東洋文庫141、624、627
『マッテオ・リッチ伝』(平川祐弘著)
〈西洋人ではじめて中国語の読み書きを習い、はじめて明朝シナの都に住みつくことを得たイエズス会士〉だというのである。そして中国にいる間に、〈『天主実義』『交友論』『畸人十篇』『幾何原本』『坤輿万国全図』など、二十二点の漢文教書と科学書を編刊〉(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)しているのだ。
人生世間如俳優在劇場上。所為俗業如搬演雑劇。諸帝王公卿、大夫、士庶、奴隷、后妃、婦脾、皆一時粧飾者耳、則其所衣衣非其衣、所逢う利害不及其見。搬演既畢、解去粧飾、則漫然不相関矢。故俳優不以分位高卑長短為憂喜也。惟扮其所承脚色、則雖 子亦当真切為之、以称主人之意焉。分位全在他、充位亦在我。
人の世間に生きるは俳優の劇場に在るが如し。なすところの俗業、雑劇を搬演(はんえん)するが如し。もろもろの帝王、宰官、士人、奴隷、后妃、婦脾、みな一時これを粧飾するのみ。そのきるところの衣は、その衣に非ず。逢うところの利害は、その見に及ばず。搬演すでに終われば、粧飾を解去し、漫然としてふたたび相関せず。
マッテオ・リッチ著、『天主実義』東洋文庫728、柴田篤訳注、第六章 13-20
中士が言った、「私はこのように聞いております。未来のことに精神を疲れさせる必要があろうか、現在の目前のことにひたすら取り組むだけだ、と[子(し)曰(いわ)く、未(いま)だ人(ひと)に事(つか)うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事(つか)えん (論語、先進篇11)]。これは真実のことばです。どうして来世のことをを論じることがありましょう」と。
西士が言った。「何と狭い見識でありますことか。犬や豚が話していると何ら変わりがありません。昔ヨーロッパに一人の教師がいました(エピクロス)。彼は憂えることなく楽しむことが人生であると考えていました。当時、彼に従う者もいました。彼は自分でその墓碑にこう記しました。「汝今、飲食して歓び楽しむべし。死後にこの楽しみなければなり」と。多くの学者は、その門人たちを豚小屋学派と呼びました。(…)そもそも「人、遠き慮(おもんぱか)り無(な)ければ、必(かなら)ず近(ちか)き憂(うれ)えあり」(論語、衛霊公11)ものです。「謀(はかりごと)が先に見通すことができない」(『詩経』、板篇)のは、詩人が諫(いさ)めたことです。私が見るところ、人は賢ければ賢いほど、その思慮は遠くにまで及び、愚かであればあるほど、その思慮は近くにとどまっています。人たる者、あらかじめ未来に備え、まだやって来ていないことを事前に考慮しないでよいでしょうか。農夫は春に植え付けをし、秋に刈り入れをします。松が百年後に実を結ぶために、植える者がいるのです。いわゆる「畑作りの老人は木を植え、その孫の孫がその身を取る」というものです。旅人は各地をめぐって、年老いて故郷に落ち着くことを願います。職人はその仕事を懸命に習って、腕をみがこうとします。士人は少年の時に苦労して学問をし、将来国君を補佐しようと考えます。このように皆、現在の眼前のことを重要事とはしないのです。出来の悪い子供は、祖先の事業をつぶし、[春秋時代の]いろいろな君主が国をほろぼし、天下を失いました。これは、遠い将来のことを配慮せずに、現在の眼前のことだけを処理しようとしたからではないでしょうか」、と。
中士が言った、「そう通りです。ただ、私は現世に生きているのですから、遠くまで思慮するといっても、現世のことだけです。死後のことなぢは迂遠(うえん)[で不要]のようです」と。
西士が言った。「孔子は『春秋』を作られ、その孫は『中庸』を表しました。その意図は万世の後の人々のためでした。それが他人のために思慮することでも、多くの君子はこれを迂遠なこととはみなしていません。私が自分のために思慮することが、せいぜい次の世代のことだというのに、あなたは迂遠だと言われるのですか。子供が壮年になれるかどうかも分からないのに老後のことを思慮しても、これを迂遠だとは言えません。[それなのに]私が死後のことは明朝のことかもしれないと思慮するのを、あなたは迂遠だとされるのですか。あなたは結婚する際、子孫ができることを願わないでしょうか」と。
中士が言った、「[子孫ができることを願うのは]葬儀を行い、墳墓を造り、祭祀を守ることをしてもらうためであって、自分の来世のためではないのです」と。
西士が言った。「そう通りですが、それも自分の死後のことなのです。私が死ぬと残るのは二つです。朽ちることのないものは霊魂(精神)です。すぐに腐るものは髑髏(どくろ)です。私は朽ちることのないものを大切にします。あなたはすぐに腐るもののことを配慮されます。私のことを迂遠と言えるでしょうか」と。
中士が言った、「善を行うことによって、現世の利益を得て現世の害悪を避けようとすることでさえ、君子は正しくないとされます。まして来世の利害など、どうして問題にできましょうか」と。
西士が言った。「来世の利害は、きわめて真実かつ重大なもので、現世の利害とは比較になりません。現在見ているのは利害の影にすぎません。ですから、現世のことは幸いであれ災いであれ、問題とするにたりません。私は師からこのような譬えを聞いております。
「人が世界に生きているのは、ちょうど俳優が劇場にいるようなもので、世間で行っている事柄は、劇場の演技のようなものである。俳優が演じている帝王、宰官、士人、奴隷、后妃(ごひ)、召使なども、一時的に装(よそお)っているだけである。だから、着ている衣装は自分のものではなく、遭遇する利害も自分自身に及ぶものではない。演技が終わって化粧や飾りを取ってしまえば、それらのものとは何の関係もなくなる。だから、俳優はその役の身分が高いとか低いとか、出番が長いとか短いとかでもって一喜一憂はしない。受け持っている役柄に扮するだけで、物乞いの役でも真剣に演じて、ひたすら舞台の主人に気に入れられるようにするだけである。つまり、役付けをするのは主人であって、その役を演じるのは自分なのだ」と。
私たちはこの世で百歳まで生きたとしても、来世の何万年以上にわたる無窮の時間に比べれば、冬の短い一日ほどの長さもありません。この世で手に入れる財産や物品も、借りて使用しているだけで、私が本当の持ち主というのではありません。どうして増えたからといって喜んだり、減ったからといって悲しんだりしましょうか。君子であろうと小人であろうと、人は誰でも何ものも持たずに裸で生まれ、何者も持たずに裸で死ぬのです(ヨブ記1:21-22参照)。最期のときが来てこの世を去るのに、黄金千箱を倉の中に積み上げて残していたとしても、ほんの少しでもそれを持って行くことはできません(ルカ12:13-21、愚かな金持ちの譬え)。どうしてこんなものに心を留めましょうか。この世の仮のことが終わったならば、ただちに来世の真実が始まります。そののち、各人はそれぞれにふさわしい貴賎の地位を受け取ることになります。もし現世の利害を真実だとするならば、それは愚か者が、芝居を見て帝王に扮している者を本当に身分の貴い人だと思い、奴隷の扮装(ふんそう)をしている者を本当に身分の卑しい人だと思うのと、何の違いがありましょう。
(…)
孔子は衛の国に行った時、民衆の様子を見て、まず富ませてそれから教えようとされましたが(論語、子路篇)、教育が最も重要だということを知らないはずがありましょうか。ただ民衆は利害を得て、初めて道理に導くことができるから、そうなさったのです。(「衣食足りて礼節を知る」参照)
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