5 付録
聖書には、神の世界超越が説かれているとともに、また神の世界内在が説かれている。神の世界内在という思想は、聖書の見地からして、汎神論を許容することではない。汎神論におちいることなく、のみならず神の超越性をいささかもそこなうことなく、しかも神の遍在性が認められるためには、神はいかなる仕方で世界に内在し、またそのような世界内在の仕方は神のいかなる性格にもとづいて起こるかということが、厳密に考察する必要がある。
「神は或る意味においてすべての場所に在る。すなわち、至る所に存在する。まず第一に、神はすべての事物に存在と能力と活動を与えている者として、すべての事物のうちに在る。[…]神はまたすべての場所を満たしている。しかし、物体のような仕方で満たすのではない。すなわち物体は、他の物体が自分とともに同じ場所を占めることは許さないという仕方で「場所を満たす」といわれるのであるが、神はこれに対し、或る場所に存在することによって他のものがそこに存在することを斥けることなく、却って反対に、すべての場所を満たしているところの「場所に置かれているもの」のすべてに、存在を与えることによってすべての場所を満たすのである。」
(トマス・アクイナス、『神学大全』第1部第8問第2項)
「神は何らかのもののうちに存在するということは、二様の意味で語られる。一つは、作用因の仕方によるものであり、この意味においては神は、神によって創造されたあらゆる事物のうちに存在する。一つは、働きの対象は働く者のうちに存在するという仕方によるものであり、これは認識されたものが認識者のうちに在り、欲求されたものが欲求者のうちに在るかぎりにおいて、魂の働きに固有なことである。そこで神は、この第二の仕方によっては、神を現実的に愛しあるいは習態的に愛している理性的被造物のうちに、特別な仕方で存在する。そしてこのこと理性的被造物が得るのは、後に明らかにされるように、恩恵によるから、このしかたによっては神は、聖なる者たちのうちに、恩恵によって存在するといわれるのである。
ところで神によって創造された他の諸事物のうちに、いかなる仕方で神が存在するかということは、人間に関することがらのうちに存在するといわれるものをもとにして、そこから考察を進めることが適当である。たとえば、王は、全国土においてある、王自身がその至る所に現前しているわけではないが、その能力によって存在しているといわれる。また或る者は、その者の視界のもとに在るすべてのものがその人のうちに現前する、という仕方で存在するといわれる。たとえば、或る家のうちに存在するすべてのものは、或る人に現前しているといわれるのである。しかし、その人は、家のいずれの部分にも自分自身の実体によって存在しているわけではない。」
(トマス・アクイナス、『神学大全』第1部第8問第3項)
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