Sunday, March 13, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳) ①


ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)
Romano Guardini, Besinnung von der Feier der heiligen Messe, 1939. (english tr.: Preparing Yourself for Mass, Sophia Inst. Press, 1993)
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目次
第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
2.静と言 (Silence and the Word)
3.沈黙と聴くこと
4.平静 (Composure)
5.平静と行為 
6.平静と参加
7・聖なる場
8.敷居としての祭壇
9.食卓としての祭壇
10.聖なる日
11.聖なる日と聖なる時
12.聖なる行為
13.啓示する言葉
14.遂行する言葉
15.賛美の言葉
16.祈願の言葉
17.会衆と正された不正
18.会衆と教会
19.障害となる習癖
20.障害となる感情
21.障害となる人間性
第二部: ミサ聖祭の本質
序文
22.制定としてのミサ
23.記念としてのミサ
24.新約の記念
25.現実
26.時間と永遠
27.典礼的形態の模倣
28.自己自身を捧げるキリスト
29.会合と祭り
30.真理とユーカリスト
31.ミサと新約
31.ミサとキリストの再臨
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第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
ミサ聖祭がきちんと祝われると、司式司祭と信者との両方の声の音はしないときがある。司祭は典礼法規に従って儀式を行い続け、小さい声で祈ったり、発声を伴う祈りを唱え終えるときである。会衆は見守りながら祈りのうちに心を合わせる。この静かな休止期間は何を意味するのか?我々はその時はどうすればよいのか? この静寂さは何を含意するのか?
 まず第一にこの静寂さは、話が終わり、静けさは勝つということを意味する。いかなる音も - 身動き、ページめくり、咳、咳払い - 聞こえなくなる。おおげさに考える必要はない。人間は生き物であり、生き物は動くのは自然である。強制的に得られた外面的な画一化は、そわそわした状態に優りはしない。にも拘らず、 静寂さは動かない、真剣に望まれた時だけ成り立つ。我々はそれを尊重するなら、喜びをもたらす。重んじないなら不快をもたらす。ある人は言うかもしれない、「咳き込むことは止められない」、あるいは「静かに跪くことはできない」と。けれども、コンサートや講演で感動したときは、咳き込みやそわそわするのを忘れる。人 生におけるもっとも美しい事柄に関しては、それにふさわしい静寂さは勝つ。美しさと真に重要な事柄が君臨する、注意深さに満ちた静かな空間。我々は真剣に静寂さを望み、そのために何かを快く犠牲にするのをいとわないようにしなければならない。そうすれば静寂さは我々のものとなる。我々はそれを体験した後は、どうして 今までそれなしで生きてきたのかと驚くだろう。
 さらに、静寂さは、話もないもじもじすることもないときのように、表面的なものであってならない。我々の考え、感情、心も落ち着きを見出さなければならない。そうすれば、正真正銘な静寂さは浸透し、内面世界の計り知れない深さまでますます広がる。
 このような深い静寂さに達しようとすると、一挙にできるものではないとわかる。それを望むだけでは不十分で、練習しなければならない。ミサ聖祭の数分前は最も大事である。けれども、その数分を準備に使うために、早めに来なければならない。その数分は、回りをじろじろ見たり、空想に耽ったり、無用なページめくりをす るためにあるのではない。気を取り戻し、気を落ち着かせるためにある。自宅から出かけて教会に向かうときから始まったほうがよりよいであろう。やはり、聖なる儀式に与ろうとしているから、その道のりは平静を取り戻す練習に変えてもよいだろう。今から参加する聖祭の序曲のようなものにしてもよいだろう。実は、この聖な る静寂さへの準備は前の日から始まると言ってもと想う。典礼的に言えば、土曜日の夕方は日曜日の一部である。例えば、適切な読書の後、しばらく平静を取り戻す練習をしてみれば、その効果は翌日に現れるだろう。
 以上、消極的な観点から静寂さを取り上げてきた。話を止め、音をたてない。ところが、静寂さは話のない音のない、いわゆる言葉や音の間にある単なる隙間だけではない。静寂さには積極的な側面がある。もちろん、我々はその積極的な価値を評価する必要がある。何らかの講演、行事、祭典の間に一時的な休止がある。そのと き、ほとんど例外なく咳き込んだり、咳払いをする人がいる。その人は、話や音という道のりの割れ目として静寂さを体験している。その割れ目を埋めようとしている。そのためになんでもいい。その人にとっては静寂さ、単なる空白、空洞であり、無秩序、不快なものになる。実は、静寂さはあふれるばかりのものである。
 静寂さは内面的いのちの平穏であり、その隠れた流れの深い閑静である。集中して全存在を感じるときであり、受容性をもち、、覚悟のできた、敏感な「自分のすべてがそこにある」のような状態である。なにも惰性的なもの、重苦しいものはない。
 注意深さ、これがここで言う静寂さ、神の御前での静寂さ、のポイントである。
 教会聖堂とは何だろう。確かに建物である。壁があり、柱と空間をもった建物である。しかし、それらは教会聖堂という言葉のごく一部しか、その殻しか言い表していない。ミサ聖祭は「教会で」行われるという時は、我々はそれ以上のものを含意しているだろう。すなわち「会衆」(Congregation)、単なる人々の集まりではな い、「会衆」となった人々。教会に通う人々は、教会に到着し、信者席に座ったり、跪いたりしている人々は、必ずしも「会衆」となると限らない。彼らはただ単にたまたま同じ場所に居合わせる多かれ少なかれ敬虔な個々人かもしれない。「会衆」は成立するのは、個々人がただ単に身体的にではなく、霊的にも居合わせるときの みである。共同の祈りにおいて連絡し合い、共に霊的「空間」に踏み込んだときである。厳密に言えば、祈りで持って聖堂という空間を広げ、高めてからである。そのとき、真の「会衆」が存在しはじめ、教会共同体の建築的表現である建物と共に生きた教会を形成し、そこでミサ聖祭という聖なる行為は達せられる。これはすべて 静寂において行われる。静寂さから真の神聖さが生まれる。このように理解するのは重要なことである。建物は消えたり、破壊したりしている。すべてが信者が「会衆」を形成するかどうかにかかっている。「会衆」はどこにいても、その場所は貧しくてもつまらないものでも、破壊されえない「教会聖堂」である。我々は霊的聖堂 を建築する技術を学び、その技術を使わなければならない。
 静寂さを過剰評価することは不可能である。典礼について考察する本稿は静寂というテーマで始まるのは偶然ではない。典礼はどこから始まるのかと問われたら、私の答えは、静寂を学ぶことから、である。静寂なしには何もかも表面的なものとなり、実質のないものになる。ここで言う静寂とは、変な審美感ではない。美学的な 観点から静寂を捉えると、あるいは自分のエゴに引きこもるというようとして捉えると、それを台無しにしてしまうだろう。我々は目指しているのは、残念ながらひどくおろそかにされがちだが、深刻で重大な事柄である。それは、聖なる典礼行為の不可欠な条件である。
 
2.静と言 (Silence and the Word)
前章で神の御前での静寂を取り上げた。静寂においてのみ、聖なる儀式に欠かせない会衆は存在しはじめると確認された。静寂においてのみ、ミサ聖祭が行われる部屋は教会聖堂に高められることができる。従って、礼拝の始まりは静寂の創造である。静寂は、沈黙と言葉とに親密に関連づけられる。 言葉というのはミステリーに満ちたものである。言葉は唇にのぼったとたんすぐ消えるというほどにはかないものであるだけでなく、それにもかかわらず人の運命を決め、存在者の意味を決定付けるほど強力なものである。ことばは、つかの間の音によって形作られた壊れやすい構造であるが、同時に真理という永遠的なものを含 んでいる。言葉は、内面から出てきて、身体の諸機関によって音として作り出され、人間の中から、その心や霊の表現として口に昇ってくる。人間は言葉を発するが、言葉を造るわけではない。言葉はその人間の以前からすでに存在していた。言葉は他の言葉と関連づけられる。諸々の言葉全体は、偉大な統一体である言語を形成す る。言語は、人間が住まいとする形を取った真理という帝国である。
 生きた言葉は、玉ねぎのように多層の組織を作る。一番外側は単純なコミュニケ^ションがある、知らせや命令。これらは活字や人声を再生できる器具によって機械的に伝達することができる。このように造られる文字や音節は本物の言語からその意味を受け継ぎ、充分に一定の必要を満たすことができる。
しかし、このように表 面的で機械的なレベルでの言葉が本当の発話に達しない。本当の発話は、発話者から聞き手に伝わる確信の量に比例してのみ存在し始める。人間が意図する意味が理解可能な音に体現される際に、その意味が明らかにされればされるほど、人間の心がより完全に自己表現でき、より真にその発話は生きたことばとなる。
 最も深い精神は真理によって生きる。「これは何であるか」そして「価値あるものは何か」ということを認めることによって精神は生きる。人はこれらの心理を言葉で表す。真理をより完全に認めれば認めるほど、それだけその発話はよりよくなり、言葉はより豊かになる。真理は沈黙からしてのみ認識されうる。たえずしゃべる 人は、決してあるいはめったにしか真理をつかみはしない。もちろん、よくしゃべる人も何らかの真理をつかんでいるだろう。そうでなければ存在することはできない。彼はある事実を認め、物事の関連性を見、そこから結論を引き出し、計画をたてる。しかし、彼は正真正銘な真理をまだつかんでいない。真理は成り立つためには 、まず物事の本質、関連性の意味、この世界において価値あるもの、永遠的なものが自己開示を待たなければならない。これには、沈黙のみが作り出せる広さ、自由、内面の「きれいに拭かれた部屋」のうような純粋な受容性が必要である。いつもしゃべる人は、そのような内面の「部屋」を知らない。なので、真理を知ることはで きない。真理、すなわち話の真実性、話した後は静かになるという発話者の能力にかかっている。
 ところが、熱心さ[熱心に祈る]といえば、それは情動から、物事の意義や価値を評価する情動から力を得るのではないか。熱心さは、その背景にある体験が即時的であればあるほど、それだけ話に注がれるのではないか。そして、その即時性は、理屈を控えれば控えるほど、大きさを保つではないか。とりあえず、それはそのとお りだとしよう。しかし、たえず話すひとは、だんだん空っぽになるということも本当である。そしてその空虚さは一時的なものとは限らない。いつも敏速に言葉に注がれる情動は、やがてへとへとになる。何も貯めることはできなくなり、我に帰ることもできなくなった心は、すくすく成長することはできない。絶え間なく産物を出 さなければならない畑と同様に、やがて貧弱になる。
  沈黙から出てきた言葉だけは、実体を持ち、力強くなる。言葉は効果的であるためには、公の話に出なければならないが、ある真理の場合、すなわち自己自身や他者、そして神に関する理解の言い表せない深さの場合、必ずしも必要ではない。これらの場合、言い表せないまま体験さえあれば充分だろう。それ以外はしかし、内 面の言葉は外面のことばにならなければならない。悪用される話(トーク)があるように、悪用された沈黙(無言)もある。無言は冗長な話と同じぐらいわるいものである。無言とは、出口のない心という地下牢に沈黙が閉じ込められ、締め付けられ、重苦しくなったときに起こる。
言葉がその要塞を切り開く。暗闇に光をもたらし 、虜になったものを自由にする。話によって人間は、自分自身に対して、そして世界に対して責任を取るようになり、しかも自分自身と世界を超越するようになる。話は、他人の間、歴史の中の人間の居場所を示す。自由を与える。沈黙と話は互いに結ばれている。前者は後者を前提にしている。共に一体をなし、生きた人間が生活 し、その一体の名のなさを発見することは、奇妙に美しい。我々は知っている、人間のエッセンスは、地上の命は光対闇、日対夜という本領に同封されているように、沈黙対話という本領に囲まれている。
 従って、話すために沈黙の練習をしなければならない。典礼とは、概ね神に向けられた言葉と神から受け入れる言葉とから成り立っている。いかなる言葉も、最も深みのある言葉でも最も聖なる言葉でも、適切に話されない場合はそうなりがちなのだが、典礼の言葉は単なるトークに成り下がることを防がなければならない。典礼 の言葉には、神と贖われた人間の真理は明るく燃え上がるように組み込まれている。それらには、キリストの心(そこに父なる神の愛が生きている)とキリストの弟子の心は完全な表現を見出さなければならない。典礼の言葉を通じて我々の内面は、会衆とその神秘が神の御前で作り出す聖なる公開性に渡る。キリストがその弟子に 「これを行うたびに、私の記念として行いなさい」とおっしゃったときに、弟子に託したその神の聖なる秘儀でさえ、人間的言葉によって再現される。この秘儀のために、典礼の言葉において居場所を見つけなければならない。典礼の言葉が幅をもち、落ち着いたもの、内面的知識で満ちたものでなければならないが、それは沈黙か ら出たとのみそうなりうるのである。、礼拝の準備段階にある沈黙でも、礼拝の
間にたびたび自ずから確立する沈黙でも、礼拝における沈黙の重要性を強調しすぎることはない。沈黙は、そこから言葉が湧き出る内的泉を開くのである。

3.沈黙と聴くこと
 沈黙と話は互いに頼り合う。共に、名のない一体を形成し、それは我々の霊的いのち(生活)を支える。しかし、ここでもう一つ欠かせない要素がある。それは聴くことである。
 ミサ聖祭の対話を想像してみよう。ミサの大きな部分になるのだが、使徒の書簡と福音書は国語で朗読される。そうすると、典礼を愛し、典礼になるべく完全に参加したい信者はどうするのだろうか。彼らは朗読者が朗読している間に、手元の祈祷書[ミサの式次第と朗読箇所を含む]でもって、その朗読箇所を読んでいく。彼らは 良かれと思ってそうするだろう。聖書朗読の一語も見落としたくない。しかし、これなんて変な結果となる。かつては助祭の務めであったが、今朗読奉仕者がそれを受け継いで一方で信者に向けて荘厳に聖書を朗読している。他方、信者は同時に書物から読んでいる。これは、霊的行為の本来の姿でありうるのか。決してそうではな い。何かが壊されている。
 荘厳な朗読は聴くことを要求する。同時に書物から読む必要はないはず。でなければ、声を出して朗読する意味はないだろう。書物を中心としている我
々の学習の癖がこの不自然な結果の原因である。嘆(なげ)かわしいことに、聴くべきときに書物から読むようにさせるのである。結果として御伽噺はなくなり、詩は力を失った 。御伽噺と詩の響き渡る、知恵に満ちた、誠意を込めた言い回しは、読むためではなく、聴くためにあるのである。ミサ聖祭の場合はさらに、美しくて荘厳な言葉だけではなく、神の言葉に対する態度が問われる。
 もしかするとここで反論されるかもしれない。「これは、あまりにもささいなことではないか。最も大事なことは、信者が神の言葉を受け入れ、それを理解することではないか。それは、読むことによってであれ、聴くことによってであれ、かまわないではないか。」実を言うと、これは死活のもんだいである。黙って書物から読 むことにおいて、言葉という弱くて力強い事柄は不完全である。未完成のままで、活字にもつれたまま、物体的なものとして、生きた部分を欠いている。急いで文字を追いかける目は、つかの間のイメージを想像力にもたらし、知性はぼんやりした「理解」しか得られず、結果の値打ちはすくない。失われたものは典礼的行為のエッ センスに属するものである。もはや聖書は、その霊的・身体的次元を完全に伴い、空間を通じて聞き手に、生活に受け入れるべく届くことはない。もし、人々は自らの最も暑い思いを生きた発話で伝達することをやめ、その代わりに書面においてのみコミュニケションを取るとすれば、損することになるのだろうか。絶対に損になる だろう。鳴り響く言葉の身体的活力は消える。信仰の領域においても損は大であろう。何といっても、キリスト自身は「聴く」と言っていた。キリストは「目のある者は、読みなさい」(マタイ11・15参照)とは言っていない。これで活字の価値を切り下げるつもりはない。活字にはそれなりの善さもあり、必要なことである。しか し、活字はより善いもの、より必要なもの、より美しいもの、つまり聴くことを閉め出すべきではない。パウロが言うように、信仰は聞くことから生まれる(ロマ10・14)。
 もちろん、信仰は書物によって灯されることがある。しかし、「福音」(福をもたらす音)、「良き知らせ」は聴かれるときのみその完全な活力を得る。活字は当たり前となった昨今、我々はこの事実を忘れがちである。しかも、どれだけのものを失ったかを実感しえなくなったほど、完璧に忘れてしまった。完全な言葉は、印刷 した形にではなく、発話されたときである。そのときのみ真理は自由である。人声によって発せられた言葉のみ、情動の深み、霊の座、良心の感受性全体を動かすために必要な繊細さと力をもっている。秘跡と同様に、神の言葉が霊的且つ身体的なものであり、秘跡のように血と肉をもった人間の霊を養うために、人間の内面に力を 発揮するためにある。そのために完全なものでなければならない。さらに深めていくと、我々を訪れた救われる神は、永遠なるみ言葉であった。そのみ言葉は、ひらめく悟りまたは突然書物に現れたものではない。その神は「肉となった」(ヨハネ1・14)、見える肉、聞こえる肉にされた。ヨハネがその最初の書簡の初頭で生き生 きとした表現で強調しているように、手で触れることのできる肉であった。それと同じ秘儀が典礼の告知における生きた言葉に続いている。このつながりが保たれるのは死活問題である。
 さて、神の言葉が聴かれるためにある。ところが、聴くために沈黙が必要である。
 次のように要点を確認しよう。適切な聴き方を妨げるものは何か。例えば、声の届かない距離から人に話しかける。その場合、つながりをもつためにもっと大きな声で話しかけるべきだろう。また、充分大きな声で話しても相手は、別の方向に耳を傾けているとしよう。こちらの言うことは無視されるだろう。その場合、相手に聞 くように呼びかける必要がある。相手はこちらを聞いていて、言われてことを受け止め、内容を把握し、努力しながらも理解してくれないとしよう。相手において何かが閉じられている。相手がこちらの言い分を聞く、その意味を知的に心理的に受け止めている。第三者に向けられた言葉であれば、すぐに理解できる。しかし、自分 に向けられた言葉としてはつながらない。彼のプライドは邪魔になり、真理を認めようとしない。もしかすると、彼の内面の声が注意を促しているかもしれない。その真理を認めたら、変えたくない生き方を変えなければならない、と。こうやって様々の例を分析してみると、聴くことには複数のレベルがあるということはわかって くる。特に発話者が神である場合は、聴き方の重要性は明らかになる。「聴く耳を持つ者は聴きなさい」(マタイ11.15、マルコ4.9、ルカ8.8)と主がおっしゃったのにはわけがある。
 聴く耳を持つためには恵みが必要。なぜなら、神から耳を開けてもらった人だけが、神の言葉を聴くが出来るからである。耳を開けてもらうのは、神の意にかなうときであり、従って真理を悟るために神に願わなければならない。しかし、同時に我々にもそれを望み、受け入れる何かが必要である。それは、自分自身の内面におい て注意していること、自分自身の存在の生きた核心から聴く姿勢、彼方からやって来る聖なる言葉に自己自身を打ち明けることである。これは、我々は内面的に静寂さを持つときのみ可能である。静寂さにおいてのみ我々は実際に聴くことができる。外から聖堂に入るときは我々の耳が町の雑音、仲間の様々の言葉、自分自身の葛藤 や複雑な思い、心にある不安や気がかり、傷や喜びで耳がいっぱいになっている。そこでどうやって神の言葉を聞くことができるのか。[祭壇の方]に耳を傾けることぐらいでも、大したものだ。皆そうなると限らない。より良いことに、注意を注いで言われていることの意味を捉えようと努力することまでこぎつける人がいる。しか言葉が根付くことのできる注意深い静寂さではない。この静寂さは礼拝が始まる
前に確立していなければならない。可能な限り、教会に向かう道で沈黙で準備する必要がある。また、前日の夕方にしばらくの間に平静を取り戻すのは、もっとよい方法であろう。

4.平静 (Composure)
信仰生活において沈黙が単独で取り上げられることはまれである。早かれ遅かれ、沈黙の友、平静が話題になる。沈黙は雑音とおしゃべりを抑える。平静は放心状態と不穏に対する勝利である。沈黙は、つい先まで話していた人の閑静である。平静とは、周囲の状況に分裂し、日々の無数の出来事に振り回されがちな人の生き た、ダイナミックな一致である。
 平静とは何を意味するのか?大抵、人間の注意力は、その人を取り巻く多様な物事や人々に即して、無数の断片に引き裂かれている。心は落ち着かない、情動は絶えず様変わりする物事を求め、望みは次々と対象を変える。意志は、しばしば矛盾する無数の心積もりの虜になる。悩まされ、様々な方向に引っ張られ、自己矛盾を抱 えるのは普通の状態である。
 平静は逆方向に働きかける。虜にしている雑多な対象から人間を救い出し、霊的一致を回復させるのは平静の仕事である。平静は様々な誘い、誘惑から心を自由にし、最も大切な事柄一つに集中させる。平静は、無数の思い、望み、計画、心積もりを追いかけ、四方に散らばっている魂を呼び戻し、我に帰るようにさせ、その深さ を回復させる。
 ありとあらゆるものが人間から落ち着きを奪うようである。大自然の現象は人間の好奇心をそそり、彼を引き付けて放さない。もちろん、自然のことだから、落ち着かせる、集中させる効果もある。人間にまつわるほかのすべての現実も同様である。出会いと運命、仕事と休み、病気と事故、いのちと死。
これらすべてが人間に圧 力をかけ、その心に群がり圧倒させる。しかし、同時にこれらは人間に本気と重みを与える。
 まことに悲惨なのは、現代的生活の無秩序と不自然さである。我々はずすさまじい、混沌とした様々の刺激という嵐にたえず直面させられている。この刺激は同時に強力で表面的だが、すぐにその力を失い、ただ次の刺激に取って代われる。このような過度で離れ離れの刺激は、互いに矛盾し合い、邪魔し合い、さえぎりあう。一 歩進めば我々は巧みにつり込む異なる[反対]の目的[意図]の虜になり、それらにだまされる。いたるところ我々は要らないものを押し付ける広告に直面させられる。我々は重要なこと、深みのあることから、たえず気をさらすもの、「面白い」もの、ぴりっとするものへとおびき出される。
 こうした事情は、我々の周りだけではなく、我々のうちにもある。かなりの程度で、人間は深みのない、中心のない、上面で気まぐれな生活をおくっている。自分の内に本質的なものを見出さないので、何でも刺激となるもの、物議をかもすもにすがる。しばらくはそれらで喜び、また飽きて、自分の空虚さを思い出し、新たな刺 激を求める。乗り物、情報、知識をたえず増やすことによって、接近したすべてのものに触れるが、吸収することは何もない。ただ単に物事について「聞いた」だけで満足し、流行の用語で分類し、どこかに置いておいて、次の物に進む。上辺の人間がその空虚さを落ち着きのない絶えざる活動で満たそうとする。活動の真っ最中に 、ラッシュとノイズと迅速な結果との成功の刺激に一番幸せと感じる。回りは静かになるとたん、迷子になる。
 こういった事情はどこでも見受けられる、信仰生活においても、礼拝でも、ミサの時も。たえざる不安はその特徴の一つである。そこで、何回も周りを見る、必要なく跪いたり、立ったり、物事をさがしたり、衣服をもてあそんだり、咳したり、咳払いしたりして、落ち着かない。外面的に振る舞いはちゃ
んとしていても、歌う時 、聞くとき、答えるときなど、全般的には内面的な不安は明らかである。人々は浮いている、聖堂という生きた空間とミサという生きた時間をはみ出ている。一言で言えば、平静がない。
 平静はばらばらの刺激と仕事からの自由だけではない。平静とは、いのちが完全な深みと力をもったときである。いのち、生活はそれ自体として、いつも外に、物事や出来事の雑多に向かっている。しかし、この自然な傾きは平衡(へいこう)させるべきである。例えば、呼吸の仕組みを見てみよう。内側へそして外側へと、二つ の方向をもっている。両方ともいのちに必要。どちらもいのちの営みの基本的な要素となっている。一つだけでいのちは成り立たない。息を吐き出すだけの有機体も、あるいは空気を吸い込むだけの有機体もやがて窒息するだろう。平静は、霊的人間の吸い込みであり、それによって自らの深みに戻って、ばらばらになった自分の様 々な部分を中心に集めるのである。
 平静をもった人のみ人格になる。そのような人だけが真剣に話しかけられ、答えることができる。そのようあ人だけが、目覚めていて、意識的に人生の出来事によって本当の意味で影響を受けることができる。目覚めているというのは、それは自分の利害、好都合を早く見て早くつかむ、という表面的な意味合いではない。そのよ う用心深さは小鳥や蟻にも見られる。必要なのは、本当の意識、本質的なものの内的知識である。つまり責任のある選びをする能力、霊的感受性、快諾、生きる喜び。平静が確立してくると、典礼行為は可能になる。聖書や典礼のシンボルの深い意味、典礼刷新のどうのこうのについて論じても、大前提の本気はなければ無駄であろ う。本気になることがなければ、典礼でも「面白い」ものにしてみたり、過ぎ去る流行ものにして見たりしたくなる。真剣に典礼に参加するためには精神的な平静がなければならない。ところが、沈黙と同様に、平静も自動的に起こるものではない、まずそれを望み、練習しなければならない(R. Guardini, Wille und Wahrheit, Mainz, Matthias Grunewald Verlag, 1938参照)。
 何よりもまず、早めに教会に行って、内面的掃除をしておく。教会聖堂に入る時点の我々の普通の状態、落ち着きのなさ、内的混雑、無秩序をありのままに直視すべきである。厳密に言えば、我々は、神の話し掛けに適切な答えを返せる人格としてそこにいるということまではいたっていない。我々は、その時点で、互いに矛盾し あっている感情や空想、思いつきや心積もりの束にすぎない。まず第一にすべきは、落ち着くことであり、我に帰ることである。
我々は正直に次のように言うべき、「今私はここにいる。しなければならないことは一つだけ、自分のすべてをかけて、唯一大事なことである聖なる典礼に参加することである。さあ、準備ができた」と 。
 こうのうに努力してみると、我々はどれほど取り乱れた存在であるかが分かってくる。我々の考えは我々をありとあらゆる方向に引っ張っていく。人間関係、家族、友人、ライバル。仕事、心配事、世間の出来事、個人の用事などなど。我々は何回も、何回も、思いを呼び戻し、繰り返し繰り返し整理しなければならない。それは 難しいと実感してきたときにあきらめずに、ただ我に帰るときであるとばかりに自分に言い聞かせるしかいない。
 これは、可能であろうか。人間というのはどうしようもなく外面的な刺激、様々な欲情、不満に負けるものではないのか。この質問は、究極の問題に触れている、人間と動物の違い。
動物は実際に刺激に縛られている。自由がない。しかし、同時に秩序的資質を含んだ本能によって守られている。動物は本当の意味で気が散ることはない。厳密な意味で動物には乱れも平静もない。乱れか平静かという選択に直面させられたことはない。動物の存在は自然本性によって決定づけられ、その本性は秩序を意図している 。人間だけは、自然を超える霊魂のために乱れることがありうる。霊魂はこの世の物事に向かうと、そこで迷子になることがある。その同じ霊魂が乱れに打ち勝ち、平静を取り戻すために闘うことができる。霊魂は神秘的なものであり、永遠と関係付けられている。絶対的な休息、平静は永遠に等しい。時間は不安と乱れと関係して いる。永遠は休息と一致、ただし永遠イコール不活発ないし退屈ではない、愚か者だけはこのように関係付けている。永遠とは、休息という形でのあふれるばかりのいのちである。永遠の何かが我々の中に、深いところにある。
 霊的巨匠に従ってそれを「霊魂の地盤」または「霊の頂点」とよぶことにしよう。前者は内在性、深みの休息、後者は遠く離れたところの静寂、高みを意味表示している。永遠のこの種子は私のなかにあり、私はその支えを頼りにできる。その助けでもって、終わりのない追求から逃れることができる。この神の家に属さないいか なるものも忘れることができる。私は静かになり、自分の完全性を取り戻して、正直主の呼びかけに答えることができる、「主よ、私はここにいる」と。
 
5.平静と行為
正しい話し方と聞き方は沈黙から生まれると同様に、正しい振る舞いと良き行為は平静からのみ生まれる。行為は外に現れる演技のものである。無数のレベル、いのちと同じように無数のレベルを持っている。電気をつけるというように、ただ単に外に向けた機能がある。スイッチなどはちゃんとしていれば、問題なく明りがつく。 しかし、課せられた仕事、時に大事な仕事をしなければならないとなると、その場合集中しなければミスをおかしてしまうかもしれない。
 奉仕するとき、友達と付き合うとき、愛するときのような人間関係においては、人間とその行為という領域全体には、行為の人間らしさは、どの程度内面から関わっているということにかかっている。日常言語にはそれを示す表現がある。彼は仕事に「夢中になっている」、または「心をこめて」やっている。心をこめなくても一 人で色々のことができる。何かをするときに、ある程度の心理的活動によって体を動かすが、心が別のところにあっても、できることはたくさんある。課せられた仕事は高貴であればあるほど、難しければ難しいほど、重要であればあるほど、それを成し遂げるために、それだけ自分自身の注意力、本気、熱望、そして愛を込めなけ ればならない。精神をフルに使用して心から取り組んでいかなければならない。それは平静である。心と精神は今、ここに集中している。空想を追いかけることなく、自分のすべてが今ここにいる。
 同じことをすべての行為について言えるが、特に、本書のテーマである、神の御前で行われる礼拝についてあてはまる。典礼は、教会聖堂における神の現存に基づいている。そして、その現存に対する人間の答えから始まる。この点は、典礼と個人的祈りの分かれるところである。個人の祈りは、どこでも、自宅でも、街でも、畑 でもできる。典礼とは、何よりもまず、聖なる場所での奉仕を意味し、そしてこれは決定的なことである。これは偉大なしんぴである、神は一定の場所に現存する。我々は神の御前にあることを覚え、それに答えなければならない。これについてイタリア語には美しい表現がある。"Fare atto di presenza"(「ここにいる行為を行う」)。そこからすべてが始まる。身体、精神、魂、注意力、敬う心、愛でもってここにいる、という意識が不可欠である。それは平静である。平静をもった人だけが自らの内に神の現存を持ち、神の御前に出て、敬愛でもって神の溢れる恵みに答えることができる。
 平静は目に見える正しい振舞い方を可能にする。教会聖堂における人々の振る舞いはしばしばたるんでいる。これは言いすぎだと思われるかもしれない(変な解釈してほしくないのだが)が、大変重要な問題なので、注目をしていただきた。教会に通う人々の多くは、この問題に関して充分な理解をもっていない。教会にいること は、ほかの場所にいるのと同じように捉える人がいる。
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【訳注】
・典礼の中で守られる沈黙は「聖なる沈黙」(『典礼憲章』30条など)と呼ばれ、典礼に参加するための一つの要素として位置づけられています。
「ローマ・ミサ典礼書の総則」では1969年の初版から、沈黙に関する項目が掲載されています(23番)。そして、2002年版では次の文章が加えられました。「祭儀そのものの前にも、教会堂、祭具室(香部屋)、準備室とそれに隣接する場所では沈黙が正しく守らなければならない。こうして、聖なる行為が敬虔かつ正しく行わ れるよう、すべてが整えられるのである」(45番)。ここで述べられているようなことは、あたりまえのことかもしれません。しかし、あえてこのことが加えられたということは、ミサが始まる前の沈黙が実際には守られていない状況があることを表しています。
たしかにミサの前には、「おはようございます」、「こんにちは」など日常的あいさつをはじめ、その日に行われる行事などについて会話を交わしてしまうことがよくあります。ほかに場所がないので仕方なく行われているのかもしれませんが、こうした会話は本来、教会堂の外で交わされるはずのものです。(毎日のミサ、2009年 9月号)

・聖堂がもっと静かな祈りの場であるためのお互いの努力(ミサの前後はもとより、平日の清掃や歌の練習の際も私語を慎むよう務めること)ttp://home.a06.itscom.net/catholic/communio/pastor200301.html
最近は平気でミサの前後に聖堂内で日常の話をしている方々がいます。御聖体が聖堂内にないのが原因のひとつかもしれませんが、沈黙の時間帯をミサの前後に決めるのも考えなければと思います。でも先導者がマイクで静かにしてくださいというのには反対です。誘導者がシーという程度でやってもらいたいです。
www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/2006sokai-iken.htm

・ミサの朗読配分を解説する『朗読聖書』(カトリック中央協議会発行)28項は、ことばの典礼の意義を沈黙という観点から次のように述べています。
「ことばの典礼は、沈黙を助けるように行わなければならない。したがって、内省を妨げるような落ち着きのない行動はいっさい避けなければならない」。
(…)落ち着きのない行動を慎むようにとの注意は、信徒の積極参加を特徴とする現在のミサで、ややもすると生じがちな傾向を反省させているようです。沈黙は参加者全員に求められている根本的な奉仕であることに気づかされます。(『聖書と典礼 2009.10.4』オリエンス宗教研究所発行、4頁)『朗読聖書の緒言』28項は、ことばの典礼における沈黙についてさらに次のように続けます。「聖霊に促されて神と人との対話が行われるためには、集まった会衆に合わせて短い沈黙にひとときをとる必要がある。それによって神のことばを心で受けとめ、祈りをとおして応答を用意することができる」。ミサにおける沈黙が 、神との対話という深い次元でのことばの働きの状態であることが示されています。そして、ことばの典礼の中で沈黙のひとときを適宜とるよう勧められているのは、「ことばの典礼そのものが始まる前、第一朗読と第二朗読の後、また説教が終わってから」です。(『朗読聖書の緒言』)28項の内容は「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」56項にも所収)。これら以外でもミサの式次第の各所で沈黙のひとときは大切な役割を果たします。静かな間を適宜とることは司式司祭と奉仕者(朗読者、先唱え者、オルガニスト、聖歌隊など)、そして会衆全員との間での連携と協力が求められる、ミサでの実践の大きなポイントです。(『聖書と典礼 2009.10.11 』オリエンス宗教研究所発行、4頁)
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