Friday, January 6, 2012

Epiphany (1)

主の公現
(マタイ2・9〜10)

主の公現の祝日、すなわちエピファニーは、イエス・キリストが全人類の救い主として現れたことを祝う重要な日です。
主の公現の祝日、すなわちエピファニーは、イエス・キリストが全人類の救い主として現れたことを祝う重要な日です。
本日の聖書朗読であるイザヤ書60章1-6節とマタイによる福音書2章1-12節は、この出来事の深い意味を私たちに伝えています。本日の聖書朗読であるイザヤ書60章1-6節とマタイによる福音書2章1-12節は、この出来事の深い意味を私たちに伝えています。

イザヤ書60章1-6節:光の到来

イザヤ書60章は、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と始まります。
この預言は、暗闇に包まれた世界に神の光が差し込み、全ての国々がその光に引き寄せられる様子を描いています。特に、異邦の民が黄金と乳香を携えて集まると記されています。
これは、後に東方の博士たちがイエスに贈り物を持って訪れる出来事を予示(前もって示して)していると解釈されます。

マタイによる福音書2章1-12節:東方の博士たちの礼拝

マタイの福音書では、東方の博士たちが星に導かれてベツレヘムにたどりつき、幼子イエスを礼拝する場面が描かれています。
彼らは黄金、乳香、没薬という貴重な贈り物を捧げました。
これらの贈り物は、それぞれイエスの王権、神性、そして将来の受難を象徴しているとされています。
博士たちは異邦人でありながら、真の王を探し求め、その導きを忠実に追い求めました。

公現の意味:全ての人への救い

これらの聖書箇所が示すのは、イエス・キリストがユダヤ人だけでなく、全ての民族、全ての人々の救い主であるということです。
東方の博士たちの訪問は、異邦人である彼らが最初にイエスを礼拝したことを意味し、神の救いの普遍性を強調しています。
イザヤの預言と博士たちの行動は、神の光が全世界に広がり、全ての人々がその光に招かれていることを示しています。

私たちへの問いかけ

この公現の祝日に、私たちは自らの信仰を振り返り、神の光にどのように応答しているかを考える機会となると思います。
私たちは日々の生活の中で、神の導きに敏感であり、東方の博士たちのように謙虚な心で主を探し求めているでしょうか。
また、私たち自身が神の光を受けて、それを周囲の人々に反映し、共に主の栄光を分かち合っているでしょうか。

パウロの時代にね、ユダヤ人と異邦人が一緒に祈るとか同じ信仰を持ってチームを作るとか、あり得なかったことです、今のパレスチナ人とユダヤ人のように。けれどもパウロはそれを実現させました。パウロのもとではユダヤ人も異邦人も一緒になってキリストの教会を始めたのです。パウロはそれについてこう言っています。「秘められた計画が啓示によって私に知らされた」(エフェソ3・3)と。秘められていたのですね、その計画は。なかったわけじゃない。パウロが作ったわけでもない。ちゃんと秘められていた。しかし、パウロはそれを信じて、その計画通りに教会を実現させました。救い主がこの世界に現れたのです。もはや私たちに不可能はない。どんな難しい課題でも知恵と力が与えられます。神の計画ですから、必ず実現します。あきらめてはいけない。50歳、70歳、関係なし。自らのうちに眠っている輝きを、恐れずに掘り起こすこと。人々の中に眠っている美しいその力を信じて発揮させること。教会がそのような力で満ち溢れたら、神さまの夢がこの世界でも実現いたします。ないものを出せと言っているわけじゃない。もしかすると生涯眠ったままになるかもしれない、神が与えてくださったかけがえのない知恵と力を掘り起こそう、と。

結び

主の公現は、神の愛と救いが全ての人々に開かれていることを祝う日です。
私たちもその光に照らされ、信仰の旅路を歩み続けましょう。
そして、イエス・キリストという真の光を、私たちの生き方を通して世に示していくことができますように。

参考:
------
年が明けて、「主の公現」の祭日です。「公に現す」という字からも分かるとおり、この日は神の御子イエス・キリストが人となり、全人類にその姿をお現しになったことをお祝いします。

幼いイエスについて福音書に記された出来事の中に、東からベツレヘムに拝みに行った占星術(または天文学)の学者の話があります。歴史性と象徴性を統合した、非常に面白い物語です。キリスト教と言えば、誰も先ず聖書という書物を連想します。キリスト教の洗礼を受ける為にも、聖書の勉強に通うことは前提です。しかし、聖書より先にキリストの道を示してくれるのは、天に輝く星や、地上に生える生物です。大自然の誕生は聖書の冒頭ではありませんか。「初めに、神は天地を創造された・・・神は言われた『光あれ!』こうして光があった」。神の道が文字に銘記される為に、先ず大自然を観想しながら神の道が文字を書く人の心に銘記されなければなりません。書かれる聖書より先に、聖書を書く人の心です。占星術学者は聖書を知りませんでしたが、驚く心をもって大自然を眺めていました。こうして、エルサレムの聖書学者たちが聖書を探っても悟り得なかったキリストの誕生は、占星術学者が静かに天に輝く星を眺める事によって確認出来ました。

はるか東方の博士にまで、つまりすべての国民に、イエスは御自分を現されたというわけです。

 しかし、福音書のイエス・キリスト降誕の前後を読んでみると、イエスが全人類に御自分を現された、というわりには幼子イエスを直接見た人がずいぶん少ないことに気づきます。ためしに、幼子イエスに会うことができた人を、皆さんの知っているかぎり挙げてみてください。ヨセフとマリアを除けば、羊飼い、東方の三博士……、それから後はなかなか出てきません。福音書の中でも、生まれたばかりの幼子イエスに会うことができた人はこんなものです。

 では、イエスは他の人たちに御自分を隠そうとされたかというと、そうではないようです。幼子イエスを見た羊飼いたちは、喜びにあふれて、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」(ルカ2・17)ました。また、きょうの福音の中でも、ヘロデ王やエルサレムの人びとは、博士たちの言葉によって「ユダヤ人の王」が生まれたことを知らされました。たくさんの人たちがイエスの誕生について知らされ、イエスに出会うチャンスを与えられたのです。それにもかかわらず、幼子イエスに会うことができたのはわずかな人たちだけでした。そこには、会いに行こうと望んだ人と無関心だった人の違いということでは片づけられない何かがあるようです。そこで、マタイ福音書をもう少し深く読んでみましょう。

 マタイ2章1〜12節では、東方から来た博士たちとヘロデ王が対照的に描かれています。東方の博士たちは、一刻でも早く幼子に会いたい、との望みに駆られていました。一方、ヘロデ王も、不穏な芽は小さいうちに摘み取ってしまおうと考えたのでしょうか、それこそ血眼(ちまなこ)になって幼子の居場所を知ろうとします。別 の理由であったにせよ、ヘロデ王もまた幼子に会うことを強く望んでいたのでした。ヘロデ王は、律法学者を通して、メシアがどの町に生まれるかを知っていたのですから、普通に考えれば、ヘロデ王のほうが幼子を見つけやすかったはずです。しかし、幼子に会うことができたのは、ヘロデ王ではなく博士たちのほうでした。

 なぜでしょうか。ヘロデ王は他の人に聞いた知識で幼子を見つけようとします。一方、博士たちはただ星(=神)の導きに信頼して、これに従います。ヘロデ王は、人を使って調べさせたり、人に頼んだりしますが、自分では動こうとしません。博士たちは、とにかくエルサレムを出発しました。星の導きを信じて行動しました。そして再び「東方で見た星」を見つけ、幼子にたどり着きました。

 私たちは、いつもイエス・キリストと出会いたいと望んでいます。しかし、望んではいても、自分の力に頼っていてはイエスに会うことができません。神に全面的に信頼することが必要なのです。ところが、私たちは口では「神を信じます」と言いながら、いざ実生活の場になると、無意識のうちに、神の導きではなく、自分の持っている知識で、あるいは人から聞いた知識でもって行動しようとします。いつの間にかそうなってしまうのです。いつ現れるかわからない星、つまり神の導きよりも、自分の知識のほうがずっと確実に思えるからです。こうして、私たちはイエスに会いたいと望んでいるにもかかわらず、イエスに会えないヘロデ王のようになっているのです。

 目に見えること、頭で分かることよりも、なかなかとらえられない神の導きに信頼するのは、たいへんなことです。道の途中で分からなくなってしまうこともあるでしょう。東方の博士たちも、エルサレムで一度星を見失ったようです。しかし、彼らが信頼をもって再び歩みを始めた時、確かに星は現れました。

 私たちも、心の中にある不安や思い煩いを打ち払い、神に信頼して歩み始めましょう。そうすれば、必ず神の導きを見いだすことができるはずです。新しい年が、信頼・希望・喜びに満たされたイエスへの歩みの年となりますように。

人生は旅です。とよく言われます。自分の人生を本当に完成してくれる、みたしてくれるものを求めての旅です。旅というと、それはときには厳しい、重い、辛い、危険なものです。3人の博士は大胆にたびだちました。光を求めて、星の導くままに。
私たちも同じように、新しい年を前にして、この人生の旅、ほんものとの出会いを求めて、旅を続かなければなりません。その旅は、自分の真実への飢え渇きをいやすことのできる者との出会いになれい言いと思います。その旅はどんな形になるにしろ、博士たちを導いた星と同じような光が、与えられることもあると思います。そのためには、忍耐深くしかも真剣に祈る心が前提とされます。この祈りの中に忍耐深くとどまり、探し続けることによって、光であるイエスに出会う恵を今日祈りたいと思います。

No comments:

Post a Comment