Wednesday, November 13, 2013

3 Advent A

待降節第3主日 A
【マタ11:2ー11 洗者ヨハネとイエス】

降誕祭をまじかにひかえて、今年のクリスマスは私たちにとって信仰、希望と愛を育てる機会となるように祈りたいと思います。

今日の日曜日は、古くから「喜びの主日(dominica de gaudete)」と言われてきました。それは、入祭唱が、パウロの手紙の喜びへの招きのことばから始まるからです。パウロは、「主にあって喜べ、かさねていう、喜べ」と、喜びに私たちを招きます。イザヤ書も、荒れ果てた大地と病に打ち倒された人々に向かって、よろこび踊る時が訪れてくることを告げます。このように今日の聖書と典礼の基調は喜びなのです。
  その喜びは、クリスマスを前にした喜びですが、「主にあって」の喜びであり、「いつも」喜べとあるように、失われることのない、持続可能なよろこびへの招きなのです。
「喜びとは、私たちの願い求めるものが与えられたときの充足感である」と、ある心理学者は、喜びをこのように定義しています。逆に、願い求めたものが与えられないときには、悲しみとなります。
  それでは、喜びと悲しみと、どちらを多く私たちは体験するでしょうか。また、どちらの方が長く持続するでしょうか。
厚生労働省の最近のデータによれば、年間の離婚件数は3万件近くになっているそうです。約2.8組に対して1組が離婚するという、たいへん多い数だということができます。ここ7~8年は、毎年戦後最高を更新し続けているのです。結婚当初は、アツアツの新鮮な、希望に燃えたカップルが、いつしか現実の生活の中で、熱が冷め、すれ違いが生じ、小さな不平不満が蓄積していく。「こんなはずではなかった」ということになり、そして妻あるい夫から三行半を突きつけられる。そういうことが数字の背景に見えてきます。
このように、私たちの体験からしても、喜びに満ちた人生をおくれる人よりも、悲しみにおおわれた人生を歩む人が少なくないのです。
喜びよりも悲しみの方が多いというのは、それは人生だという人もいます。確かに人間というのは、からだは疲れやすい、油断すると病気になるのです。どんなにすばらしい青春をした人にも、徐々に老いが忍び寄ってきます。人と人との交わりも、持続できる場合は比較的まれです。「会うは別れの始まり」というように、愛する者同士の心からの喜びも恒常的なではありません。転勤がある、事故が起こる、病気になる、そのようなことで分かれてしまいます。複雑な社会の流れに巻き込まれて、木の葉のように、小さな人間の喜びは吹き飛ばされてしまいます。
思いどおりにならない人生、そこに人間の小ささ、無力さがひそんでいます。私たちは年をとって、現実の人生に踏み込んでいくにしたがって、自分の才能の足りなさ、力のなさ、現実に対する自分の無力感を体験していきます。
自分自身も、他人も、世界も、思いどおりにいかないものだという現実を、くりかえしくりかえし体験することによって、私たちの心には悲しみや、やるせなさがしみついていきます。たとえ家庭生活に喜びがあるとしても、無条件に私たちが喜びにひたることはできないと悟ります。悲しさや無力感が生きる姿勢にしみこんで、そして深まっていって、私たちの心を疲れで満たして、さびしい絶望みたいなものの中に追い込んでしまう場合もあります。

「よろこびおどれ」というイザヤの招き、「主にあってよろこべ」というパウロのことばは、こうしたギリギリの人間のもろさの中で、愛の神からさしのべてくる手を感じとることへの招きなのです。ほうっておけば完全に喜びは消えうせた世界に落ちてしまう私たちを、根底から支え、みたしてくれる神が、訪れてくることへの自覚を促すことばなのです。
  ただ、そうした神の訪れが喜びとして受け取るためには、心の中に、神以外のどんなものも自分をみたし、支えてくれるものはないのだという、神への渇きを前提としているのです。自分の無力感、自分の弱さを十分知れば知るほど、それを支えるために近づいてくる神の姿が、私たちにとってより大きな喜びとなるのです。医者の存在を真実に喜べる者は病人であるように、神の訪れを心から喜べるものは、自分の貧しさ、無力を知る人です。(森)


私たちはどういうキリストを待っているのでしょうか? どういうキリストを期待しているのでしょうか?
 福音書5節、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 ここを読むと、前半は分かります。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」。だとするとそれに続くところは、「貧しい人はお金持ちになっている」と続いてよさそうなものです。だとしたら、世の中の多くの人は、もっとイエスさまのところに殺到することでしょう。しかしそこは、「貧しい人は福音を告げ知らされている」となっている。たとえば、そんなことにつまづく人もいることでしょう。「なんだ、イエスさまは私をお金持ちにしてくれないのか」という具合です。
 人間が期待するキリストの姿と、実際のイエスさまとが違う。私たちが期待するイエスさまと、実際のイエスさまが違う。‥‥それで、クリスマスはちょっとした馬鹿騒ぎにしか「見えない人々がたくさんいるのです。 ある人は、イエスに革命家であることを期待します。この世を変革して、問題を取り除いて良い世の中にするイエスを期待します。またある人は、慈善事業家であるイエスを期待します。またある人は、単なる奇跡的な医者としてのイエスを期待したり、便利屋のようなイエスさまを期待します。しかしそのような人は、結局みなつまずくのです。そして去っていくのです。 クリスマスの意味もありがたさもわからない。
 
 主イエスは言われます、「私につまずかない人はさいわいである」。 しかし私たちはつまずきやすい者です。キリストにつまずかないことは何か、今年のクリスマスはせめてそれを悟れるように祈りたいと思います。
テレビのグルメ番組を見ていると、おいしい料理を食べているテレビタレントが、「うまい」を連発し、それがどううまいかを解説する。見ている私たちは、いくらそのうまさを解説されても、意味がありません。実際にそれを食べてみなければ。
キリストがもたらした「神の国」のおいしさは同じだと思います。






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