Wednesday, November 13, 2013

4 Advent B

待降節第4主日B【ルカ1:26ー38】


クリスマスを前にした最後の日曜日の典礼には、マリアが登場します。マリアを通して、御降誕の神秘をとらえてみましょう。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と天使ガブリエルから聞いたとき、マリアは「戸惑った」(胸騒ぎがした)とあります。恵まれたのに戸惑ったとはちょっと不思議に思われます。なぜ不安を感じたり、戸惑うのでしょうか。それは神が私たちの世界に入り込んできたからです。私達はサンタクロースを迎えるように、ストレートに神を向かえることはできないでしょう。言い換えますと、神の恵みは、今までに自分の生活をつづけながら受けることはできない。新しい王様が生まれることは古い王様が追放されるということになるからです。
私たちも自分の王座に座っています。だから新しい王を迎えるとか、新しく恵みを神からいただくときには、いままで王としてあがめていたものを追放しなければならない。そこに不安や戸惑いの原因があるでしょう。新しく来た世界に対して、新しい備えをすることが、悔い改めのようなものです。神からの働きかけにこたえ新しいもの、新しい世界を心から受け入れていかねばならない。
ところが、神が私たち人間の世界に働きかけたというのは、驚くべきことです。私たちは神に使え、神に捧げ物をしたり、香をたいて神をなだめるようなことをするのは宗教であると思いがちです。しかし、ここでは神がザカリヤに使いを送ってこられた。神のために人間が何かしてあげると思っていたのに、神の方から近づいてこられた。聖書は私たちに訴えている出来事とはそれなんです。そこに他の宗教とキリスト教の違いがあります。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのが、キリスト教なんです。


私たちには、いつも恐れというものがあります。将来への不安、生活の不安、首になる恐れ、会社が倒産する心配、銀行が金融機関がだめになる恐れ、不景気、失敗する恐れ、年をとっていくことへの不安、老後の心配、死への不安。
 この恐れ、不安というものに、マリアもヨセフもけっして無縁ではなかった。そのことにほっとする思いもします。
 今日の福音の箇所から、マリア様でさえも、天使の突然のお告げの意味を何のことかと考え込み、「恐れることはない」と忠告されたことが記されています。ヨセフにも同じような恐れに苦しみました。未来を共にしようと決め、信頼していたマリアにすっかり裏切られたと思い、ひそかに別れを決心したのです。ヨセフも同じように天使から「妻マリアを家に迎え入れるのを恐れるな」(マタ1:20)と忠告されました。
 マリアもヨセフも初めは人間的に、普通に恐れ、思い悩んでばかりいた。しかしこの二人も、やがて、少しずつ、神様に信頼して生きることを学んでいくのです。
 ヨセフは、赤ちゃんのイエスをかかえているにもかかわらず、エジプトに逃れるという夢を見るや、まったく知らぬエジプトへすぐに旅立ちました。しかし一方マリアは、イエス様が勝手に神殿に留まっていたときには、「どうしてこんなことをしましたか。お父様も私も心配して、あなたを探していたのです」と驚き、戸惑い、とがめています。マリアもヨセフもこのように、恐れつつ、信頼しつつ、少しずつ成長し、そして最後には、イエスが十字架につくことこそ神のみ旨と受け入れ、神様に自分の子をいけにえとして、捧げたのでした。

 神様に信頼するということは、自分の計らい、計画を捨てることでもあります。しかしこれがなかなかできません。その代わりに、金、学歴、健康保険、生命披見、そして外国であれば拳銃でも買っておく、国レベルともなれば武力を備える。そのようにいろいろなもので身を固めようとします。しかしそのようなことをしても、私たちにできることはわずかです。
 神様により頼むときも、もしかしたら同じように、自分の計画、自分の理想ばかりお願いし、求めているかもしれません。仕事がうまくいきますように。健康でありますように。合格できますように。--もちろん願うことは祈りの一つです。しかしそれだけではおかしくなることもあるのです。自分の願いがかなうときだけ、神様を信じ、そうでないと神様から見放されたと恐れ、失望し、神様を見捨て、呪う。そのようなこともありうるからです。祈りには神様への賛美、感謝もなければおかしなものとなってしまいます。

 あるねずみは、いつも猫を恐れてびくびくして生活していました。そこで神様にお祈りしまして猫にしてもらいました。これで安心と思いきや、今度は犬にいつもほえられるようになりました。そこで虎にしてもらいました。これで一安心と思いましたが、そうしたところ今度はハンターに狙われるようになりました。そこでやっぱり神様に頼んでねずみに戻してもらいました。
 この話は何を言っているのでしょう。
 私たちはいつも金・地位を得ることによって、力を身につけ、大きくなっていくことによって安心を得ようとします。しかしそのようにしてもきりがない。むしろより大きな敵に狙われやすくなるのです。私たちにとって最大の武器は、そのようなことよりむしろ、小さいままであったとしても、神さまにしっかり信頼していく。そのことの大切さなのではないでしょうか。
 いつも主の僕であることを忘れずに、今のありのままの弱い自分であっても、それでもすべてを完全に支配している神様、私をそのようなものとしてここに置いてくださっている神様をすっかり最後まで信頼すること。そして恐れずに今の場を受け止め、そこでしっかり立って歩んでいく。そのことが大事です。
 人生にはいろんな荒波が襲います。不景気が出てきます。時には「もうだめ」、あるいは「どうして」と思うことがあるでしょう。しかしマリアやヨセフが、そしてイエスさま自身が最後には、神様に委ね、自分を明け渡した。そのことを思い起こし、また神様のみ前にしっかり立ちなおして歩んでいきましょう。神様にはできないことは何一つないのですから。

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