Monday, December 12, 2016

著者の序文

著者の序文


本書はミサ聖祭の準備のためにミサの前で開催された談話として始まった。談話は主の記念の本質を解釈したり、主の生涯を語るようなものではなかった。その目的は、単にミサに与る時、我々会衆に何が求められているかを明らかにし、それらの要求にどのように適切に答えればいいのかを示すことであった。

   多くの信者にとって、ミサは神聖な見ものや不可思議な手続きのような性格を持つようになった。信者は、その間に自分の祈りをささげることになってしまっている。結果的にミサの現実は埋められ、交換可能でないものは失われてしまった。この事情の理由は数多くあり、とっくの昔に遡るので、それらを正そうとしても無理がある。しかし、ミサが忠実な者たちのために再び本来の姿、制定された時の姿で現われる時が来ている。ミサは本来、使徒言行録(246)とコリントへの最初の手紙(1117-34)が指摘するように、キリストの共同体の神聖な行動、司祭職の世話のもとで、真のコミュニティとして生きた行動をすることを意味している。

  本書が役立つのは、まさにここのところである。それは、ミサをどのように祝うべきか、あるいは教会法の定められた限度内で(あるいはおそらく「祈りの法(Lex orandi)」[第20章の訳注参照]のより完全な達成を通じて)、神聖な儀式の有機的構造がより明確に引き出される方法を示すことを試みたり、信者の参加度合いがどれだけ達成され得るのかさえ述べたりすることではない。それは神学の教科書の役割である。

   ここで必要とされるのは、ミサのための個人的な準備である。これは、個々の信者が自分の信仰を強化し、心を浄化し、自分の意思を整理し、方向付けるという、通常の意味での「ミサへの準備」だけでなく、個々人の集まりを会衆に変え、不穏な群衆を神の目の前で「聖なる民」に変えるためにどうしても欠かせない態度を育てる、といった準備である。

   そのような核心的な準備からのみ、祭壇に集中する注目は内面的に静かになり、聖なるものを受け入れさせることにつながる。こうしてのみ、教会での聞き取りと会話は、道端、家庭、または事務所での言葉の遣り取りとは異なるものとなる。

  本論考の第一部は、もっぱら今述べた基本的な準備を取り上げる。地道な仕事だが、その重要性は大である。その仕事に取り組まないかぎり、ミサ典書を使ってみても、「共唱ミサ」を取り入れても、典礼についての議論は机上の空論か、審美的な物議にとどまる。

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1920年代にドイツでミサの共同体的執行が開始され、「共唱ミサ(ドイツ語でGemeinschaftsmesse ラテン語でMissa dialogata )」と呼ばれた。部分的に国語が導入され、次第に若い知識人の間で刺激となり、カトリック青年運動と結びついていった。

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典礼の行為を真剣に考えれば、知性と心の全体的な集中を前もって準備しなければならない。

     第二部では、ミサ自身について議論し、その本質とそれが我々にとって何を意味するのかを問うが、それが我々に「求めている」ことを常に心に留めておく。我々はそのような要求のくだんの解釈、神聖な儀式に熱心に参加し、聖体を支えるものに我々の態度を一致させるために真剣に努力し、自制と自己犠牲を実践する、といったことにとどまらない。すべてこれは非常に重要であるが、ここの問題の在り処は全く違うところにある。問題は次のとおりである、ミサは本質的に聖なる、典礼的な行為であるが、そうなるためには我々はミサの祭典にどのように協力していけばいいのか?

   信仰、愛、自己犠牲に備えることは、最大の理想であり、典礼と全く関係のない信心は、疑いもなく、真のキリスト教的奉仕を神の前にもたらすことができる。しかし、我々が本書で目指していることも重要であり、最大限の注意を払う必要がある。

   本書は気がかりとしているのは、ミサについて知ることではなく、ミサの実践であると、以前にも言ったことがあるが、訂正する必要がある。知識にはさまざまな道があり、通常は最初に頭に浮かんで来るのは、事柄を熟考、深め、比較し、結論づける道である。多くはこれらの手段で把握できるが、すべてではない。私は、例えば、すでに存在するものを知ることはできるが、実践してはじめて存在する無形のものを知ることはできない。

   後者の知識を得るために私はそれらを行わなければならない。研究を通して、私は木の種類を学ぶことができる、また私の周りのコミュニティ生活のパターンを確かめることができるが、研究は忠実さや愛が何を意味するかを教えてくれない、少なくともそれらの究極の意味、つまり「わたしにとって何をしている」のかを教えてくれない。

   私の観察や考察は、それだけでもある種の適性をもたらして、木や社会の現象について議論する準備をしてくれる。ところが、心の問題について同様の「観察」を試みると、今述べた言葉は薄く空になってしまう。本当に忠実を知りたいのなら、それを実践する必要がある。私は愛について権威をもって語ることができるのは、何らかの形で、私がその挑戦を受け入れた場合にのみであろう。

   同じことは我々のテーマについても言える。ある程度まで聖書とミサ典書を研究したり、典礼の歴史に関する本を読んだりすることで、ミサの本質を理解することができる。しかし、その本質、つまい最大の愛における救いの行為は主の記憶の中で行われることは、私が "やる"ときだけ私のものとなる。

   信者がそれを適切に行うことはめったにないので、おそらく公教要理、説教、そして多くの敬虔な文学にもかかわらず、ミサの本当の性質はキリスト者たちの意識の中に弱いものとなっている。本書がより良い実践に役立つならば、深い理解が続くであろう。


ロマーノ・グアルディーニ

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