31 付録
神に選ばれるということ
橋爪
一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。 多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります。 神が規準だから、ふつうの発想と違った奇妙なことも起こる。たとえば、ものの長さを例にすれば、ある棒の長さを、「これは何メートル?」と聞くことは、意味があるでしょう。ものさしで測ればいいんだから。では、メートル原器という一メートルの長さの金属の棒にむかって、誰かが「メートル原器さん、あなたはなんで一メートル?」と聞いたとすると、メートル原器はなんと答えるか。ちょっと不機嫌に、「おれが一メートルだ。文句あるか」ですね。ほかに答えようはない、そう決めたんだから。これが規準というものなのです。いまの質問は、ほかの質問とは違っていて、答えられない。一神教も、唯一の規準を定めたという点では、メートル法と似ている。一神教の神は、自分が正しさの規準なので、「あなたはなぜ正しいのですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなんです。人間のつとめは、神の言うとおりにすること。なかなかうまくいかなくてもへこたれないで、「この瞬間も神ほ私のことを考えてくれているんだ」と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかは実はあまり問題じゃない。試練なんですから。
試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。
大澤
なるほど、一神教の神とのコミュニケーションというのは、端的にコミュニケーションの不可能性ですよね。人間の規準では、コミュニケーションできなかったということが、むしろ、神とコミュニケーションしたことになる。人間同士であれば、成功したコミュニケーションというのは、互いに理解し合うことです。しかし、一神教の神に対する場合はまったく異なり、不可解であるということをそのまま受け入れることが、神との正しい関係になる。たとえば、神はユダヤ人を選んだけれども、その意図はさっばりわからない。そのわからないということをそのまま受け入れることが、神との正しい関係だというわけですね。
(橋爪大三郎・大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』、講談社現代新書、2012年、55-57頁)
No comments:
Post a Comment