Friday, January 6, 2012

Epiphany (2)

主の公現(2)
マタイ2・1-12

「少子化高齢化社会」と言われて久しい。今や「超・高齢化」と言います。高齢者は年金プラス3000万円、今日生まれた赤ちゃんはマイナス5000万円。つまり、年金をもらう高齢者は非常に増えて、しかも百歳まで、長くもらうので、国の予算委に負担がかかります。おまけに、高齢者の住みやすい社会、施設、病院、老人ホーム、がん治療、など高いものばかりですが、国はそのために予算を使っています。今年は100兆円を越えています。赤ちゃんは生まれてからすでに5000万円借金を抱えます。人口の60%は80%の財産をもっていると言われます。戦後、国を豊かにした世代は財産を食いつぶしているような状態です。不安定な状態です。

石蔵 文信(いしくら ふみのぶ)は、大阪大学準教授、医者として「巨人性うつと阪神性不安」(双葉社 futabasha 2003/08) という著書に書いているように、男性更年期外来の人は両方を抱えている。


読売巨人軍(とそのファン)は、常に勝つことを義務付けられている(と思いこんでいる)。幸せ慣れした人は突然の不幸に弱く、些細なことに傷つく。つまずいたことのない人は転び方がわからずに大怪我をする! それが「巨人性うつ」なのだそうです。「つまずいたら、つまずく前のように走ろうと無理をしてはいけない。少し症状が良くなると、すぐ元のように働こうとする。そして、ぶり返して元の木阿弥(もくあみ)になるのである。」・・・典型的なうつ病の経過を、見事に巨人ファンの心理を通して解説しておりました。

一方、阪神です。「いつも負けているのに今年は優勝するかもしれない?」・・・そんな絶好調の真っ只中での阪神(とそのファン)の心理です。慣れない幸せに恵まれると落ち着かない、不安でたまらない。今日は良いけど明日から全部負けるかもしれない。この幸せの先にもっと大きな不幸があるかもしれない!といつも不安に思うのです。これが「阪神性不安」です。不安になると過去の失敗ばかりに気をとられて「また失敗するのではないか」と悪い予感にとらわれる。これを避けるには過去の良いことばかり思い出せばいい。

今日の福音書には、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。キリストが生まれた時代と今の時代はこのように重なります。昔話ではない。
私たちの生きている時代、人生を考えると、順調なときもあり、またつまづいて、次から次へと問題が起きてくるようなときもある。自分の思うままにすべてが運ぶときもあれば、万事裏目に出て、自分が閉じ込められてしまうような感じのときもある。そこにイエス・キリストが生まれたというのは、ヘロデ王やエルサレムの人々にとって不安であった。今までしていた生活に対する、神からの挑戦として受け止めた。あまり歓迎すべきことではなかったのだろうと思います。
イエスを迎えるということは、私たちの人生に一つの不安を呼び起こすことだと思う。私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにならないと思います。「木に竹を接(つ)ぐ」という言葉があるが、自分というものがあって、そこへ異質のイエスを接いでいくような信仰では、命(いのち)が通わない。

なぜ不安を感じるのでしょうか。それは神が私たちの世界に入り込んできたからです。私達はサンタクロースを迎えるように、ストレートに神を向かえることはできないでしょう。言い換えますと、神の恵みは、今までに自分の生活をつづけながら受けることはできない。新しい王様が生まれることは古い王様が追放されるということになるからです。
私たちも自分の王座に座っています。だから新しい王を迎えるとか、新しく恵みを神からいただくときには、いままで王としてあがめていたものを追放しなければならない。そこに不安や戸惑いの原因があるでしょう。神からの働きかけにこたえ新しいもの、新しい世界を心から受け入れていかねばならない。


不安と言われると私はゲーテの『ファウスト』を思い出します。メフィストフェレスと取引をしたファウストは感じたのは不安ではなかったかと思います。ファウストは、成功するために、権力、富を得るために、魂をメフィストフェレスに譲ったわけです。

先月は真珠湾攻撃の70周年に当たります。これについて朝日新聞(12月8日朝刊)に東大の加藤陽子教授のインタビューが載っていました。真珠湾攻撃に終わったサイクルは明治維新に始まるというのです。そして、「今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です。」
明治維新というと、「追いつけ追い越せ」、「和魂洋才」、「富国強兵」、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」というスローガンを思い出します。西洋の技術(洋才)だけ輸入し、大和魂を守るといいながら、実はそこにメフィストフェレス的な取引はなかったかと思われます。大村さんが「敗戦後の日本に輸入された欧米の宗教文化」を嘆いておられるが、戦後ではない、明治でしょう。明治において欧米から技術を輸入しながら、拒んだのは宗教ではないか。技術と富と権力にメフィストフェレス的なものが付いて回るのは分からなかったのか。今やっと分かるようになったのか。

ところが、神が私たち人間の世界に働きかけたというのは、驚くべきことです。私たちは神に使え、神に捧げ物をしたり、香をたいて神をなだめるようなことをするのは宗教であると思いがちです。しかし、神のために人間が何かしてあげると思っていたのに、神の方から近づいてこられた。聖書は私たちに訴えている出来事とはそれなんです。そこに他の宗教とキリスト教の違いがあります。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのが、キリスト教なんです。

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