Monday, December 12, 2011

30 per annum A

From Evernote:

30 per annum A

 

年間30主日 Α

 

【マタ22:34-40 最も重要な掟】

 

最も大切な二つの掟が示されました。「神と人を愛する」。このことです。

 

一つは神を愛せということです。神様とは宇宙万物の造り主で、今もこの世を最終的に治

 

めている存在です。そして時を越えて存在してる方。神のゆるしなしに起こることは何一つ

 

ないわけです。

 

ところで人間は自分で獲得したものは自分の手柄にする。一方で何か不都合なことがあれ

 

ば神様のせいにする。そういうところがあるのではないでしょうか。

 

たとえばある青年が受験でいい大学に入れたとします。すると自分で努力したからと思っ

 

ている。実際はいろいろな神様の守りがあってできたことです。まずは日本という恵まれた

 

国に生まれており、戦争がなく、病気で死ぬ確率も低く、義務教育も完全に行われている。

 

その中である程度恵まれた頭脳と環境があり、勉強をすることができたからこそ、受験で入

 

れたわけです。けっして自分だけの努力によるのではありません。そしてそれらの恵みに感

 

謝することはあまりなく、自分の努力、自分の力によると思ってしまうのです。自分のもっ

 

ているものはすべて神のもの。神からあずかっているに過ぎないのに。

 

ところでこの同じ人が受験に失敗するととたんにこうです。神様はどうしてこんなに努力

 

している自分を認めずに、意地悪ばかりするのか。私は神から見放されている。こんな神な

 

ど必要ない。神などいない。

 

まるで神様を自分の召使と思っているようです。実際こういう面が人間にはたくさんあり

 

ます。災害、事故。人間のせいであることが実は多いのに、守られていればそれは当たり前

 

、別に感謝するわけでもない。ところがそうでないととたんに神を恨み、神などいないと言

 

い出す。(受験する前に神社などで、絵馬などで神様にお祈りする学生はいますね。受かっ

 

たときに感謝しに行く学生はどのぐらいいるのでしょうか。)

 

こういう身勝手な人間に対し、イエス様はおっしゃるわけです。「神を愛しなさい。神の

 

計らいを信じなさい。神様がどんなにあなたを思っているか、そのためにイエス様を十字架

 

に遣わしてあなたの重荷や罪を身代わりに負った、そこまであなたを愛している神の愛を信

 

じなさい。そして神を愛しなさい」。

 

与えられたすべてのもの。それを神様からのものとして受け止め、できるだけ、そのとき

 

は望ましくないと思えても感謝していく。それができたときにいつも神様を愛することがで

 

きるようになります。そのことを忘れずにいつも神様に感謝し神様を愛することを忘れない

 

ようにしましょう。これが第一の掟です。

 

◇第二の掟は自分を愛するように隣人を愛せと言うことです。

 

裁判所で働く心理学者によりますと、家庭の中で暴力を振るう男性は、自分は最低の男だと思っている

 

そうです。そういいながら家族に暴力を振るい続けるわけです。自分を愛せない、自分は欠

 

点ばかりだからと言う人は多いです。しかし実際やっていることは、自分のことばかり考え

 

、自分のことばかり優先している。自分さえ大事にできないから、ましてや人も大事にしな

 

くていいかのようです。しかしこれは自分本位です。

◇子どもが聞きました。「ねえ、神様はなんでもできるんでしょ?」「そう。なんでもでき

 

るよ」。

 

「じゃあ、どうして戦争をやめさせたり、食べ物がない子に 食べ物をあげてくれないの?

 

 

「そうねぇ。神様にお願いしてみたら?」

 

その後しばらくして。「お祈りしたら同じことを神様から聞かれたの。どうして君は同じ

 

ことをしないのか」って。

 

ここに神を愛し、人を愛する姿が現れています。

 

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何より神を愛しなさい。これひとつだけでもむずかしいことです。実際に私たちは、多く

 

の神以外の像を大切にしています。金とかこの世での評価とか、そういったものにとらわれ

 

続けます。しかし何より神を愛さなければならないと指摘されるのです。

 

しかし神を愛するという縦の関係だけでは、不十分です。「隣人を愛さなければならない

 

。それも自分を愛するように」。

 

ここもなかなか分からないのです。多くの人は言います。私は自分なんかとても愛せない

 

。欠点ばかりだから。そんな私が、自分を愛するように人を愛せと言われても、そう言いま

 

す。

 

日本人の場合は特に、この「自分を愛する」ことが難しいようです。いつも他人と比較さ

 

れる。そういうことに慣れてきたからではないでしょうか。しかし自分を愛し、大切にする

 

ことはとても大切なのです。これはただの利己主義、自分中心主義とは違います。

 

こんなことを言った人がいます。

 

「もし私の隣人が私より強いなら、私はその人を恐れ、もしその人が私より弱ければ、私は

 

その人を軽蔑する。

 

もし私とその人が同じであれば、私ははかりごとに訴える。

 

私がどのような動機を持っていたら、その人に服従することができ、

 

私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろう」

 

◇私を愛せないから、私を正しく自分で評価できないために、そのために人を愛せない状態

 

がよく示されているのではないでしょうか。

 

自分より強ければその人を恐れ、自分より弱ければ軽蔑する。こんなことばかりしていて

 

は、いつまでも人を愛せません。

 

神を愛しなさい。なぜでしょうか。それは神様が私をかけがえのないものとして、大切に

 

して、愛してくださったからです。このつまらない私を、生まれる前から愛し、価値を認め

 

、私に命と言う恵みを下さった。そして私が罪を犯して、神様から離れてしまっていたとき

 

、私が神など何も意識できないとき、すでにそのときから、この私の罪を担って、身代わり

 

になって帳消しにしようと、イエス様が十字架にかかってくださった。この神様の深い愛が

 

あるからです。

 

その神様の絶対的な愛に答えて、私たちは神様を愛するのです。そしてそのような普通に

 

考えたらありえないほどの神の愛を受けている、ありがたきものとして命を与えられている

 

、このことに深く感謝すべきです。

 

そしてそれほどまでに神様からの深い愛に包まれた私だから、もう人を恐れることはない

 

。人と比較する必要も、人と競争する必要も、力争いする必要もないのです。何であれ、こ

 

の私は神様から愛されているのですから。どうして人と比べ、競う必要があるでしょう。

 

その深い自己愛、自分を肯定する感情をもとにして、今度は人を肯定することもできるよ

 

うになります。この神様の深い愛は、自分だけのもののはずはない。同じように、この人も

 

愛されているはずだ。私から見たら、性格が合わずに、やりにくくて、いつも競ってしまお

 

うとする相手だけれど、いやこの人も、同じように神様から愛され、この人のためにもイエ

 

ス様は十字架にかかったのだ。そのことを深く感じ取るときに、信じようとするときに、ど

 

んな相手であれ、その人を受け入れ、受け止め、ついには愛していく。その心が与えられる

 

のです。

 

神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する。実はこれはまだ旧約聖書に限った愛の姿です。イ

 

エス様の示した新約聖書の愛はどういうものかと言えば、隣人だけでなく敵をも愛すると言

 

うことが含まれてきます。こうして新約聖書ではさらに愛が徹底されていきます。しかしと

 

もかく今日は、自分を愛してくださった神を認め、神を愛しましょう。そして神が愛してく

 

ださった自分を認め、また同じように神が愛した人を認めるところから、人を愛することの

 

きっかけを、見つけ出していくようにしましょう。

 

 

あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22・37-39より

 

最も重要な掟

 

手彩色紙版画

アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)

 

パリ聖書博物館

 

最も重要な掟として神への愛、隣人への愛を説く、イエスの教えの中でも頂点と言える内

 

容を伝える場面を、どのように絵画化できるだろうか。これは、絵を描く側にしてみればか

 

なりの難問だったのではないだろうか。

 

カルペンティール師は、ファリサイ派の一人である「律法の専門家がイエスを試そうとし

 

て尋ねた」(マタイ22・35)、そして「イエスは言われた」(同22・37)という福音書の叙

 

述に従って、イエスと律法の専門家の問答の瞬間を描き出している。右手に書物を持った律

 

法の専門家は、下から見上げるようにして、イエスを一応立てる出方をしながら、目つきは

 

明らかに邪悪である。人差し指を突き出した彼の左手は、いかにも「どうだ?」と言うよう

 

にイエスに向かっている。

 

それに応ずるイエスの表情はなぜか明るい。律法の中心は二つの愛の掟に尽きるのだとい

 

う究極の明快さを意味しているかのようである。イエスの手の様子がおもしろい。左手は人

 

指し指一本をまっすぐ伸ばし、右手は、人指し指と中指の2本を伸ばしている。左手が第一

 

の掟(神への愛)、右手が第二の掟(隣人愛)を表していることになる。

 

背後にいる三人の男の人たちの表情は、それぞれ描き分けられている。右端の人は、何か

 

目を伏して考えこんでおり、真ん中の人は律法の専門家の試みに加勢しているようである。

 

左端の人は不安げに光景を見つめているか、もしくはイエスの答えに気負けしてしまってい

 

るように見える。

 

福音書の構成の中では、この問答は、エルサレムでのファリサイ派や律法学者との対立が

 

激化していくなかで、大きな波紋を巻き起こしたものの一つである。イエスは確実に受難へ

 

の道をたどっている。それだけに、ここでのイエスの明るさが印象深い。迷いのない信仰と

 

生き方のための明らかな道しるべとして、イエスは描かれているように思われる。

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