19 障害となる習癖
本書は、「ミサ聖祭に与るための準備」と呼ばれ、その目的は、神聖な祭典により完全に参加できることである。各章は異なる角度からその目的に向けてさまざまな考察を紹介している。終わりに近づこうとしている第一部では、いくつかの純粋に実用的な考慮事項を提供しされている。ミサになるべく参加することに我々にとって妨げとなることは何か?まず第一に、習癖だろう。
いかなる感動[印象]も消え失せていく、というのは精神の基本的な法則である。いのち全体は成長もするが、絶えざる生成消滅でもある。最初のうち感動は強く働き、力を得てしばらくつづき、やがて消える。感動の経験者は、言って見れば、その感動を「使い果たした」。それから、無関心の状態になる。
それは日常生活の多くのつかの間の接点の事柄である限り、問題はない。それぞれの接点がその瞬間またはその時を持っているし、次の接点のために準備をする。ところが、同じプロセスが我々の存在の基本的な部分、したがってかけがえのない部分を支配するままにしておくと、致命的になる。例えば、我々の使命[職業 vocation]は、不変の要求と責任をもっている。結婚、親友関係、自己との関係などもそうである。変化するままにしておくわけにいかないので、自分との暫定協定をしていかなければならない。
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訳注: 人生の歩みの中で、決然と一つの目標を見定めて行動を起こさなければならない時がある。それは、大学を選んだり、職業を始めたり、結婚もまたそうであろう。そのために困難なこと、辛いこと、寂しい思い、そして順境であろうと逆境であろうと、その志を保ち続ける強い心が求められる。
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この場合は、感動や感情の消え失せる法則は深刻な問題となる。仕事は新しく、興味はいっぱいある時は、その仕事は全く負担ならない。その仕事は同じでも、長らく行われると負担になり、困難さを伴うようになる。他人との付き合いは、相手には知られざる新しさ、サープライズや驚きがある限り、喜びであり、よい刺激となる。しかし、親しくなると、その反応や応答は知り切ったこととなると、退屈に沈むのである。自分に関しても、我々は皆、我々自身の性格、欠点に落胆と圧倒的な嫌悪感を経験しているだろう。
以上の全てがミサにも当てはまる。我々は毎週日曜日ミサに与っている。より頻繁に、毎日でも与っている人々は少なくない。ほとんど同じものである。主要なテキストのほとんどは、何回も繰り返される。いつも祭壇の下で同じ祈りで始まり、たまにしか詩編[43・1]Judica me [私を弁護し給え]が省かれるだけである。主の命令に応じて、主ご自身がなさったことを記念として行うために、奉献文[ローマ典文]は、わずかなバリエシオン以外は、いつも同じである。キリエ、グロリア、クレド、主の祈りとアニュス・デイ、主な祈りは完結したものであり、変わることがない。待降節や四旬節のように、グロリアが省かれることがある。平日のミサや殉教者、証聖者、聖女の記念日のように、クレドが除外されるぐらいの変化しかない。
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ミサ通常文(Ordinary of the Mass)と固有文(Proper)
ミサを構成する種々の祈りの文のうち,執行される日や目的などによって変化しない部分をいう。それに対して,曜日や季節,祝祭の種類などに応じて変化する部分をミサ固有文という。具体的には,キリエ,グローリア,クレド,サンクトゥス,ベネディクトゥス,アニュス・デイなどが通常文といわれる。
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ミサの固有文でさえ、その構成、言語スタイル、霊的態度において、お互いに似たりよったりである。例えば、昇階文はだいたい、聖書の箴言の書を真似しており、アレルヤが点在している。集会祈願はいつも、直接な呼びかけで始まり、主な内容を展開し、決まった文言で終わる。時間の経過とともに、毎日かわる書簡と福音の朗読も鮮度を失いがちである。神聖な儀式に参加して長い年月が経つと、我々の対応は、おなじみのある古き友人への対応と同じになる。
こうして、最初のうちは現れては消えるが、単調感が少しづつ長くなり、どんどん強くなるのである。"全部分かりきったもんだ"とか、"次はどうなるのか、どういう言葉が出るのかも知っている"、と言いたくなる。しかも、同じ司祭は同じ祭壇に、長い間、いつも変わらないやり方で、個人的な特殊性や癖で司式するとなると、退屈と疲れのまことの危機に襲われるであろう。こうなると、もう何も得られないと感じるようになり、何のために足を運んでいるかがほとんど分からない、という状態になる。各主日にミサに与るのは、教会の掟により義務となっているのは、泣き面に蜂である。
この場合はどうすればいいのか? いかなくても良いのだろうか?平日でも毎日ミサに与る人は、ミサは無味乾燥になってしまったら、それほど頻繁に出なくてもよいというアドバイスを与えるのもできると思われる。しばらくの間、主日だけにして、その代わりに、ご聖体訪問や聖書を読む時間を取るのはよろしいだろう。しかし、主日のミサに関してはそういうわけにいかない。これで教会の掟の大切さが分かる。完全にあきらめることにならないように、我々には本性上ルールが必要である。
信仰生活は強制すべきではない、内面から自発的でなければならないと主張されることがある。ところが、人間の生活は何もかも自発的ではない。規則正しい部分もあり、練習や規律が必要になってくる。規則正しさ規律が捨てられると、価値あるものも失われる。主日のミサへの参加という掟は必要であるだけではなく、正しいものである。掟は、聖なる時間、主の日と週日との関係に関わるからである。しかし、教育的観点の他に別の考慮事項がある。キリストがミサ聖祭を制定した事実である。それは我々が気まぐれに無視できることではない。むしろ、我々の信仰生活の核心である。もし我々はミサをスキップとすれば、その代わりに何を置くべきであろうか?何か我々自身が選んだものであろうか。でも、すぐにずっと悪い満腹感を経験し、人生の究極の意味に関わる、人間的努力の耐えられないつまらなさを経験するだろう。
では、どうしたらいいのか?まず、ミサは我々の生活に欠かせないということをきっぱりと明確にすべきであろう。きっぱり決めたこと、変らるべきではないことに独特な強さがある。自分で決意した事に関しては、少なくともある程度実行できる。本質的に不動ではない人間が、常に流される傾向があり、生活における明確な規律は、身体における骨太のようなものである。堅固(けんご)さと品位を与える。
「新しい歌を神に歌え」(詩編96・1)。この詩編は、歌い手がいつもいつも新曲を期待しなければならない、ということを言っていない。むしろ、あらゆる歌は、新たにされた心からさわやかに膨れ上がるべきである、と言っている。新しくされたものの力が人生における最大の幸せの一つである。まだ誰も作っていないものを作れる能力だけではなく、既に在るものを、初めて存在し始めたと言われるほどに、再生させるキャパシティーは幸せの一つである。人間は、長く続けてやったこと、見たことの単調さを突破することができる。そして、自分のうちにたまった力から、新たな出発をすることができる。
以上のことは、殊更にミサ聖祭に当て嵌まる。ミサ聖祭は絶対的で無尽蔵だからである。ミサの大部分は、いい意味で、人間の技、神によって指導された奉仕の技である。また、悪い意味でも、人間の技であり、形式主義や浅薄さを含んでいる。しかし、その現実の核心には、生きたキリストの救う行為があり、その行為には天主の知恵と愛全体が含まれている。その知恵と愛が、単なる対象物としてではなく、生きた力、現に働く力として与えられる。主の記念を祝うとき、肝心なところは、我々の知覚能力や評価能力ではない。キリスト自身が我々と共に働いておられる。第一義的に行為をするのはキリストであり、我々の記念する行為においては、動かすのはキリストである。
馴れ馴れしくなることと単調さは、物事、活動、人々には限られた意義と現実性しかない、ということの証拠である。従って、早かれ遅かれ限界に達し、付け加えるべくさらなるものは何もないと、はっきりしてくる時が来る。その時点で、興味をそそることに、忠誠心がとって代わらなければならない。ところが、ミサの場合は事情は違う。ミサの場合は、我々は直接に扱っているのは、キリストとその救済の業であり、ロゴスであり、その神的存在の無限性とその尽きない愛である。我々はキリストと関わるのは、当然支払わなければならない尊敬を求めてくるという意味だけではなく、我々の記念する仕事を助けてくださるという意味でもある。単調さは、ミサ自体からくるものではないと、信仰が教えてくれる。単調さが現れるのは、我々のうちにのみであって、キリストとその愛を十分真摯に受け止めていないときである。信仰者がキリストと関わる限り、その限りに応じてまさにキリストは新しいものである。従順のいかなる行為、いかなる克己、主の導きと力によって克服される生活のいかなる状態も、キリストについて何か新しい側面を示している。ミサは、我々はそれに期待をかける分だけ多くを与えてくれる。生活を刷新する力は、我々から来る限りの力ではない。我々は、天主の無限の可能性に期待をかけることができる。
確かに、我々は信仰においてのみこのように期待できるが、信じられることの真実は、それが個人的に経験される程度には明らかになる。
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付録 福音の新しさ
2コリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
マルコ1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1コリ11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
福音はいつも新しいはずです。よそに新しさを探す必要はないはずです。
情報とは何か。情報にはいくつかの特徴があります。何かを情報といえるためには新しさがなければならない。明日の新聞には今日の新聞と同じ情報であれば、誰も読まないでしょう。価値がない。
また、情報は同時に「冗長性」(じょうちょうせい redundancy)がなければならいといわれます。規則だたしさといったら分かりやすいかもしれない。繰り返される部分がなければならない。ですから、明日の朝日新聞はいきなり韓国語になったら、ついていけない人は多いでしょう。
あるいは、ニュートンの法則、F=ma 力は質量にかける加速度に等しいと言われても、慣れていないひとはちょっと待ってよ、というでしょう。その人にとって新しすぎる情報となります。
遺伝子にはたくさんの情報が詰まっています。遺伝子は体の形を伝えています。毎日体の細胞は遺伝子の情報に従って変わっていきます。変わらない細胞は死んでしまいます。毎日変わらない生き物は死んでしまいます。だから、毎日体は新しくなりますが、ここにも冗長性、繰り返される部分がなければならない。ネズミの実験で、鼻をつくる遺伝子を操作(そうさ)して、足に鼻を作らせた実験があります。やはり、体は唐突的に変わるものではない、少しずつ変わるが、突然全部新しくならない。
「あいうえおかきくけこ」50音表、あるいはabcdefgアルファベットには、決まった順序があって、いつも変わらない冗長性、繰り返される部分、規則正しさがある。けれども、アルファベットを繰り返すだけで情報を伝えることはすくない。やはり、順序を崩して、様々な言葉を作ります。文字を並べ替えて言葉と話を作ります。
また、情報は同時に「冗長性」(じょうちょうせい redundancy)がなければならいといわれます。規則だたしさといったら分かりやすいかもしれない。繰り返される部分がなければならない。ですから、明日の朝日新聞はいきなり韓国語になったら、ついていけない人は多いでしょう。
あるいは、ニュートンの法則、F=ma 力は質量にかける加速度に等しいと言われても、慣れていないひとはちょっと待ってよ、というでしょう。その人にとって新しすぎる情報となります。
遺伝子にはたくさんの情報が詰まっています。遺伝子は体の形を伝えています。毎日体の細胞は遺伝子の情報に従って変わっていきます。変わらない細胞は死んでしまいます。毎日変わらない生き物は死んでしまいます。だから、毎日体は新しくなりますが、ここにも冗長性、繰り返される部分がなければならない。ネズミの実験で、鼻をつくる遺伝子を操作(そうさ)して、足に鼻を作らせた実験があります。やはり、体は唐突的に変わるものではない、少しずつ変わるが、突然全部新しくならない。
「あいうえおかきくけこ」50音表、あるいはabcdefgアルファベットには、決まった順序があって、いつも変わらない冗長性、繰り返される部分、規則正しさがある。けれども、アルファベットを繰り返すだけで情報を伝えることはすくない。やはり、順序を崩して、様々な言葉を作ります。文字を並べ替えて言葉と話を作ります。
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