年間第3主日 B 野の百合会
【マコ1:14-20】
イエスの使徒になった人たちは、イエスに呼びかけられて、直ちに、すべてを捨てて従ったとあります。神に従うというのはこのように、変わらぬことのために、動かざるもののために、未来に希望をかけて、過去のすべてを捨てて従うこと。しかし神様に従い続けるということは、いつもいつも簡単ではありません。今日喜び勇んで使徒になった者たちも、常に従ったわけではなく、一番信仰が試されるときに、大きな裏切りをすることになったのですから。私たちは、神様に従うことを、いつも、一生をかけて、選び直しつつ、生きていかなければならないのです。
◇これからお話しするのは、ある神様に従った人の作り話です。山にひとり住み、眠っていた男に、主が現れてこう言いました。
「私はあなたにひとつの仕事を与えよう。あなたの山小屋の前にあって、いつもあなたの行く道を妨げている、あの大きな岩に立ち向かって、あなたの力の限り、その岩を押しなさい」
その男は、言われたとおり毎日、岩を動かそうと力の限り押し続けました。熱心に朝から夕方まで、力の限りふんばって、何年も押し続けました。しかしこの岩はびくともしません。すべての努力をあざ笑うかのように、その岩は動かないのです。
「主が与えてくださった仕事としても、無駄な事に力を使い果たしているのではないだろうか」。そんな失望と落胆が心に生じます。サタンがやって来ては「もうおまえはやめたほうがいい。まったく無駄なことをしている。岩は動きはしない。この仕事にお前は、向いていない。主の言葉に聞き従ったのが間違いだった」。こうささやくのです。
男はうちのめされ落胆した中、祈って言いました。
「主よ。私はあなたの言われたとおり、あの困難な大きな岩に立ち向かって動かそうとして、毎日働きました。しかし岩は1ミリも動きません。私は無駄のために働いているのではないでしょうか。何が悪いのでしょう。なぜ私はこの仕事で敗北したのでしょう」。
すると主の答えがありました。「私の子よ。私はあなたに私の言葉に聞き従って仕えるよう言った。あなたは受け入れ、力の限り岩に立ち向かって、毎日押しつづけてくれた。しかし一言も、岩を動かしなさいと言っていない。あなたの仕事は、岩を強く押しつづけることだった。あなたはいま落胆し、すべて無駄だったと考えている。しかし本当に無駄だったのだろうか。今、あなたの手と腕と足と体を御覧なさい。今は筋力(筋肉)が発達し、たくましくなった。またあなたの忍耐力が養われた。確かにあなたはあの困難の岩を動かすことはできなかった。しかしあなたは私に従って、あの従順と私の知恵に信頼し、あなたの信仰を働かせ、困難に立ち向かって、岩を押し続けることがあなたの使命だった。あなたはそれをよくやった。今私はあなたのためにこの不動の岩をも動かそう」
◇実際にこのように主の声が聞こえたりすることはそうあることではありません。そのために、変わらない神に仕え、従うことに疲れ、落胆するときがあります。何も変わらない、失望しかありえないそのようなとき。それでも希望を捨てないように。イエス様は「からし種ほどの信仰がありさえすれれば、それで山に向かって移れといえば移るだろう。できないことはない」(マルコ11・23、マタイ21・20参照)とさえ、おっしゃっいました。動かないものでも必ず動く。神様は私たちの信仰を見て、ニネベを滅ぼすのをやめたように、ご計画を変える方でもあります(ヨナ3:10)。
より深い信頼をもって、苦しみも喜びつつ、耐えていきましょう。苦しみこそ忍耐を、さらには希望を生み出すのです。失望に終わることはありません。話の男のように、堅くたって動かされず、全力を注ぎ、主の業に励んでいきましょう。主に従うことにおいて、労苦が無駄になることはありません。
「時は満ち、神の国は近づいた」。これは、マルコ福音書におけるイエスの第一声(だいいっせい)です。そこには聖書の世界の独特な考え方が表現されています。つまり、時の流れはすべて神の手の中にあるという認識から生まれてくるもので、一般的な「時」の理解とは、だいぶ違います。
日本語の「とき」という音(おん)(大和言葉)は、「結び目を解く」「氷の固まりが融(と)ける」「疑問を解く」などの「とく」という音(おんどく、おんよみ)と同じものであり、いずれも「物事が解体していく、形が消えてゆく」という点で共通した意味をもっている、とある文学者の説明を読んだ覚えがあります。
そう言われて見れば、一般的には「時は、跡形もなく流れ去っていく、過ぎ去っていく」という認識が強いように思います。例えば松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭の言葉、「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(たびびとなり)。」もそうです。また、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。」という方丈記(ほうじょうき)の時の理解は無常観に満ちています。
こうした考え方の上に立てば、「過去のことにくよくよしたり、こだわったりしないで、水に流してしまえ」という処世術(しょせいじゅつ」も生まれてきますし、人生はむなしいというあきらめに満ちた生き方、世渡りのための人間的な知恵となります。
聖書の「時」には、このよう一般的理解と違って、確かな意味と目的が与えられています。この世はむなしいものではなく、うれしい発見に満ちたものに見えてきます。従ってそこで起きる出来事で意味のないものは何ひとつないということになります。たとえ、それが人間に不可解なことであり、そこに神様が働いておられるとは到底思えないような出来事であったとしても、そこに神の愛が必ず働いているというわけです。
こうした歴史観、世界観に立てば、一つ一つの出来事に神の働きを見出し、神にゆだねるという姿勢を育てていくことが人生の大事な課題ということになります。「時が満ちた」というイエス様の呼びかけに答えて、そこに神の意志を見出し、人生をゆだねることのできた弟子たちは幸せです。
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