四旬節5主日 C年
【ヨハ8:1-11 姦通の女(姦淫の女)】
この話は感動的です。たしかに、この物語はヨハネ福音書に後から挿入された物語かもしれませんが、恩恵の支配を説かれたイエスの姿を実に感動的に伝えています。イエスはここでは恩恵の支配を言葉で説かれるのではなく、身をもって示しておられます。女の側にかがみ込んで地面に何かを書いておられるイエスは、その行動によって女を身をもってかばっておられるのです。群衆がその女に石を投げるならば、そばでかがみ込んでいるイエスに当たることは避けられないでしょう。女に石を投げることは、イエスに石を投げることになります。イエスは律法を守れない女と同じ立場に身を置き、その女と一つになって、違反者に対する律法の裁きを受ける場に留まられます。そして、この聖なる人イエスに石を投げることができず、群衆が一人また一人と立ち去った後、ただ一人裁くことができるイエス御自身が、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されます。ここには、父の恩恵が人間の罪を包み込み、乗り越えている現実が、見事に物語られています。
(2) 古代イスラエルにおいて「姦通」とは、男性が他人の妻(または婚約者)と性的関係を結ぶことでした。逆の場合、つまり、男性が自分の妻以外の独身の女性と関係することは「姦通」ではありませんでした(これが姦通とされるのは、キリスト教になってからのことです。マルコ10・11-12参照)。律法は姦通を厳しく禁じていました。たとえば、レビ記20章10節。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(なお、「姦淫」は不道徳な性行為全般を指す言葉ですので、「姦通」も行為としては「姦淫」の一部ということになります)。
もちろん、男も女も同罪ですが、今日の福音の物語では女性だけが捕らえられています。男は逃げてしまったのでしょうか?あるいは男のほうは見逃されたのでしょうか?男女同罪のはずなのに、社会は昔から女性のほうに厳しかったようです。
(3) いずれにせよ、イエスがもしこの女をゆるせば、律法を無視したことになり、「石で打ち殺せ」と言えば、神のゆるしを告げてきたイエスの生き方とメッセージに反することになります。どう答えてもイエスは窮地に追い込まれることになるのです。
人々はこの女性とイエスを取り囲んでいます。彼女は姦通の罪を犯したことで人々の裁きの前に立っていますが、イエスもこの女性をどう扱うか、ということで、人々に裁かれる側に立たされていると言えるのではないでしょうか。なお、このときイエスが地面に何を書いていたか、いろいろな想像がありますが、どれも想像の域を出ません。ただ、かがみこんでいるイエスの姿は印象的で、どこか弱々しく感じられるかもしれません。
人々は裁く側、イエスと彼女は裁かれる側。この構図を一変させたのは、7節のイエスの言葉でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。この一言によって、そこにいたすべての人は神の裁きの前に立たされます。そして、自分が神の前で罪人(つみびと)であることを認めざるをえなくなるのです。
(4) 人々は去っていき、イエスとその女性だけが残りました。「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスは言います。「罪に定めない」というのは、その人の行為を良しとしているのではありません。あなたの罪にもかかわらず、わたしはあなたの死を望まない、あなたが生きることを望んでいるということです。彼女は自分が神の裁きの前というよりも、もっと大きな神の愛とゆるしの前に立っていることに気づいたはずです。
きょうの福音がわたしたちに問いかけていることはなんでしょうか。1つには「わたしたちは皆、神の前に罪人である」ということを本気で受け取ることができるかどうか、ということでしょう。人を裁く前に、自分も神の前に罪人であり、その自分が神のあわれみによって生かされている、と感じること。そこから自分以外の罪人に対してどう関わるかが問われてくるのです。罪人を、社会を害する迷惑な存在であり、抹殺すべき対象と見るか、自分と同じように弱い兄弟姉妹であり、立ち直って生きることを願うか。
もう1つはこの女性のように、ゆるされたことの重み(=はかりしれない恵みの大きさ)を本気で受け取れるかどうか、ということでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というイエスの言葉は、「まあまあなかったことにして、見逃してあげよう」という言葉ではありません。「これからゆるしを受けた者として、まったく新たな生き方を始めていきなさい」ということなのです。
昔と違って、今日はこんなことがいわれます。「1回限りの人生だから、自分を抑え、後悔を残したまま一生を過ごしてしまうよりは、自分に素直に、本当に後悔しない人生を生きたほうがいい」。 「自分の人生だから、自分で自由に決めればいい。後悔することになってもそれは自分が選んだ道なのだし、そのことから学べばそれでいい。逆に自分を豊かに大きく成長させる機会になる」。 「好きでもなくなった人と生涯を共にして嘘を貫くより、本当に好きな人ができたなら、その人と一緒になったほうが誠実な生き方だ」。
これは、現代人にとって大変な魅力をもったことばですが、多くの人々がそのために傷つき、涙ながらに苦しんだ現実を見たとき、絶望の淵に立たされた状況をみたとき、これはそんなのんきな問題ではない、本当に命がかかわる深刻な問題だと、考えるべきです。
マザーテレサがこのようなことを言っています。
「あなたの思いに気をつけなさい。さもないと言葉になるから。あなたの言葉に気をつけなさい。さもないと行いになるから。あなたの行いに気をつけなさい。さもないと習慣になるから。あなたの習慣に気をつけなさい。さもないとあなたの人格になるから。あなたの人格に気をつけなさい。さもないとあなたの運命になるから」。
“Watch your thoughts, for they become words.
Watch your words, for they become actions.
Watch your actions, for they become habits.
Watch your habits, for they become character.
Watch your character, for it becomes your destiny.”
まずはすべて「思い」から始まります。姦通も盗も、この異性・この物にひかれるところから起こります。ひかれることは誰にもあるので、思いだけでは実際には罪にはなりません。しかしすべて罪の始まりがあります。
もちろん過ちを犯したとしても、神は赦すものです。しかし神様は本当に、人間の人生を大事に思っているからこそ、そのような危険を冒すなとおっしゃってくださっているのだということも忘れないようにしましょう。
神様はよい人の上にも、悪い人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる。この四旬節の残りにそうした神の心を学びたいと思います。
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