21 障害となる人間性
正確に言えば、主キリストがどのようにご聖体を制定したのか?最後の晩餐で起こったことを考え、ご自分の存在と働きの本質的なものを、それ以降は絶え間なく再現され信仰生活の中心となる、一つの行為に組み込んだのは誰であるかを考えると、詳細なまで全てを丁寧に定めただろうと思われるかもしれない。全体の構造及び言葉とジェスチャー一つ一つを選んで、至聖なるものを、時間の流れからくる邪魔物や歪曲から守るために、厳格な法則で固められた霊的な「保護区域」においただろうと思われるかもしれない。イエスが育った旧約聖書の伝統、その精密な礼拝活動の発展を考えれば、ますますそう思いたくなる。一方、イエスの時代にはそのような細かい定まりは常識的なものであったし、他方では、新しいものと古いもの区別をはっきりさせるために必要だろうと思っていたとしても、決しておかしくない。
ところが、実際は全然違う。キリストは最後の晩餐という時の重要性を完全に意識していたと、福音書は報告している。何か不注意が働いたとはとても考えられない。ご自分がしようととりかかったこと、まさにそのことをなさった。それは何であろうか?過越祭という文脈で、パンを取り、その上に我々は知っている言葉を述べ、食べるために弟子に配った。同じことを、杯でも行う。それから、「これらをするたびに、私の記念としてしなさい」とおっしゃる。
誰に向かって語っているかは明らかである、使徒たちとその後継者である。彼らがしなければならないことも明らかである、彼自身がたった今なさった「これら」のことである。おそらく、「これら」のことをゆがめることもなく、抽象化させることもないように。以上である。さらなる言葉もない。「このようにせよ」という細かい指図も、指示もない。より広い全体や枠組みのなかの位置付けもない。いつ、どこでなすべきか、などなど当然知りたいことについて一言もない。このようにして、無限の可能性と神的尊厳の簡潔な命令が、驚くべき単純さで、人間の手に任される。
イエスは、聖なる行為を定めるにあたって、過越祭の流れを汲んで、これからこのような新しい形で祝い続けるように命じている。要するに、何の処置も手続きも定めていない。イエスはなさったことは、種を蒔くようなことである。その種は日の浅い会衆という土に根を張り、そこで芽を出した。聖木曜日で起こったことは、ユカリスティアの祝いで新たにされるべきであると、教会共同体はいつも信じてきた。が、それは模倣ではなく、生きた再現でなければならない。種はいつも直接に「土」の影響を受けてきた。つまり、教会が置かれた社会的勢力や動機、状況などは影響を及ぼしてきた。また、会衆のサイズ、所在、都会部か田舎か、民族の歴史的文化的状況によっても、教会が影響を受けた。
このように、ミサの聖なる行為の土台は時の流れの中に置かれた。それは、まことに長い、変化に富んだ歴史であった。その中に、ミサのいのちとなる側面、不滅の側面と共に、逆に過ぎ行く側面、やがて消滅に向かう側面も確かに現れた。この長いプロセスの中で、全体の構造は、特定の概念をシフトしながら、いつの間にか「定住」したわけである。時には、それほど価値のなかった追加は、言語や儀式に入り込んでしまうこともあった。当時使用された言語は、後に「死語」となる運命にあったが、そのほかにも様々な危険があった。
さらに、ミサ聖祭は司祭や奉仕者や会衆、つまり人間でもって祝われてきた。その人間たちのうち、典礼の独自性や形態に対して深い理解を持った人もいただろうし、皆はそうと限らない。ある人は、象徴に反応できるが、観念や道徳的戒律しか分からない人もいる。一個人の中でさえ、準備の度合い、霊的参与の度合いは動揺する。目覚めた時期、楽しい時期もあれば、無関心と落胆、不注意と退屈の時期もある。
神聖な行為の種は、人間の不完全な土に植えられている。典礼は自分にとって生きたものである司祭によって祝われると、その言葉とジェスチャーには納得いく。典礼の精神に疎い司祭だと、言葉と振る舞いはぎこちないもの、不自然なものに見える。そのほかにも、個人差で、話し方や物腰や振る舞い方の様々な短所があり、かなりの邪魔となり得る。会衆に関しても、様々な欠点が見られる。会衆にも理解と無関心、積極的参加と他人任せなどがある。ちゃんと教育を受けて、理解した上でミサに参加する会衆もあれば、毎日、毎週消極的にセレモニーの流れを眺めるだけで、ミサは受け継いだ伝統でしかない会衆もある。会衆は乗り気にある場合もあれば、全く従ってこない時もある。会衆のうちに個人的な信心を行っているメンバーもいる。その中に、絶えず変わる人間生活に含まれる気分のすべての様々な色合いがある。
これは、個々の信者にとって、深刻な問題となり得る。ミサに行くとき、ありとあらゆる不備を感じる。観客のような姿勢をとるか、「まともな演技」をしてもらえるかどうかで、満足いったり不満になったりして、あるいは、演技の問題ではなく、共に行う奉仕であるということを理解するか、すべてがその分かれ目にかかっている。共に捧げる奉仕であれば、担い手は司祭だけでも、会衆の他のメンバーだけでもなく、各人である。
各人が、それぞれの立場にしたがって、ミサの担い手である。各人が、既成の秩序において、できる限りより優れた実践を目指し、なるべく間違いをなくすように力を尽くすべきである。それ以上のことは、出席しているミサの諸事情を受けいれて、お任せすべきであろう。何らかの短所があれば過度に心を乱すべきではない。もちろん、その短所を参加の度合いを保留するための口実にすべきではない。各人が、本質的なものは変わっていないということ思い起こし、ミサの流れに乗り、神聖な行為は達成されるように協力すべきである。
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