Sunday, November 6, 2016

30 真理とエウカリスティア

30 真理とエウカリスティア


主の記念を行うことには、様々な不同不分の概念が含まれている。それらのうちの二つ、会食とキリストの到来またはキリストとの我々の出会いを、すでに取り上げてきた。おん父が信仰者にいのちをもたらすおん子の存在、「まことのパン」を差し出している。同じくおん父から出て、キリストが記念を行なっている会衆の中に入って行く。そして、愛をもって各自に近づいていく。これらが聖体拝領を規定する概念である。被造物としての我々は、「わたしはいのちである」とおっしゃった神・人の豊かな現実によって養われることを思いこがれている。人格としての我々は、来られる方を期待して待ち、急いで会いに行きたい。そして、彼と共にとどまりたい、愛と従順のうちに。以上両方の概念の背景に、それらに聖なる意義を与えるすさまじい事実、贖罪的いけにえがある。

    それにしても、我々はまだ底に触れていない。もう一つの考えが浮かんで来る、啓示と神的真理に対する敬虔な受けとめ方、という考えである。誰かと共同生活を営むには何が必要であろうか。中でも、本物の相互交流、相手に対する尊敬、信頼、忠誠心、友情か仲間意識か愛として知られる、あの同時に存在する一致と尊重であろう。このような連携は、単なる物理的側面と単なる精神面をはみ出ている。なぜなら、意志にかかっているからであり、そのために生き物が皆直面する逆境を乗り越えることができる。しかし、共同生活にはまだ別の要素がある。それは、お互いの能力、輝き、肝要な深さの共有である。言いかえれば、他者のいのちを、同情の即時性と愛でもって、共感する力量である。共同生活にはこれらの諸要素は不可欠であり、それらにとってかわるものはないが、それらだけでまだ十分ではない。それらだけに基づいた関わりは、盲点をもつことになると思われる。自分自身と相手の間に真実も存在しなけれならない。相手の本質が自分に伝わっていなければならない。自分が相手のユニークさ、生活態度、仕事と運命に感謝しなければならない。相手のために自分の生活の中で、あるがままに、場を譲らなければならない。そして、自分も相手によって承認され受け入れられている、ということを知る必要がある。その時点で関係は完成し得る。それ以前は、無理がある。

   主の記念の最も肝心なところは、以上描いてきたような交わりである。

   キリストとキリストを信じる人々との間に、キリスト自身が設けた交わりより完全な交わりはありえない。いうまでもなく、その交わりは一方的である。なぜなら、我々はエゴイズムに縛られているからである。

    信仰者とその主との関係は、純粋に我と汝の関係である。それは、贖われた者は神の子供たちの自由と関連しているのと同じである。

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訳注: 我と汝の関係については、マルティン・ブーバー著、『我と汝・対話』(田口義弘訳)、みすず書房、1995年参照。人間は有意義な相手(例えば、親、先生、配偶者)に対面することによって自らの人格を形成するように、神を相手にすることによって神の子供の自由を得るのである。J・エステライヤーが指摘するように、ブーバーは神を人間の汝にしているが、聖書的に考える場合、神の方が最も根源的な存在であるから、神をすべての「我」の源であり、最も根源的な「我」と考えるべきである。John M. Oesterreicher, The Unfinished Dialogue: Martin Buber and the Christian Way, Citadel Press, US, 1986参照。

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 贖い主は、人格と人格の出会いとその相互的満足のいかなる度合いをも抱擁する形で、「やって来る」のである。この考えは、肉と血という驚くべき概念ともつながる。自分は「いのちである」と思っていた方が、人々の栄養素としてささげられる、その肉と血。しかし、両方のこの概念は脅かされている。第一は、感傷性へと導く行き過ぎた擬人化によって、第二は、あまりにも人間味のない、あるいは非人道的でさえある魔法によって、脅かされている。教会史を見れば納得いくのだが、両方のこの危険はしばしば現実となってしまった。キリストは、ただ単に「いのち」ではなく、「真理」でもある。キリストは受肉した「ロゴス」(言)、つまり肉と血に書かれた神からのメッセージである。キリストの自己奉献は啓示であり、彼を受け入れるとは、真理を受け入れることである。

   もう一度、ご聖体の制定の「解説書」であるカファルナウムでのイエスの話を参照する必要がある。群衆がパンの奇跡を体験して、期待をもってイエスに押し寄せて来る。今や、間違いなく、メシアの王国の奇跡的恵みが注がれる時だ!しかし、イエスは彼らに答えて言われた「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ626-27)ところが、それで群衆は分からないので、もっとはっきり発言する。「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神にパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。そこで彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』というと、イエスは言われた「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ632-35)イエスは語っている「いのち」とは、自分自身のものである。そのいのちを養う「パン」とは、自分自身である。いったい、そのパンはどのように与えられ、どのように受け取られるのであろうか。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ637)言いかえれば、パンは与えられるのは、真理であるイエスとの生きたコンタクトを通してである。一方では、イエスの存在の輝き、彼の言動や苦しみの輝きを通して、他方では、イエスのもとに我々の来ること、イエスを信じ、イエスを見つめることを通してである。イエスを見つめたら何が見えるのだろうか?主の神的フィギュアであろう。それを通して見えざる世界が垣間見るのである。聖ヨハネが言うように、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ114)従って、期待されることは、神によって真理が示されることと、人間によって聖なる真理が受け入れられることである。そこから、考え方が切り変わる。再び次のように言われた、「わたしは命のパンである」。しかし、それに加えて言われた、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ651)これが、躓きとなるほど、誰も聞いたことがない突拍子もないことである。彼自身が、何回も何回も、「パン」とはご自分の生きた肉である、そしてそれはまことの食べ物である、と強調したではないか。ただ、食べ方と飲み方、「霊において」と言われるが、それだけは不可思議でヴェールに包まれたままである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ663)キリストは聴衆にヒントを与えたが、彼らは拒否したのである。

   この話全体の一貫性は、計り知れないほど重要なものである。キリストの記念は、キリストの生きた存在の本物の共有の行為である。あまりにも精神面に還元されるべきものではない。揮発(きはつ)させるべきものでもない、なぜなら、本物の食べ物と飲み物であるから。

本物の食べ物と飲み物であるが、それは、くれぐれも真理の尊厳、幅、力と意義においてである。単刀直入言えば、栄養素としてご自分を提供するキリストは、一切れのパンのようにその本質を意識しないまま我々の体の一部分となるような食べ方で食べられるものではない、ということになる。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 」我々にご自分を提供する方が、げんじつのありきたりの一部分ではない。遍在するロゴスでおられる。彼の体の「栄養素」が永遠の、神聖な真理であり、従って、それへの参与は真理の承認を必要としている。そうでなければ、「何の役にも立たない」。

   ミサ聖祭に参加することは、キリストをロゴスとして、創造主、贖い主として承認することを意味している。「あなた方がこれを行うたびに、わたしの記念として行いなさい。」ここで言われる「記念」とは、「わたしを思い出しなさい」とばかりに意味するものではない。それに加えて、「これを行いながら、わたしについて、わたしの本性、メッセージ、運命について考えなさい。これら全てが真理である」ということを意味する。ミサの奉献の前に書簡と福音書の朗読があることには訳がある。聖書朗読すべてがキリストのアイデンティティーをつかむためのヒントであり、彼の人格または真理の一側面である。聖書に語られるイエスの生涯の出来事は我々に向かって、言わば聖書から出て来る。我々はそれらを理解し、受け入れるために。出来事の一つ一つが真理の光線であり、奉献の部となると、それらは言語ではなく、実際のものとして存在して来るにである。

  ミサと真理のこの関連を認めるのは、第一義的な重要性をもっている。信心業は真理を忘れるきらいがある。真理を避けるとか、遠慮するとか、ではないが、ファンタジーや感傷性、過言に滑り落ちる傾向は著しい。伝説や信心業的書物は、往往にしてこの傾向を圧倒的に示している。残念ながら、野放しの信心は、主観主義に陥り、カビ臭くなり、仰々しくも霊性の少ないものとなりがち。

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『レゲンダ・アウレア』または『黄金伝説』(羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによってつけられたものである。中世ヨーロッパにおいて聖書についで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。

日本においても芥川龍之介が同書所収の聖女マリナの物語(79章)をもとに『奉教人の死』を書いている。

イエス、マリア、天使ミカエルのほか、100名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読む人々もいたと思われる。

日本語訳書として、新泉社版(13人の聖人伝を訳した抄訳)と黄金伝説抄 ISBN 978-4787794246、及び人文書院版(全訳、ハードカバー)がある。また、平凡社ライブラリー版(内容は人文書院版と同じ)もある。

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神的現実は主観的でもなければ、カビ臭くなることもない。現実離れの霊性、事実を無視した霊性とつながらないはず。真理の別名である神的現実は、この地上を歩まれた血肉を持ったイエスのように、実質的なものでなければならない。ただ、霊によって、つまり聖霊によって照らされる必要があることは、いうまでもないことである。

  ミサの完全性には真理は欠かせない。ミサはクリスチャンの生活の中心と内容であるという事実をくどくど述べることは十分ではない。その中心に至る道、その内容を共有する方法も明確にしなければならない。これが、可能となるのは、真理とエウカリスティアとの本質的な関係が認められた時のみであり、真理がミサ聖祭全体に浸透した時である。

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