32 ミサ聖祭とキリストの来臨
「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイ26・29)前章で考察してきた契約の概念と同様に、このキリストの言葉もまた奇妙に無視されてきている。本書のミサについての瞑想を閉じる前に、我々はそれに注意を向けることにしたいと思う。聖ルカは、この聖句を、最後の過ぎ越しの杯の奉献の後で、実際に聖体を制定する言葉の前に置いている。この箇所で、イエスは最後の晩餐の時を越えて、その彼方にある王国の到来を睨(にら)んでいるようである。イエスは、将来の永遠の達成に言及している。それは、父の意志に従って、避けられない死に向かって今や一歩を踏み出さなければならないことの背後にある。この箇所は、ミサの記念全体に、特異な輝きを帯びさせている。その輝きは、クリスチャンたちの意識からぼやけているように見えるのであるが。
ところで、この言葉は、個人的にはイエスにとっておそらく重要だったが、エウカリスティアの記念にはそれほど重要ではなかったと、反論されるかもしれない。死を前にして、その重大さを知っていた主の視点は、未来を通じて万象の終末に及んだと言われるかもしれない。また、この考えはその時点での主観的な体験を反映しているが、それ以降キリスト教の信仰生活の中核となる聖なる行為とは関係がないかもしれない。しかし、聖パウロはご聖体の制定について書いたことは、そのような見方すべてを覆す。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 」(1コリ11・23-26)これに対して、イエスの言葉は単に過ぎ去り気分の現れであると本気で主張できる人はいないだろう。聖パウロは、わざと終末と主の記念の祝いを結びつけている。使徒パウロの書簡は、その中のいくつかは諸福音書より早く成立しているし、全部は少なくとも福音書と同じ時期に出来上がっていることは忘れるべきではない。パウロの書簡は初期キリスト教共同体の力強い信仰意識を表しているからである。
このすべてから明らかとなるのは、主がご聖体を制定した時点で、主が抱いていた見方は以下のようなものであったと思われる。あくる日、死ぬことになると知っていた。さらに、ある日戻ることになるということも知っていた。だが、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存知である。」(マタイ24・36)主が贖いの死の記念を制定したのは、死と来臨の間の期間のためであった。これは抑圧された者(実際に彼の来ることを期待していたすべての人)の強さと慰めであり、彼の栄光の約束を絶え間なく思い出させるものであった。その達成に比べて、もったいぶった姿勢をとりながらも、過ぎ去る時間は、実は本質的なものが来るまでのマークにすぎない。従って、ミサ聖祭は際立って終末と関係がある。我々はこの事実を忘れがちであることに関してもっと懸念すべきである。ところが、最近文芸界を騒がせている「終末論」とは何であろうか?
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20世紀初頭は、神学界では終末論の発見の時期と言われている。その中で、カール・バルトとルドルフ・ブルとマンが一番大きな反響を呼んだ。カール・バルトは、名著『ローマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が「遅延する」ということについて…その内容から言っても少しも「現れる」はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。…再臨が「遅延」しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」と言っている。ルドルフ・ブルトマンは終末が実存的な出来事であるとし、未来に起こるとは考えない。
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それは、最後のものに関係するものであり、存在するものの基本的な不確実性を意識して「自然な」形で存在する。これは、我々の個人的な存在または一般的な存在と結びついた表面的な不確実性を意味するものではないが、もちろんそれもその一部だが、すべての存在の根底にある不確実性である。このことを全く知らない人もいる。実際、このことが社会全体から無視されてきた時期もある。最後のものを知らない人々にとっては、この世はは揺るぎない現実 - 本質的かつ自明的な現実 ー "ザ"現実 ー である。この現実の中のすべては、物事の明確な順序によって規制されている。すべてが明白な原因と確かな結果を持っている。しかし、ある一定の時期に、これはすべて変化してしまう。使用法は有効性を失うかのようになる。人間社会全体の構造が揺れ動く。それから、常識となった仕事と妥当性の基準および嗜好(しこう)[趣味]の判断基準と行動のルールが徐々に不確実になる。すべてが流動的になったため、将来を計画することはもはや不可能となる。普遍的危険の感覚は人間の意識に浸透し、そこに巣食って、異常な感性の人に特有の経験の形態をもたらす。行動や財産にしっかりと植え付けられた人たちには自明であると思われるものは、これらの独特の知覚的な性質の持ち主に根本から疑問があるように見える。彼らには、現状の秩序は、生命そのものでさえも、存在の混乱とその制御不能な力の中で不安定に危ういバランスにあるように見えて来る。すべてのルールは一時的なものに見え、いつでも崩れそう。物事そのものが時には不透明、時には不気味になっているように見える。現実はそれが見えるほどしっかりとしたものでは決してない。すべての物事の存在のように個人的存在も、強力で危険そうな空白に囲まれて立ち往生しているように感じられる。そのような心理の持ち主には、革命、大災害、破滅は、遠い可能性ではなく、生き方の一部分となる。
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訳注: 例えば、大喪失、大失恋をしたら、この世の終わりではないか、という気分になる。うつ病も、ストレス社会が生んだ現代病のように思われがちであるが、実は、昔からある病気である(憂鬱)。そして、特定の人がかかる病気ではなく、誰でも、かかる病気だと言われる。もちろん、環境も関係するが、これは人間がもともとはかない、もろい存在であることの現れであろう。
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そのような気持ちは、歴史的転換期や個人的混乱の時代に伴う感情的な危機に典型的であると答えるのは簡単である。またはそれらが異常ではないにしても不健全な反応であることを指摘するのも簡単である。この捉え方は可能ですが、これらは完全に「正常」な真実を表現するという可能性もある。つまり、存在の不確実性の感覚は、正反対のもの、存在の確実性と同様に、両方は十分な根拠づけをもっている。人間経験のこの二つの形態が一緒になって初めて真実全体を把握したことになる。これらの漠然とした感覚は表現が難しく、解釈するのがさらに難しいという曖昧な感覚ではあるが、啓示(聖書)からはっきりと意義を受けている。聖書は、この世はそのまま大丈夫だと思わないように促している。それどころか、人間の本質そのものはひどく混乱している。一見して健康と安定とみえるものは、実はその障害を隠しているからこそ疑わしいものであると注意している。
それは、創造主と世界の主が「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)ときに、公然と明らかになった。受け入れる代わりに、彼らは来られた方を極力破壊しようとした。なるほど、来られた方の死は世界を贖った。その方の愛のうちに、新しい本物の保護と、永遠に安定した秩序が確立された。しかし、神に背を向け、神を踏み潰したことで、世界に汚れが残る。
世界が破壊しようとした方は再び来て、それを終わらせ、それを裁くことになっている。いつそうなるかは誰も知らないが、必ずそうなる。我々ははそのようなことを想像で描くことは難しいが、この世はは滅びることになっている。それは、この世の愚かさによって、または「自然な」原因からではない。キリストが「父が御自分の権威をもってお定めになった」(使徒1・7)時や時期にそれを終わらせることになっている。したがって、キリスト教的生活は、人生の一見した安全保障、秩序、約束にかかわらず、突然の終わりの絶え間ない可能性に直面しなければならない。今や、不確実性の感覚が本当に何を意味するのかを理解し始める。我々は信仰宣言で唱えているように、「主は生者と死者を裁くために再び来られる」、すなわち、キリストからの時間の周辺からの脅威を見るであろう。キリストが現世の存在の中心に置かれた苦しみと贖いの記念は、その来るべき方に向けられている。それは、この世の事情は本当はどうなっているのかを思い起こさせるものである。
初期のキリスト教はこの状況を鋭く意識していた。はこれを使徒言行録や聖パウロの書簡の中で見てとることができる。世紀の変わり目に書かれたヨハネの黙示録はまさに、期待の言葉で終わっている。「“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。(…)
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 」(黙示録22・17-20)初代キリスト教の他の文章にも、大きな期待が見られる。主は来られる、すぐに来られる!
その後、徐々に主の来臨が差し迫っているという感覚が消え、信仰者たちはより長い期間に期待をかけることになる。しかし、4世紀に入っても迫害が続き、生活は非常に不安定であり、地上の非現実感は非常に強かった。それから、キリスト教は公式の国家宗教となり、堅実で容認された生活様式となり、一般的な不安感はなくなった。我々が見てきたように、歴史的な混乱の時代や特別な気質の持ち主再び現れるが、もはやキリスト教の態度をそれ自体として決定的に支配するものとなることはなかった。
こうして、キリスト教的生活はその終末論的な性質を失ってしまった。その損失でこの世に帰属する感覚は多かれ少なかれ自明になってしまった。キリスト教の本質的な注意深さと準備はなくなっていく。 「目を覚まして祈っていなさい」(マタイ26・41;マルコ14・38)という言葉は、”道徳的”に、神の意志に対する責任の重要な意味としてだけでなく、”本質的”に、生き方としての意味をも指していることを忘れられていく。キリスト教徒は決してこの世に定着することためにも、「自然と一致する」ためにも、あるいはビジネスや芸術にべったり従っていくためにも存在しているわけではない。
これは、この世の否定や生命に対する敵意を意味するものではない。キリスト教徒は地球の壮大さと美しさを深く意識している。彼は地上で与えられた任務を他の人と同様に効率的かつ責任あるように果たすつもりでいる。それが意味することは、この世に対する一定の態度である。キリスト教徒の階級が何であれ、決して「ブルジョア」、自己満足、心配のない独りよがりになるはずがない。何と言っても戦士のように、彼は常に見張りをしているはずである。彼はより鋭い耳を持ち、他人が見逃すアンダートーンを聞きとる。彼の目は特に純粋な光で物事を見て、他の人が感知できないものでも、すなわち万物を通じて生きる現実の流れを感知するはずである。彼は決して生活におぼれることはない、むしろ頭と肩を浮かばせ、上を眺めるために目を自由にする。したがって、彼は他人よりも責任感が深い。この意識と注意深さがなくなると、キリスト教の生活は衰える。それは鈍くなり、重たく感じるものとなってしまう。
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