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訳注: C・H・ドッド(C.H.Dodd, 1884–1973)がとなえた「実現された終末論」(realized eschatology)を参照。それは、イエスと共にすでに、世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものである。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論否定はしなかったが、強調点は他の終末論とはことなり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来している、というところにある。このように「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、その要素がまだこれから完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。
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このようになると、ミサ聖祭もその特徴の一つを失う。主ご自身が強調された特徴、そして初期のキリスト教徒がよく知っていた特徴を失う。ミサは堅実に確立された習慣となり、賛美と感謝をささげ、助けと贖いを求めるために、信仰生活を形作る、キリストから与えられた、一般的に受け入れられた形となる。そうすると、ミサは「すべての教会で毎日、一定の時限、とりわけ日曜日に祝われるもの」となる。もちろんこれも間違っているわけではないが、何か本質的なものが欠けている。
願わくは、その欠けているものが我々の生活とミサに戻るだろう。神の言葉のさまざまな側面は、異なる季節を持っている。時には一側面は退色(たいしょく)し、背景に後退し、キリスト教徒の意識から消えてしまうことがある。それは聖書の中にまだあり、典礼で引き続き読まれているが、言葉はもはや "聞かれなくなってしまった"。それから、存在の方向が変わり、同じ言葉が突然雄弁に鳴り響いているように聞こえるようになる。今の時代はまさにそのような変化を経験している。今の時代は、その前の難攻不落の状態から逸脱し、革命の破壊と再建へと進んでいるからである。安定感と永続性の古い感覚はもはや存在の神秘に「答え」を提供するほど強くはない。我々は、人生の過渡期と疑問を深く意識している。したがって、自然の状況でさえ、聖パウロの言葉の理解を助けている。「この世の有様は過ぎ去るから」(1コリ7・31)である。何でも起こり得る。我々は神の可能性の大きさを認識し始め、キリストの来る現実を感じ始めている。時間の端から我々に向かって押し寄せるもの、 "言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい"(ルカ22・18)。
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訳注: 「ぶどうの実から作ったもの」、つまりぶどう酒の作り方に大変似ているのがオリーブ油である。
世界は圧搾機(アウグスティヌス)
「この世はオリーブ(の実)を絞り込む圧搾機のようなものである。あなたが油かすであれば棄てられる、オリーブ油であれば集められる。とにかく機械にかけて絞り込まれることは避けられない。ただ注意して油かすとオリーブ油を見なさい。絞込みはこの世において行われる。それは、飢饉、戦争、貧困、食料不足、欠乏、死、強盗、強欲を通してである。これらは、貧しい人々にのしかかるもろもろの悩み事、また国々の災いである。我々はそれらを体験する。
ある人々はこれらの災いに悩まされて、愚痴を言う。『この時代が悪い』と。これは、圧搾機(絞る機械)から下水に流される油かすである。その色は黒い、(神)に対する冒涜だからである。全く輝きがない。オリーブ油には輝きがある。ここに別の人間がいる。同じ絞込む機械と圧力にかけられても、彼らはそれを通して清められるのである。絞込みは彼らを精製(純化)するのである。」(アウグスティヌス、Sermones, XXIV, 11)
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ご聖体の制定の直前にあるイエスのこの言葉は、偶然ではない。主の記念を祝うことは、現在の瞬間を永遠に結びつけるだけでなく、我々が容易に理解できる考えであり、未来にもつながる。しかし、その未来は時間のうちよこたわるものではなく、時間を超えてそれに近づき、最終的に時間を廃止する。キリストの約束は、我々に現在を再評価し、それに耐えてやり抜くように教えている。
初期のキリスト教の会衆で勝っていたと思われる気分を、我々がどれほど理解しているだろうか。それらの人々は知っていた:我々の周りのすべては不確実で、異質的で、危険にさらされている。明日は何をもたらすのか誰も知らない。しかし今、我々はここにおり、我々の主の記念を祝っている。彼は我々について知っており、我々は彼について知っている。彼は黙示録の手紙を書き送らせた方である:「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を、(…)あなたの苦難や貧しさ、(…)あなたの住んでいる所を、知っている。」(黙示録2・2,9,13)主はすべてを知っておられる。この知識は我々の逃れ場である。今や、神聖な記念の時である、主は我々の所にに来て、我々とともに留まり、我々を強めてくださるであろう。明日はどんなことであろうと、それは彼から送って来たものであろう、と。
この束の間の不確実性の感覚を通して、もう一つのより深い感覚が打ち出される:すべての人間の存在の不確実性に対する認識。我々のこの一見して疑いのない世界は、実際にはそれにクエスティオンマークが付いて回っている。我々は今一度それに気付き始め、その兆候を理解し始めている。主は世界を終わらせるために戻ることが、いつでもあり得る。
ミサの祭典は、常にこの世が「過ぎ去っていく」という感覚に染まるべきである。この世は最初から時間の制限のうちにあり、神の永遠の前に運行している。その運行は神の許す限りである。しかし、問題はこの世の本質的な時性だけではない。それは、「取得された」第二の制限、または死すべき運命にもさらされている。その極度の不秩序は、その不従順と不公正によってもたらされた。神の裁きの前に召喚されると、この世は「耐える」ことができなくなる。その召集が来る時について、我々は知らないので、「眠っている」(マルコ14・40;マタイ26・43)状態で発見されないように、目を覚まして祈る戒めは当然であろう。「すぐに」来ることだけは確かである。「すぐに」とは、時間の単純な測定(例えば、明日または一年後、あるいは30年後、数千年後)を意味するのではなく、すべての時間に適用可能な、それがどれくらい続くかに関係なく、本質的な「すぐ」を意味している。静かにキリストを待つことから生まれる聖なる「すぐ」である。それは、恐るべきことであると同時に幸せな「すぐ」であり、毎時の時間の制限から我々に押し寄せて来る。我々の信仰が本物であるために、頭のどこかになければならない「すぐ」である。
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訳注: 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はスグニ網を捨てて従った。」(マタイ4・19-20、筆者強調)参照。
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以上すべてが我々には奇妙に思えるかもしれない。我々は正直でなければならない。実感がないのにふりをしてはいけない。これは、我々の信仰教育の課題である。我々はこれらの考えへの道を手探りしなければならない。徐々にこの期待を我々のものにしなければならない。おそらく本書の数々の瞑想は、思考を表現するためによく使われる用語とは対照的に、我々の現代的な偏見を少なくとも取り除いてきたかもしれない。これから、我々はは本当にこの世の「過ぎ去り」の真実を身につけなければならない。目を覚ますこと、待つこと、「主が再び来られる」時まで耐えることを、練習しなければならない。これは、不自然ではなく、まぎれもない真実を表している。またこれは、生活の不安定、あるいは仕事の効率の低下を招くものではない。生活と仕事における単なるアクセントである。それがなければ、我々の生活と仕事は、物足りないものとなるのである。
このアクセントを取り入れると、ミサ聖祭はまったく新しい意義を受ける。我々はそれがいかに本質的であるかを理解し、我々にとってミサは最も深い平安と安心の時間となるであろう。毎日の騒音と緊張の中で、ミサを思うことは我々を支えてくれるであろう。手が伸びていくように、心はミサの思いに手を伸ばすたびに、新しい力を手に入れるようになる。
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