Tuesday, January 22, 2013
1 lent C
007-02-23 10:31:04カテゴリー: Weblog
四旬節第1主日 C 芦屋教会(黙想会)
ルカ4・1-13
イエスは悪魔によってさまざまな試みに遭います。
ところで試みと言うのは、その人にその傾きがあるから試みになるのです。たとえばタバコが嫌いな人にとって、タバコがそこにあるからといって、それはなんの誘惑にもなりません。酒が飲めない人にとって、酒が身近にあろうと、それはまったく誘惑になりません。
イエス様が試みられた誘惑は、その意味で、イエスが救い主だからこそ、意味ある誘惑となりました。イエス様にとって、石をパンにすること。それは確かに救い主として、陥りやすい傾きだったのです。
人間には、お腹がすいたんだったら石をパンに変えればいいと悪魔に言われても、何の誘惑にもなりません。石をパンにすることなどできるわけないと分かりきっているからです。ところがイエス様には、石をパンにする能力がありました。だからこそ誘惑になったのです。メシアとして陥りやすい誘惑。たくさんの飢えた貧しい人々。食べ物がなくて今にも死にそうな人々。この人々を目の前にして、救い主は当然救いたいのです。実際イエス様が、パンを増やしたり、水をぶどう酒に変えたりしたことも、確かにあるのです。でももしもいつもそのようにして、飢えた人がいるたびにイエス様が介入して、神様の力が働いて、貧しさをなくすのならば、人間は思うでしょう。「ああ、食べ物がない。だったらイエス様のところに行って来なさい。神様に頼んでくればいいでしょう」。しかしもしいつもそうだったなら、どこに人間の自立と自由があるでしょう。Moseos
こう考えると「水戸黄門」を思い出します。
水戸黄門は、ご承知のように徳川の「先の副将軍」であるのですが、その身分のままでは気ままな旅ができないので、「越後のちりめん問屋の隠居・三右衛門(さんえもん)」と名を変え姿を変えてお忍びで、格さん助さんを従えて旅をします。そして肝心な時には、いよいよその本来の身分をあらわして、葵(あおい)の紋(もん)をかざして「頭が高い!(ずがたかい)」とやるわけです。「ザ・権力」です。 この場合は、あくまでも「町人の振り」をしているまでです。本当に町人になったのではない。見せかけです。
ですからイエスさまは、ここでは、石をパンに変えて自分の腹を満たすということはなさらないのです。神がここに私を導いたのだから、神がちゃんと私を守って下さる。飢え死にしないでもすむようにして下さる。神の言葉はそれほどに力がある。神が備えて下さる。‥‥そういうことです。神への信頼です。その神への深い信頼の言葉です。
19世紀、イギリスで、ジョージ・ミュラーという人が孤児院を始めました。何も財産があったわけではありません。ただ、町に孤児があふれ、路頭に迷っているのを見て、聖書の言葉から、孤児院を始めるのが神の御心であるとの召命を受けて、自分の持っているものをすべて売り払って始めたのです。
最初は建物を借りて始めました。その時、ミュラーたちは、孤児院を運営する規則を作りました。
その中に次のようなものがありました。‥‥「いっさい募金を頼んで回らない。ただ神さまに祈って神さまにお願いする。」また、「寄付をしてくれた人の名前と金額を発表して、人の名誉心をあおるようなことはしない。それぞれの寄付者には、ひそかに感謝する。」‥‥そのようなことを決めたのです。そして彼らはただ、神に祈ることによって、孤児院を運営していったのです。そしてすぐに孤児がたくさん預けられていきました。
これはだれが見ても、無茶な冒険です。頼まないし、寄付者の名前を発表しない、つまり名誉心をあおらないで、いったいどこから寄付が集まるというのでしょうか?すぐに孤児院は行き詰まって、つぶれてしまうのではないでしょうか?‥‥神を信じないものが見たら、そうなのです。
しかしミュラーは、「これは神さまの命令で始めた事業なのだから」と信じて、ただ神さまを頼りにしたのです。時には、明日孤児たちに食べさせるものがいよいよなくなってしまった、ということもあったそうです。しかしそういうときミュラーたちはどうしたか?ひざまずいて祈ったそうです。
祈って神さまにお願いしたのです。そうすると不思議にも、食べ物を届けてくれる人が現れたり、資金を援助する申し出があったりして、孤児たちの食事は一日も欠かされることがなかったそうです。
しかも建物は次々と建ち、孤児たちは十分な食物と衣服を与えられ、2000人以上の孤児を収容するようになったのです。 神さまを信頼する
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 この聖書の言葉は、「武士は食わねど高楊枝」というようなやせ我慢の言葉ではありません。神さまに信頼するならば、神さまがちゃんと私たちを生かしてくださる、必要なものを備えてくださる‥‥そういう神を信じることへの招きの言葉です。 すばらしい言葉です。主をほめたたえましょう。 nibannmati
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2013年園田
今話題になっているスポーツ関係の体罰で見てみます。日本のお家芸(おいえげい)となっている柔道のオリンピック代表チームに、監督は大きなプレッシャーをかけながら力を注いできました。オリンピックは、建前は別として、参加するだけではなく、いくつ金銀銅のメダルが取れるか。それに向かって監督は自分の力量が問われ、「日の丸を背負って」国際舞台に花をそなえようと必死に練習を重ねてきました。が、あせりもあってか、説得だけでまどろっこしい。カツを入れるとか、執念、忍耐を持たせるなど、多少は体罰は必要ではないかと容認するようになったいきさつは、やはり、「石からパン」というふうになるわけです。本来のあり方より短絡(たんらく)的な手段を選ぶ誘惑に負けるわけです。
家族を幸せにすると思うときも、地位、名誉、お金を得ることが一般的であり、そのために家族と一緒に団らんするのは多少犠牲にしてしまうことはあります。
教会の中での人間関係でも似たような現象は見られます。自分のタレントを重要視し、利害関係のある他人のタレントをなかなか受け入れたくないという競争原理が働き、自分が中心になりたいという願望に押しつぶされ(負けるのはイヤ)、共同体の益となるようなことは、あまりにも現実でないような理想と思われ、キリストの望んだ共同体のあり方に目をつぶってしまう。
要するに、神の望んでおられるやり方ではなく、自分勝手な短絡的な手段を選んでしまう。私たちは多くの誘惑に負けやすい。誘惑に負けるのは日常茶飯事的なことではないかと、今日の福音書は教えています。
教会で祈っていたら、社会の様々な問題は解決されない。祈りではなく、社会問題に取り組むべき。これも、「石かパン」という短絡的な手段になりうるわけです。
キリストでさえ、神が望んでおられたやり方に従わないといけえない立にあったのに、私たちは結果を出せばいいのではなかと、手段を択ばない権利があると思い込んでいます。身の程を知らないのかと今日の第一朗読は言っています。
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次に、悪魔はイエスさまを聖なる都に連れて行きました。神殿は人々が神を礼拝する場所です。神殿におおぜいの人々が神を礼拝するために集まってくる。その神殿のてっぺんに悪魔はイエスさまを立たせて、ここから飛び降りてごらんなさいと誘ったのです。「人々が簡単にあなたを信じるようになる方法がある」 神殿の屋根の高さは約14メートルあったようです。おおぜいの人の注目を集めることは確実です。そして悪魔の言う通り、飛び降りたイエスさまを天使があらわれて助けたとしたらどうでしょうか。人々は、驚き、驚嘆の声を上げることでしょう。そしてイエスさまが、神から来た方であることを認めることでしょう。そうすれば、イエスさまはいちやく有名になり、持ち上げられ、わざわざ苦労しなくてもイエスはキリストであると人々は信じるようになるのではないか。
‥‥悪魔が誘ったのは、そういうことなのです。私たちと同じ人としてこの地上を歩まれることを決断なさったイエスさまに対して、「そんな面倒な道を歩まなくともよいではないですか、あなたを神の子として信じさせることは簡単ではないですか、この神殿の屋根から飛び降りて天使があなたを助けるのを見させればよいのです」と誘ったのです。
しかも悪魔はちゃんと聖書の言葉を引用して言っているのです。前回、イエスさまは悪魔の最初の誘惑に対して、旧約聖書のみことばを引用して反論しました。すると今度は、悪魔も旧約聖書のみことばを引用して誘ったのです。なんとも巧みではないですか。相手の言葉の端をつかむようにしてたたみかけてくるのです。「あなたが今私に反論したその聖書にこのように書いてありますよ。」と。
それは詩篇の第91篇の言葉でした。
私はこの誘惑をとても他人事とは思えないのです。私たちも同じように考えることがあるのではないかと思うからです。‥‥たとえば、もしこの芦屋の教会の上に、天からキリストがあらわれて、まばゆいばかりの光で照らしたとしたらどうであろうか、と。もしそういうことがなされれば、芦屋の町の人々はみな、芦屋教会に駆けつけてくるのではないか、と。
あるいはこんなのはどうでしょうか。キリストを信じる人が自由に空を飛べたり、海の上を歩いて見せたりしたら、みんな驚いて神を信じるようになるのではないか‥‥。そうすれば、何も私たちは苦労をしないではないか、と。
悪魔の言ったことはまさにそのような誘いなのです。
人々をあっと驚かすような摩訶(まか)不思議なことをして、人々を集めれば、簡単に人は神とキリストを信じるようになるではないか。確かにそう思いたくもなるのです。
しかし同時に思うのです。「そのようにして人が神を信じるようになったとして、それを『信仰』と言うのであろうか?」と。
、『あなたの神である主を試してはならない』という旧約聖書の申命記の6:16の言葉です。すなわち、神に主導権があるのです。神さまが必要なものを与え、神さまが導いて下さる。その神に信頼するように、との言葉です。
イエスさまにとっては、天の父なる神さまが、「神殿の屋根から飛び降りろ」と言わないのにそのように飛び降りることは、まさに「神を試す」ことであったのです。 神を従わせるのではなく、神に従う 。‥‥「私がここから飛び降りるから、神さま、御使いをおくって助けて下さい。そうすれば、見ている人々は皆びっくりして、神を信じるようになるでしょう。」「神さま、私の言う通りにして下さい。そうすれば、成功するんです。」‥‥イエスさまが問いたいのは、そういうものを信仰というのだろうか、ということです。
「神さま、あなたのやり方はまどろっこしくて間違っています。神さま、あなたは私の指示通りに動いて下さい。私の言う通りにすれば、皆キリストを信じるようになります。」‥‥。「神さま、私が商売をしますから、私の言う通りにもうけさせて下さい」と言うでしょう。
神が主人であり、私たちはしもべです。これがキリストの信仰です。
人は、反対に、自分が神の主人であって、神を自由に動かせるようになることを願うかも知れません。「どんな御利益があるのか?」と言って。人がキリスト教につまづく原因の多くがここにあるのです。つまり、「神を自分の思い通りにコントロールできない」ということに。
しかし私たちは確認しなければなりません。→私たちの平安の根拠は、神が私たちの思い通りに動くということにあるのではない、と。そうではなくて、私たちの平安の根拠は、神が私たちの主人であるということにあるのです。そしてその主人である神さまが、ちゃんと私たちを守り、導いてくださるということにあるのです。
私たちは、つぶやきます、「なぜ、私の思うとおりにしてくれないのか?私の思うとおりにしてくれれば、人々もキリストを信じるようになるのに」と。
手品ではなく、十字架によって救う 神が主であり、私たちはしもべです。そして主イエス・キリストもしもべとなられました。私たちが神に命令して動かすのではなく、私たちが神に従う道です。
世の中のものをすべてあなたにあげる、と。それにはたった一つの条件があると悪魔は言いました。
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら‥‥」という条件です。実に簡単な条件です。
その誘惑の声の主が、悪魔であると気がつけば、少し心がとがめることでしょう。「悪魔に心を売り渡しても良いのか?」と。しかし、次の瞬間このように思うのではないでしょうか。「いや、形だけでも一度でよいのだから、ここは悪魔をひれ伏して礼拝し、まず世界をいただこう。そして世界が自分のものになってから、よい政治を行えば良いではないか。そのほうが結局は人々のためになる」と。「この世を救うために、悪魔を礼拝して、世界を手に入れよう」と。
イエスさまが受けた誘惑は、まさにこのようなものであったと言えるでしょう。 もちろん悪魔は、イエスさまが、自分の欲望のために言うことをきかれる方ではない、ということを知っていたでしょう。ですから悪魔がそのように誘惑したとき、悪魔は、「あなたにこの世を差し上げますから、あなたはこれを自分のものにして、それから世を救えばよいではないですか?」と誘ったのです。実にもっともらしい言葉です。
人の子としてこの世を歩み始めているイエスさまです。さまざまな困難や試練が待っているのです。そして、イエスさまの行く道には、十字架があるのです。「そんなことよりも、今悪魔を礼拝して、この世を手に入れればよいではないか。それから世を救えば良いではないか。そのほうが近道ではないか。」‥‥ サタン、すなわち悪魔です。なぜイエスさまはそこで、それがサタンであることを見抜かれたのか。‥‥それはサタンが言った言葉にあります。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら」という言葉です。その言葉は、神ではないものを拝めという要求なのです。 神以外のものを拝めと要求するその声こそ、サタンなのです。それは露骨です。この3番目の誘惑の声までは、「石をパンに変えてみなさい」とか、「宮の頂上から飛び降りてみなさい」という、正体を隠した誘いでした。
それにしても悪魔の言った言葉は、あまりにも魅力的です。 私たちはここでもう一度よく考えなくてはなりません。それは、「サタンがここで言っていることは、果たして本当なのだろうか?」 ということです。
サタンは、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。しかし、待って下さい。サタンは、世界の国々、その栄華を果たして本当に所有しているのだろうか、と。世界は本当にサタンのものなのでしょうか。サタンが、自由に誰かにあげることができるものなのでしょうか。 私たちが心にとめておかなければならないのは、「悪魔はうそつきである」ということです。サタンはうそつきです。そこに落とし穴があるのです。サタンは世界を所有していません。本当は世界は主なる神さまのものです。サタンに世界の支配者であるような地位を与えるのは、人間なのです。悪魔とは何か? わかりにくければ、この「サタン」という言葉を、神さま・イエスさま以外の言葉に置き換えて見ればおわかりになると思います。サタンという言葉の代わりに、「富」や「お金」という言葉が入るかも知れません。あるいは、「地位」や「名声」という言葉が入るのかも知れません。‥‥神ではなく、富や名声を第一に拝め。それを手に入れたら何でもできるのだ、と。
自ら見捨てられたような人間になり、十字架に架けられた神の独り子でした。罪人となって、十字架にかかり、何一つ最期に持つことのできなかった神の子。
そんなにも神に愛され、大事にされ、そしてイエス様によって贖われた私だからこそ、神様の愛に立ち戻って、神様を忘れて生活をしてきたこと、神様からせっかく清められたにもかかわらず、自ら汚してしまったこの自分を、再びきれいにしてもらうこと。そのために、この四旬節の季節があるのです。
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