Tuesday, January 22, 2013

3 lent C

四旬節3主日C

【ルカ13:1-9「実のならないいちじくの木」のたとえ】


ピラトががリラヤの人々を残酷に殺しました。シロアムの塔が倒れて18人の人が死にました。
今日の福音書のでだしは、ごく日常的なできごとから始まります。それは現代の私たちの生活のなかでも見ることのできるものです。
 このまえ、アルジェリアで日本人十人を含む大勢の人はテロリストによって殺害されました。登(と)山者が遭難して何人が死んだ。暴走した車がバス停に突っ込んで、バスを待っていた児童が死んだ。二階が崩れ落ちて映画を見ていた一階の観客が重傷を負ったなどなど、とつぜん思いがけず襲ってくる不幸は、イエスの時代もいまも変わりないようです。なぜこの人がこんな目にあわなければならないかと、私たちは説明を求めがちです。前世の因縁(いんねん)という人もいます。前の世での行いが悪かったと考える人もいます。運命だからあきらめなくてはならないとか、悪いことをしたための天の罰だと考えてしまう人もいます。いつまでもその不幸なできごとを忘れることができず、それを嘆き続け、失意のまま一生をおくる人々もいます。
 しかし、こうした考えは、いずれも健全的な考えと言い難いと思います。福音書は、シロアムの塔の下敷きになった人々の事故は、彼らの罰のせいだという考えを否定します。運命論、あきらめ、天罰という考え方はキリスト教には無縁のものです。

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 たとえば突然の地震や事故を体験すると、人は言うものです。神様がいるなら、どうしてそのような悪を止めなかったのか。しかし同じように言う人はほとんど、地震のない日常、事故のない電車に乗り合わせるとき、それは当たり前と思い、感謝する心を起こしません。
 カール・バルトと言う有名な神学者は強盗にあったときに、次のように感謝したそうです。 今まで強盗に会わなかったことに感謝します。取られたのが金であって命でなかった。命は大丈夫だったことに感謝します。すべてのものを奪われたがそれほどではなかったことに感謝します。私が盗む側でなかったことに感謝します、と。
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 よく考えてみれば、なんだかんだと言いつつも当たり前に日常を送っている。実はそれだけで、とてつもない神様の大きな恵みの結果なのです。ところがうまくいかなくなると、突然、神様、どうしてと思ってしまう。そうでなく、当たり前の日々を送りながら、感謝もせずにいる自分。そういう自分を反省し、感謝と賛美、また自分への反省の気持ちを忘れず過ごしていきましょう。

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いちじくの木が実を結ぶまで忍耐深く待ってくれる農夫がいるように、神は忍耐深く待っていてくださいます。しかし、実を結ばない木が根こそぎ切られてしまうように、もし私たちが、時のあるうちに回心しなければ、救いを逃がしてしまうことになるのです。

生(なま)のものを美味しくいただくためには、賞味期限というものがあります。どんなに冷蔵庫にいれても、保存しても、それは新鮮な味は失われてしまうものであればしようがありません。愛も生きたものであるならば、それに応答するのに、遅すぎてしまうということがあるのです。親孝行をしようと思ったら、もう親はいないということがあるのです。

神と私達との間に、もう遅すぎるということがあるのだ。そのことをここでよく知っておかなくてはならない。もう遅すぎるということがあるのは、まさに愛の世界においてである。眠っているような愛、どうでもよいような愛、機械的にしか反応しない愛、マンネリ化してしまった愛は煮ても焼いても食えないものです。知らん顔をしている神になってしまう。われわれは眠るわけにはいかない。神の愛が呼んでいる。神の愛が呼び覚まそうとしている。眠るわけにはいかない。今、目を覚ませと、主イエスは声をかけておられる」と、言っております。
愛に応えるためには、遅すぎてはならないというのです。愛には遅すぎるということがある。遅すぎてしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうのです。生きた愛というのは、機械のようなものではないのです。タイミングというものがある、それに応えるという切迫さというものがあるということです。
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いつまでも神の愛とあわれみに甘えつづけていることはゆるされません。時のあるうちに、つまり、いますぐにという場合もあるでしょう。あすはわたしたちにとって確かではないからです。いますぐに、わたしたちを救おうとしておられる神に愛に目覚め、思い切ってそこに身を投げ入れていくことです。
 私たちはどのような不幸がやってくるかわかりません。あすにでも死が訪れてくるかもしぇれません。死がこうようが、不幸が訪れようが、神の愛にしっかりとつながれてしまえば、もはや恐ろしいものはなくなるはずです。神の愛を信じて生きる、これこそ運命や諦念、という暗い考えを乗り越える道です。

聖書によれば、人は神によって生かされているものであり、神とのつながりを失えば滅びるしかない存在です。ですから、神から離れた生き方をしている人間は神によって罰せられるというよりも、その生き方そのものが滅びに至るものなのだと言ってもよいのでしょう。

シャーデンフロイデ(独: Schadenfreude)とは、他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情。ドイツ語で「欠損のある喜び」「恥知らずの喜び」の意味である。日本語で言う「様を見ろ」の感情であり、日本でのシャーデンフロイデの類義語としては「隣(他人)の不幸は鴨(蜜)の味」、同義の「メシウマ((他人の不幸で)飯が美味い)」が近い物として挙げられる。


Jesus faces down exactly the same problems of imagination amongst his listeners. 
They are idolatrously reassured in their linking of disasters with God’s will and issues 
of morality. Such  thinking enables stagnation, and a refusal to search for the real 
causes of such things. Unless we change our minds and heart (for that is what “repent” 
means), our desire and imagination, then we will remain within exactly the same 
enclosed world as those comforted by its deathly familiarity. Jesus has a horror of the 
ease with which we sacralize violence. How to get us out of it? A curve-ball thrown at 
our imagination. 
Step one: get people to identify God with a master coming to visit a fig tree in a 
vineyard – Isaiah and Joel help him to start with a familiar image. Step two: have the 
master do something utterly against Leviticus 25, and the law of  ‘Orlah – to demand 
fruit during the first three years. No fruit can be demanded for three years. Even in the 
fourth year, it is only first fruits, not profits, that are available. The demanding master 
who wishes to foreclose the entire operation by cutting down the tree cannot be God. 
Terrified imaginations think of God as the one foreclosing. In fact, foreclosing is 
directly against God’s law, and thus God’s imagination. Step three: perhaps our 
imaginations can be nudged towards thinking of God as more like the gardener who 
begs the master to repent, to change his mind and heart, and cease to foreclose. Then 
the gardener, not ashamed to get his hands dirty with dung, can perhaps nudge the tree 
into producing the first fruits in the fourth year. Step four: hint at Joel. Joel 1, 12 tells of a barren fig tree, a huge repentance by the people is demand of a barren fig tree, a huge repentance by the people is demanded, and then in Joel 2, 
22 the fig tree gives its full yield. All along, what God wants is people to receive 
abundance, for which he begs us to allow him to train our imaginations away from 
fear, scarcity and the violence that is their sacred mantle.

http://jamesalison.co.uk/pdf/eng70.pdf



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