのです。しかし、現実にわれわれ被造物の立場からいいますと、依然として世界は、絶えざる神の創造のもとに在ると考えられます。そうすると、六日の創造というものは、われわれにとっては実はまだ終っていない、いつになったら終るかしらないが、少なくともわれわれ被造物にとっては、神の創造は終っていない。或る意味で神さまはもう創造をやめておられる、休んでおられる、と、こうも考えられるのではないかと思うのです。アウグスティヌスは、神はいつも働らき、いつも休んでいるといっていますが、それは多分そういう意味ではないかと思います。つまり、われわれにとっては、神さまはたえず働らいておられる。この世界が存在するかぎり、神はたえずこの世界をささえておられる。それはたえずこの世界を創造しておられることです。しかしその絶えざる創造の働らきそのものが、神の一つの大きな憩いにおいて在ると、何かそういうことを、神は七日目にお休みになったという旧約聖書の記事は意味しているのではないでしょうか。ですから、こうも考えられます。神はわれわれのこの被造的世界に対してたえず働らいている。しかしその働らきを通してわれわれは、神の存在を知り、また幾分か神さまについて知ることができますが、その働らきの背後といいますか、その働らきを支えている何か底知れない神の沈黙の世界というようなものが在るのではないか。たえず働らきながら、その働らきを起こしている奥といいますか、勿論、奥といっても空間的な意味での奥ではありませんが、そういう働らきを支えている計り知れない神の憩いの世界、憩うている神が在るのではないか、そのような感じがするのです。」(山田晶、『アウグスティヌス講話』、新地書房)
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 ところが、創造主に関して「安息」という概念を使って叙述することにはどのような意味があるのか。これは、簡単に適切に答えられる質問ではないが、信仰でもって深く考えると、神の安息ということにいくらか深いものを感じることができる。神は、[スコラ]哲学の専門用語で言われる、単なる「純粋な現実態(actus purus)」だけではなくて、働くものでもあり、従って働く人間について叙述される事柄は、神についても叙述できる。神は決意し、行為し、形成し、秩序付け、そして業は完成した段階で「御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2、2)。六日間は神の働きという秘儀にみちているように、七日目は神の安息という秘儀でいっぱいになっている。言ってみれば、週間(七日間)全体は秘儀である。言い換えると、時間全体が一つの秘儀である。それは、時間そのものから、あるいは人間の生活からそうなるのではなく、神の働きからそうなるのである。そうであるから、時間という秘儀を理解するために地上的なものではなく、啓示がなければならない。
 主日(日曜日)は秘跡のようなものである。秘跡においては二つの行為が互いに結ばれている。一つの「自然的」行為(例えば、洗礼の場合水で洗うこと)と「超自然的」行為(恩寵の働き)。人間が動くときに、意志決定に応じた身体の動きがあり、この二つの結合から例えば歩くという行為が生まれるように、自然的行為がなされる間に恩寵が働くというようなことである。
 月曜日から土曜日まで気を張って来た(tension)とそれに続く日曜日の膨張(distension)とが自然の構造をなし、その中に神が、それを伝えるために、ご自分の安息の秘儀を組み込んだのである。主日のおきてを守ることは、創造の業の後の神の安息の秘儀を吸収し、尊敬し、一日の過ごし方においてそれを証しすることを意味するのである。
 これは大変美しい考えであるが、それだけに実行しがたいものである。これについて話する場合、夢をすてて現実に沿って話ししなければならない。これもまた、難しいことである。なぜなら、主日は生活の自然なリズムから流れ出るものではないからである。自然的なものは、否応なしに、流れ出る道を見つけるだろう。
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* 「渠成水到」(禅語)、渠(キョ)成レバ水イタル、みぞが出来上がれば自ずから水がそこへ流れてくる。
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ところが、主日というのは啓示に根っ子をおろしており、自然的ないのちにも必要なものを含むが、冒涜しやすいものである。仕事や世間の心配事等々、たえず日曜日(主日)の地平線に上り、聖なる日を忘れさせる。仕事のために安息からそれることがある。安息の代わりに娯楽に夢中になり、安息日の聖性に背き、おきてを守っていてもその真の意味をつかんでいない。義務だから休むこともあり、その退屈しのぎは、安息日で仕事するよりも耐え難い。各自が安息日(主日)を前にして、自分の生活パターンの中でこの日をどう過ごすべきかを考えなければならない。これは各個人にとって大事な問題であるが、特に家庭にとって重要である。この日のことを理解し、その高い価値を認めた上で、重要なことに関して普段しているように、行動を決めなければならない。
 最後に、典礼で言う一日と太陽の運行に基づいて定義される一日とは同一ではない。普段では一日は0時から始まるが、典礼では前の日の夕方から始まり、「聖日前夜」というものがある。ここに深い意味がある。天文学的な一日とは違って、典礼の場合はいのちのサイクルの一日である。前者は、何があっても決まった瞬間に始まり、正確に計算できるものであるが、後者はいのち(生活)の新鮮で新たな局面を反映している。この後者はいつから始まるかと問うならば、それは睡眠は一番深いとき、いのちが沈黙の頂点に達するとき、と答えられるかもしれない。その場合は、睡眠の始まり、経過、終わりは秩序のあるものでなければならないのは大前提であるが。典礼日はこのことから構成され、夜から次の夜まで続く。ところが、熟睡は真夜中にあたるだろう。眠りというのは自分で得られるものではなく、自分におしかかるものである。
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眠りにおちいるための三つの条件。 1.良心にやましさがない。2.創造主に信頼がある。3.日ごとに満足がある。
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従って、始まりは睡眠におちいる前におかなければならないだろう。夕方以降の時間の過ごし方は睡眠にどれだけ影響しているかを知らない人はいないだろう。主日が提供する問題は前日(土曜日)の夕方から始まる。各自が実り豊かな過ごし方を選ばなければならない。
11.聖なる日と聖なる時

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