Monday, July 11, 2016

20 障害となるセンチメンタリズム

20 障害となるセンチメンタリズム(感傷)

単刀直入に言えば、センチメンタリズムは「感動させられる望み」である。孤独や喜び、悲しみや恐れにひたることである。高まる気分や有頂天、または弱い気分や困惑した気分によって、何らかの形で動かされたいことである。
  人によってその望みには強弱の差があるが、皆多少を持っている。おかしいことに、感情的と見えない人々、理性や意志の自己修養のある人々、やり手、想像力に欠ける人々には、特に強い。
   このことから、センチメンタリズムは本物の感情とは異なる、ということが分かる。感情は力強く、くもりのない、純潔なものである。センチメンタリズムは不完全な感情である、肉欲に染まった感じやすさである。従って、本物ではっきりとした価値基準を持っていない人々だけではなく、もっぱら"性格"に頼る人々、意志の強さや自己修養に強調点をおいている人日にも、強くなる。後者は、感情を軽視するので、いかがわしいこと、下劣なことに陥りがちである。
   以上の諸特徴は、信仰生活にもパラレルがある。感傷的信仰者は、偉大な聖人たちのうちの好みや好きな真理や好きな聖書箇所、その物腰全体にセンチメンタリズムへの傾向がある。
   ある程度までは、これは批判できないものである。ぼやけた考えや弱い筋肉のように、単に気質的なものである。けれども、信仰者がこの傾向に支配されると、大失敗を招く。啓示のみ言葉の偉大さを失わせ、聖人たちを歪(ゆが)め、信仰生活全般を弱々しいものにし、不自然でまごつかせるものにしてしまう。
   センチメンタリズムの事例はいたる所見受けられる。売れている信心書や宗教グッズや美術を見ればわかる。また、キリストの受難についてのある種の瞑想や煉獄のかわいそうな霊魂についての書物を読めば足りるだろう。嘆かわしいことに、この傾向に影響に流された一つの信心を取り上げると、それは聖心の信心である。本来この信心はキリスト教的信心の最も深いレベルに属する。その表現から聖書的真理と生き生きとしたキリストの力強さがにじみ出るはずである。気質の高いもので、純粋なものであるはず。残念ながら、多くの場合は、耐え難い不自然なめめしさを帯びている。
この問題に多くの側面がある。いずれにしても、侮れないし、何とかしなければならない問題です。感傷的な信者にとっては、ミサに参加することは極めて難しいことである。このタイプの人にとっては、ミサの神聖な行為は慰めでも啓発することではない、むしろ厳格で、冷たく、人間味のない、人を寄せ付けないとさえ感じる。確かに、ミサは厳格的なものである。その並はずれた概念が簡潔に表現されている。行為としては単純である。その言葉は、明確かつ簡潔である。その感情が制御されいる。霊的態度は、最も深い意味で自己をゆだねることであるが、静寂と純潔さを伴う。センチメンタリズムは、自分の飾り付けをミサになげかけることによって、すでに完璧なものに余計な手を加えようとする。聖なる食卓という形をとどめるように考えられた祭壇は、ケルビムやキラキラの小さなランプでごった返しのさか巻きとなってしまう。行為は、何より感情に触れるように、花輪(はなわ)のごとくジェスチャーで飾られる。侍者の衣料品はごてごてで、人形のごとく。祈りのテキストや音楽に機嫌をとるような甘さがある。ミサ典書の力強い言葉づかいの代わりに、人為的な考えや力を込めない不自然な感情に溢れる信心が勝つようになる。こうして、ミサの中核となる真理は失われる。主の記念は「啓発」のための出品になり、そして神聖な儀式への真剣な参加に、感動させる「体験」が取って代わられている。
エルサレムで行われた最後の晩餐、そして十字架上の死、この二つは不可思議に結ばれていて、主ご自身の言葉によれば、これらの出来事は何度も新たにされる。キリストが命じたように、「これを行うたびに、私の記念として行いなさい」と。教会がこの命令を受けとめ、二千年にわたってそれに従い、また世の終わりまでそれに従うだろう。教会はどのように「それを行っている」かというと、それは典礼の厳密な形である。
  もし、この「行い」は、敬虔な者の宗教的感情、または感傷主義に任せていれば、どうなっただろう。想像するために、信心的な祈祷書を見る必要がある。
  全体として感動的な言葉数は多くなり、可能な限り苦しみの恐ろしさや大変さが強調され、イエスの愛は常に繰り返したテーマになっただろう。敬虔なしつこさで、イエスを呼びかけ、イエスを賞賛し、同情し、彼の口にありとあらゆる感動なフレーズを置くことになっただろう。
  ミサ典礼のテキストはまったく異なる態度で語っている。なにより、明確かつ簡潔なテキストである。深みのある感情はあるが、いつも制御され、尊厳のある文書になっている。イエスご自身はほとんど呼びかけられていない。呼びかけは奉献文にまったくなく、簡単に記念行為が完了した後に、アニュス・デイと聖体拝領前の祈りにだけある。いつも卓越した控えめが守られている。原則としてミサの典文は父なる神に向けられている。主が受難の間、そして瀕死の時に感じたことにまったく言及されていない。最も深い畏敬の念に包まれ、神秘全体の背景に静かに感じられるだけである。
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訳注:   受難曲は、4つの福音書に基づくイエス・キリストの受難を描いた音楽作品をいう。受難曲は聖週間における典礼と密接に結びつき、中世以来の長い伝統を有しており、17世紀から18世紀には、合唱や管弦楽を伴うオラトリオ受難曲が数多く作曲された。現代においても、演奏会または典礼用の受難曲が新たに創作されている。受難曲がバッハの時代あたりから聖句を中心にしたオラトリオ受難曲(oratorio passion)から聖句を用いない自由な受難詩によって書かれた受難オラトリオ(passion oratorio) がメインになっていった。
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  受難曲というジャンルから見られる聖なるドラマにおいて、我々は信仰者の感情がどのように展開したかを見てとることができる。その展開の方向は、最後の晩餐の部屋とゴルゴタに起こった出来事の手の込んだ模倣である。これと比べれば、ミサという、直接に神自身によって制定されたものに、どの程度の天来の着想が必要であるかが悟るだろう。
  ミサにおいては、模倣もなければ感傷もない、イエスの経験を自分のことのように感じる(代行的[vicarious]経験)という要素は見られない。ゴルゴタで起こった出来事は全面に出ることはまったくない。全体の背景に静かによこたわっていることは意味深い。ドラマ的なアクションは最後の晩餐の部屋から取られている。それも、模倣されることなく、厳格な洋式化された形に翻訳されている。典礼が隠すことを形は漏らす。
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訳注:   英語ことわざ「What soberness conceals, drunkenness reveals.」《正気が隠すことを酔いは漏らす》を参照。
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   初期のキリスト教徒は、聖なるものに不可思議な形を着せることは適切であると信じていた。彼らの態度の理由の一つは、迫害の危険であった。迫害が起こると機会あるごとに聖なるものは汚されてしまう危険性であった。彼らはまた、神秘性は聖性の自然的要素であるということも知っていた。この要素は我々現代人には失われてしまった。あるいは、センチメンタリズムと虚偽の神秘主義という黄昏に沈むままに任されている。おそらく教会刷新の最も緊急な課題の一つは、本物の神秘とそれに必要な態度を再発見することであろう。その態度は、センチメンタリズムとはまったく関係がなく、信仰の要求を「ゆるめる」ことをしない。むしろ、信仰の厳格さと尊厳を守ることを好む。本物の神秘への導入(arcani disciplina)は唯一残った典礼においてのみ発見し、取得することができる。
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訳注: 「Arcani disciplina (羅) 3~5世紀の初代教会における異教徒、未信者に処する心得」(小林珍雄編、『キリスト教用語辞典』,東京堂、昭和29年)。求道者は段階的にミサへの参加に導かれていた。この発想は、第二ヴァティカン公会議に再発見され、それ以降の成人のキリスト教入信に取り入れられた。
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ミサの厳格な形は、従って、センチメンタリズムの逆方向をたどる。センチメンタリズムは、感動を目指す。そのために、怖れや無力を思わせる感動的な振る舞い、また情緒溢れる言葉や衝撃となるイメージ、感動的な対話などを使用する。これらのことは一切ミサには見出されない。こうして、感傷的傾向の信仰者には三つの選択肢がある。1)ミサとの生き生きとした関係を作る希望を捨て、個人的な信心の領域に退く。2)ミサの性格を勘違いして、感動的な受難オラトリオの一種と捉える。3)自らの性向に勇敢に直面し、その性向をミサに従わせることができる。
  感傷を克服する必要がある。でなければ、ミサとの本物の関係を作ることは不可能となる。
自分の偏向と好みで判断する習癖を捨てきるべきである。なぜなら、ミサの形は主の命令に従った主の教会から与えられたからである。言うまでもなく、ここでも極端な姿勢を避けるべきである。教会の儀式とその言葉は教理(dogma)の絶対性を持つことにならない。
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「自分に委託された教理の忠実な擁護者であり弁護者であるキリストの教会は、信仰の遺産を全然変更したり、減らしたり、追加したりすることなく、全力をあげて昔から伝えられたことを忠実に守り、これを理解しようと努める。しかし、昔から伝えられ、教父たちが感じたことを磨き洗練されたものとするため、天上からの教えの昔からからの教理が証明され、照らし出され、区別されることによって、その充満性、完全性、正当性を見いだし、教理が同じ趣旨、同じ意味(eodem sensu eademque sententia)で受け取られながら発展することを望んでいる」(デンツィンガー・シェーンメッツァー、『カトリック教会文書資料集』、エンデルレ書店、昭和49年、2802項)。レランのヴェンセンチウス(Vincentius Lerinensis)のCommonitorium primum, c. 23 (PL 50, 668A)参照。
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  しかし、これだけは確かである、主の記念は、教会内で実行される方法は、「祈りの法(Lex orandi)」であり、典礼奉仕の法則にである。信じることを心から望む者は、言い換えれば、啓示に従順でありたい者は、この点においても従順でなければならない。そして、その規範に従ってプライベートな感情を教育しなければならない。そうすれば、個人的な信心とは全く異なる次元の霊的生命が働いているということを悟るだろう。神の奥深さからの出てきた感情を知るようになるだろう。キリストの内面の範囲内に入るようになる。教会の内面の生命を支配する力を直接に体験するだろう。
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 訳注:昔から「祈りの法は、信仰の法」(”lex orandi, lex credendi”)というモットーがある。典礼で祈られていることが、信者の信仰内容に影響を与えるという意味である。ここでいう「祈り」には礼拝や賛美のような信仰の実践が、「信仰」には教理や神学のような信仰の言葉が含まれており、つまり礼拝は信仰の形成に重大な影響を及ぼすということである。またアウグスティヌスは「歌うことは二度祈ること」と述べたといわれるように、歌には、言葉の増幅という重大な機能がある。歌と共に繰り返し心に刻み込まれた信仰の言葉は、歌っている人々、それを聞いている人々の「霊性」や生き方(lex vivendi)に、少なからぬ影響を与える。とりわけ説教の言葉の十分な理解が困難で、かつ歌をすぐに覚える幼い子どもにとっては深刻な問題だ。そのような意味では、教会の歌は祈りや信仰告白以上に、教会の信仰形成にとって重大な意味を持つのかもしれない。教会の歌が、教会の信仰告白、教育、そして霊性の育成と密接に結びつくものであることが深く意識され、積極的な取り組みがなされることを期待したい。

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