Tuesday, January 22, 2013
4 lent C
四旬節4主日C 尼崎
【ルカ15:1-3,11-32〕
あいさつ
今日の福音は、放蕩息子のたとえ話です。私たちはたびたび神の愛に背き、罪を犯してしまいます。ときには弟のように欲望に目がくらみ、ときには兄のように嫉妬にかられて神の愛を否定します。けれども、お父さんである神は、いずれの場合も愛をもって迎えに来てくださるのです。
「徴税人や罪人たちが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」
立派な人の周りには、立派な友人たちが集まります。偉い人々と知り合いであれば、その人も偉い人と思われます。偉い友人をもつことは人の誇りでしょう。そしてまた立派な人が集まる人を、私たちは立派な人として評価します。立派な人の近くには、そうでない人は近づきにくいものです。立派であればあるほど、有名な人しか近づけません。貧しい人、名もない人、弱い人々は立派な人に近づきませんし、近づけません。
ところが、イエス様のところには、差別された人、病人、罪人たち、卑しいと思われていた仕事の人々が近づきました。宣伝したり招いたりする以前に、その人たちが進んで、自発的にイエス様に近づいたのです。イエス様の人格の不思議さを感じられます。イエス様を、自分たちと同じ罪人だと感じたのなら、わざわざ話を聞きに来ることもないでしょう。特別偉い先生だと感じたのなら、遠くから敬遠して近づくことはないでしょう。話を聞きに行くということは、何かを学べるということでしょう。近づけたということは、自分たちのように卑しめられた人間でも近づいていい、と思っただけではなく、近づきかたっかからでしょう。
今の教会には「貧しい人の優先、谷間に置かれた人々、小さくされた人々」という看板を掲げているいるが、ちょっとボケているのではないかと思ったりします。旗を振って貧しい者に向かうのは、大きな矛盾ではないかと。教会が貧しい者に近づく、と考えることが、もう大きくなってしまったことを証明するのです。イエス様は何も看板をあげません。それなのに、いや、それだからこそ小さくされた人々の方から、イエス様に近づけたのです。イエス様は本当に偉大な方だったからこそ、最も小さな人になれたのでしょう。そして最も小さな人だったからこそ、小さい人々が自然に、安心して吸い寄せられたのです。
今私は、小さい人々を安心して引き寄せる存在なのでしょうか。偉大な人ばかり追いかけているでしょうか。
父なる神の掟に従って生活をしているように見えながら、そこに喜びを感じることなく、実はいやいやながら、いつも不満を持ちながら。そのために神様からの恵みを与えられた人を見ると、嫉妬しか感じない。父なる神様の寛容さを批判し、神様が受け止めた人さえ受け入れない。そのような狭さがないでしょうか。
「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」
私たちは、友達を選ばなければならい。友達が悪ければ、必ずといっていいほど悪に染まってしまいます。悪い友達を善に引き戻すより、こちらが悪に引きずられるのです(朱と交われば赤くなる)。人の心は元来悪に傾いており、善よりも悪に染まりやすくなっているのです。私たちは悪いことを、ほとんど友達から教わるのではないでしょうか。
しかし、イエス様は違います。悪い人たちを迎えて、回心させるために友達になりました。一緒に食事までしていることは、彼らの仲間であることを表しています。イエス様は、けっして悪人の悪に染まりませんでした。かえって、悪い友達を善人に変える、唯一の人でした。悪い人を見捨てるのは簡単です。つき合わないことも、かんたんです。しかし、友達として付き合いながら、その人に染まらずに、かえって回心させるのは至難のわざです。イエス様だけにしか、そしてイエス様からその使命を受けた人々にしか、できないことです(第二朗読参照)。
イエス様は私たちを捨てず、かえって友人となってくださって回心させてくださる方なのです。
朱と交わっても、どうやって赤くならないのか、これが私たちの課題といえるでしょう。
イエス様は進んで罪人を招き入れ、歓迎し、受け入れてくださいました。もしイエス様は義人だけを招くなら、それは義人の教会になります。しかし、義人の教会はまた、人を裁く教会でもあります。自分の正しさを証明するために、正しくない人を必要とするからです。しかし神は正しい人を必要としないのです。なぜならご自分こそ、もっとも正しい方なのです。イエス様の教会では、正しい人は救われないのです。かえって罪人が呼ばれ、迎え入れられるのです。つまり、罪人の教会のです。
罪人の教会は、ゆるしの教会でもあります。そこでは人を裁きません。自分こそゆるされるべき存在だとわかるので、各自が自分を裁くのであって、人をさばくのではない。人を裁いているひまがないのです。イエス様が、正しい人でなく罪人を招いてくださったからこそ、だれでも恐れなくイエス様に近づけるのです。正しくなってからではなく、罪人のままで受け入れてもらって初めて、罪人は真に改心できるからです。(静)
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2007-03-18 08:32:00カテゴリー: Weblog
四旬節4主日C 園田(黙想会)
【ルカ15:1-3,11-32「放蕩息子」のたとえ】
この弟は要するに親から自立したいということだったのかもしれません。そして自立するこということは、親から離れないと、親から遠いところまでいかないと自立はできないと思っていたようなのです。
しかし自立するということはそういうことなのだうろか。ここでたとえられているのは、父なる神とわれわれ人間ということなのですが、われわれは人間が自立するためには、神などはいらないと思うことだと考えるかも知れません。いつまでも神に頼って生きるなんてこと成熟した人間がやることではない、成熟した社会ではもう神などという存在は必要はないということで、「神は死んだ」といいだしたのであります。神には死んでもらわなくて困ると言い出して、神を自分達の思考範囲(生活)から追い出したのです。
しかしそれによって人間は自立できたのだろうか。それは結局は、この放蕩息子のようにただ自分のしたい放題のことをするだけなのではないか、そしてやがてはせっかく手にした財産を全部失うことになるのではないか。
人間は神を追い出して、自分達だけの知恵とはからいで生きるのだと考え始めて、何がおこったかというと、自分達の欲望、そしてそれは言葉を換えていえば、自分の便利さということにつきるのではないかと思いますが、その人間の欲望を際限なく追求し始めたということになります。そしてその欲望は結局は強い者が、お金をもっている人間が手に入れる欲望にすぎないのであって、強いもの、権力のあるものだけが、自分のしたい放題のことをする、そして弱い者の虐げがはじまったのではないか。
そして自立するということは、自分のしたい放題のことをやること、自分達の欲望を自由に手に入れることだと考え始めた時に、今度は人間は自分達の欲望の奴隷になっていったのではないか。神のしもべになるのを拒否して、つまり神から自立しようとして、神から自由になろうとして、結局は今度は自分の欲望に振り回されることになったのではないか、それを聖書は「罪の奴隷になった」というのです。
自立するということは、自分のしたい放題のことをすることではなく、自分の人格を認めてもらうということ、自分を一人前として認めてもらうということであります。そしてそれはまたどんな人の前にたっても、自分が卑屈にならない、恐れないということでもあります。
自分を失わないということ、それが自立するということなのではないかと思います。 親の存在、親の権威を一切否定するということが自立するということではないはずです。
確かに親と子の絆というのは大変強いですから、その親から自立するためには、ある時期がきたら、親から経済的な支配から自立し、住むところを離れないと、自立できないということはあると思います。しかしそのようにして子供はだんだん自立してきますと、大人になりますと、今度は親と対等につき合えるようになって、親の人格というものを尊重できるようになるのではないかと思います。その時に子供は親から本当に自立したということになるのであります。親の立場を重んじるようになれないならば、いつまでたっても親に反抗するということでは、親から自立したとは到底言えない筈です。
息子が「帰ろう」と思ったときに、「父の所ではたくさんパンがある」というのがきっかけです。
われわれが神を求めようという気持ちになるのも、結局はその動機はこの息子とあまりかわらないのではないかと思うのです。つまり御利益的なものであります。もちろんわれわれはそうあからさまに神を信じたら商売が繁盛するとか、病気が治るとかということは求めないかもしれません。しかしなんらかの意味で平安を得たい、安心を得たいということから、神を求めはじめるのではないかと思います。そのようにして聖書を読み始める、教会に通いはじめる、そしてそれを聖書はやはり悔い改めとして見ている、少なくともそれは悔い改めの第一歩だといっているのではないかと思います。
なぜなら、悔い改めるという言葉の意味は、もともとは方向転換する、向きを変えるということだからであります。彼は少なくも父親の方に向きを変えて歩み出したのであります。食にありつきたいという自分にむけての思いというものをかかえながらでも、父親のほうに体の向きを変えたということが悔い改めの第一歩なのだということです。
まだ心は自分に向かっているのです、自分の腹を満たしたい、自分が幸福になりたいという自分中心という思いはまだ自分に向かっているのです、しかしからだは父親のほうに、つまり父なる神のほうに向かっている、これがわれわれの悔い改めの姿ではないかと思います。これ以外の悔い改めの姿はあり得ないのです。
しかしそれならば、どうして父親は息子が去っていった時に、彼を捜しにいかなかったのだろうか。イエスは羊飼の時には、迷い出た羊のために他の九十九匹をおいておいて探し求めたという話をなさったのに、ここでは息子を捜しにいかないで、ただ待っている父親の姿を描くのです。
ある人がこの父親の姿を「この父親はこの子が悔い改めて帰ってくるのを今か今かと待っている。自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない」といっております。それが父なる神の姿だというのです。
息子のほうで、「われに返って」、それがどんな不十分な悔い改めでも、ともかく足を父親のいる方向に向け始める、それまでは父親は待ち続けるというのであります。それが動物の羊だったならば、羊飼いのほうから探し求めるかもしれない。しかし相手は人間なのです。それならば、その放蕩息子の人格を、意志を、自由意志を、父親はあくまで尊重して待ち続けるということです。
もし、悔い改めた後の父親と息子との関係が雇い人の一人としての関係になったならば、それは結局はギブ、アンド、テイクの関係、つまりこちらが働いたからその代わりの報酬として食物をもらうという関係、権利と義務という関係にすぎないことで、それは恵みによって救われるという関係ではなくなってしまう、父と子という人格関係でなくなってしまうのであります。
兄は、これはまさにパリサイ派の人々、律法学者の神に対する考えであります。自分たちはきちんとまじめに律法を守っている、だから、自分は救われる資格も権利もある、あなたにはわたしを救ってくれる義務があると神に要求しているのであります。それなのにあのだらしのない罪人とか取税人とあなたは一緒に食事をしている、それはどうしてなのか、と彼らはイエスに文句をいったのです。
父親のほうは「わたしのものは全部あなたのものだ」というのであります。
決してキブアンドテイクという関係、もののやりとり、権利と義務という関係ではないというのです。お前はいつもわたしと一緒にいながらどうしてそのことがわからないのか、どうして神との関係を雇い人の関係でしかとらえられないのか、ということです。もしかしたら、私たちも神とはそういう関係でしか考えていないかもしれない。
けれども、父なる神はそのような関係を求めてはいないのです。あくまで父と子の関係の中にわれわれを招こうとしているのであります。そのためには、われわれのほうでその関係を心から望むまで、父なる神は忍耐強く、われわれを待ち続けてくださるのであります。この神にわれわれは気がつきたいと思うのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke58.htm
J.タイガーがこのような詩を書いています。(カトリック生活2002年9月)
「もし放蕩息子が / 父よりも先に兄と出会ったとすれば / 果たして家に入る勇気がもてただろうか
私たちも気をつけよう
父の家に戻ろうとしている兄弟姉妹たちが / 私たちの態度を見て / 助けられ、招かれるどころか
逆に妨げられてしまうことのないように
兄の態度は私たちに次のことをおしえている
罪が徳を装い / 敵対心が穏やかな忠実さの中に / 身を隠すこともありうるのだと」
父なる神の掟に従って生活をしているように見えながら、そこに喜びを感じることなく、実はいやいやながら、いつも不満を持ちながら。そのために神様からの恵みを与えられた人を見ると、嫉妬しか感じない。父なる神様の寛容さを批判し、神様が受け止めた人さえ受け入れない。そのような狭さがないでしょうか。
兄のように正しい人なら、毎日、毎時間、神様と共に守られている喜びを実感しながら、感謝の祈りを捧げましょう。神様といつも共にある喜びを、多くの人を与らせたいと願いましょう。そうするなら、どん底まで落ちながら、やっと回心した弟。傲慢を打ち砕かれ、今はひたすら謙そんな姿で神様に回心するようになった弟の苦しみ。寛大な父を信頼することを選んだ勇気。やっとの思いで戻ってきた弟を、兄の立場からでなく、神様の立場から、一緒に喜べるようになるはずです。moseos
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