終末論の種類・近現代における終末論の展開
A. A.リッチェル-歴史の中で発展する道徳的秩序としての神の国観-終末的視点の喪失
B. ヨハネス・ヴァイス-『イエスの神の国の教え』(歴史に突入してくる神の国)
「破壊し再生するための歴史の中に噴きだす、そして人間が推進したり手を貸したりすることができない、圧倒的な神の嵐の突出」
C. A.シュヴァイツァー『イエス伝研究史』(Consequent Eschatology 徹底的終末論)
「近づきつつある破局的な世界の終りに伴う超自然的な神の国の到来を待ち望んでいた」
D. C.H.ドット『神の国のたとえ』『使徒的宣教とその展開』(Realized Eschatology 実現された終末論)「イエスの死と復活においてすでに来た」
E. J.エレミヤス(Sich realisierende Eschatologie 実現途上にある終末論)「なお完成の時が来る」
F. A.T.ロビンソン(Inaugurated Eschatology 開始された終末論)「連続性と未来性の調和」
G. R.ブルトマン(Existential Eschatology 実存的終末論)
「そのときそのときの実存的決断の『生』において実現、歴史的というより実存的、無時間的性質」
H. ディスペンセーション主義 Dispensationalism
「イスラエルと教会の分離・区別、文字どおりの解釈、教会時代は大挿入」
I. モルトマン『希望の神学』(政治的神学)
「神の変革を待ち望みつつ変革する、歴史における主導性」
J. ティリッヒ, R.ニーバー(Symbolic Eschatology 象徴的終末論)
「私たちの幸福は、超現世的、歴史的彼岸にある」
人類の最後の運命がどのようになるかについての教えや信仰が、いわゆる終末論と言われているものであるが、それは通常、主の日、裁きの日、死と不死、千年王国、イエスの再臨、主の永遠の支配などの教説を含む。このようなものとして終末論は、伝統的な教義学が書かれる場合に、その最後の部分に若干の頁が割かれて、ひっそりと存在するのが常であったが、十九世紀の終わり頃から情況はすっかり変わってしまった。その変化は、ヨハネス・ヴァイス(Johannes Weiß)やアルバート・シュヴァイツァー(Albert Schweizer)などの研究が原因となって起こった。
ヴァイスやシュヴァイツァーは終末論をキリスト教理解の中心に据えた。彼らの新約聖書の歴史的研究の成果によると、イエスは自分が生きているうちに世の終わりが来たることを信じ期待していたのであった。これがシュヴァイツァーの言う徹底的終末論(die konsequente Eschatologie)であるが、もしもイエスがそういう期待をもっていたことが事実であるならば、それから二千年近く経過した今も、まだ終末が来ていない事実をどのように考えたらよいのか。否、事実に反した期待の中に生き、そして十字架上で死んで行ったイエスをどのように理解したらよいのか。また、そのように事実に反した世の終わりへの信仰が、キリスト教の中心であるイエスを駆り立てていたことを思う時に、原始キリスト教においてこのように中心的位置を占めていた間近な世の終わりへの期待を、今の我々はどのように理解し、信じたらよいのか。このような焦眉(しょうび)の急とも言うべき諸問題が現代神学に突き付けられたのである。
徹底的終末論を一つの極と考えるならば、その対極として考えられる意見がC・H・ドッド(C.H.Dodd)からだされた。彼の立場は「実現された終末論」(realized eschatology)と呼ばれているが、それは、イエスと共にすでに、世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものであった。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論否定はしなかったが、強調点は徹底的終末論とはことなり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来している、というところにあった。このように「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、その要素がまだこれから完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。
今日も終末論の問題は相変わらず神学議論の中心をなし、既に述べた両極のいずれかに近い立場の種々の意見が出されているのであるが、それにからんで、終末論の様々な局面が論じられている。
新約聖書の記者たちは、将来についてどのような希望をもっていたにしろ、何よりも大事な出来事は既に起こってしまっているとの前提に立って、使信を宣べ伝えている。「時の終わりに直面している」(1コリ10・11)のはまさに我々なのだ、「来るべき世の力を体験」(ヘブライ6・5)しつつあるのは我々なのだ、ということが前提とされている。この結論は既に教会や秘跡に関する神学的議論に新しい命を吹き込んでいるし、典礼や司牧活動にも影響を及ぼすべき時となっている。
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