Sunday, April 20, 2014

3 easter A

復活節第3主日 A  百合学院オラトリオにて 2008・4・6
ルカ24:13-35

二人の弟子たちは、現実の厳しさにつまずいて希望を失ってしまいました。私たちも時々、同じような体験をすることはないでしょうか。二人の弟子たちは、確かにイエスという方に大きな希望をかけていました。けれどもイエスは殺されて、十字架は、彼らにとって希望の終わりになったのです。だからこそ、普通の旅人として自分たちの横に現れた人を、イエスだと認めることができなかったのです。
この二人の弟子たちは、希望を失った人が歩む逃避(幻滅)の道を歩いていました。それは、同時に、私たちの道でもあるかもしれません。責任を逃れようとしたり、人生への疑いに悩んだり、弱い希望しか持たず、神のたてられた計画に納得できず、傷ついた、そしてある意味で高慢な私たちが通る道です。しかし、人生は、私たちがどうしても歩まなければならない命への道なのです。
「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」とあります。つまり復活ということは、われわれが人間の力で、人間的な知性とか理性とかをどんなに積み重ねても見ることはできないことで、復活ということは、自分の力で信じることができることではなく、神から信じさせてもらって始めて、われわれは主イエスの復活を受け入れ、信じることができるようになるということです。
 
 不思議なことに、この時イエスはなぜご自分が復活したのだということを彼らにただちに分からせようしなかったのか、イエスのほうから積極的に示そうとしなかったのか。ここをみますと、イエスは彼らが宿に入ろうとすると、イエスは彼らと離れて先に進もうとしているのですから、イエスは最後までご自分のことを明らかにしようとはしなかったということです。
 更に不思議なことは、彼らがそれがイエスだとわかったとたんに、イエスの姿は見えなくなったというのです。なぜイエスはこの時もっと親しく彼らと交わり、ご自分が復活の主イエスなのだと彼らに示そうとなさらなかったのか。
 
 どうして復活の主イエスは、この時、もっと単純にというか、端的にこのふたりの弟子達に「わたしはよみがえったのだ」と告げようししなかったのかということなのです。これはわれわれがイエスの復活という事実を受け入れ、それを信じるようになるためには、大事なことをわれわれに示そうとされていることなのではないかと思うのです。
つまりイエスはご自分がよみがえったということを、単なる一大奇跡のように弟子達に示そうとはしなかったということです。
 よく新興宗教の教祖が人々を驚かすようにして、空中に漂うというようなことをしてみせるとか、手品のような奇跡をしてみせるとかをいたしますが、イエスは、そんなことをして、自分が救い主であることを示そうとはしなかった。復活という奇跡はそんなふうにして人を驚かすような奇跡として受け取られたくなかったということです。

 イエスの復活を信じるということは、それだけを突出して、お前はイエスの復活を信じるか、と問うても何の意味もなさいないということなのです。そのようにして死人のよみがえりという奇跡を信じるかどうか、それを信じられないならば、お前の信仰はだめだ、偽物だというようなことではないということなのです。イエスの復活を信じるためには、それを正しく信じるためには、それがわれわれ人間が必要としている復活として信じるためには、聖書からずっと預言されていることを学び、特にキリストについて預言されていることを通して学び、そうしたうえで、神の子の十字架の死とその復活と言うことを理解し、信じるのでなければ、復活という奇跡を信じたことにはならないということなのです。
 聖書全体と切り離して、ただ死人のよみがえりがあったとかなかったとかいっても、どこかの教祖様が空中遊泳したということと同じことになってしまうということです。
 イエスはあのふたりの弟子に、ご自分が復活の主イエスだとは明らかにしようとはしなかったのです。聖書の話をなさった。特に聖書のなかでご自身について記している所を心をこめて説き明かされた。そのようにして、もう彼らから離れてもきっとあとで自分が復活の主イエスだったと思いつくに違いにないと確信していたと思います。だから、主イエスはいわば安心して彼らを宿に残し、自分は離れて先に進もうとしたのではないかと思います。
 しかし彼らは強いてイエスを引き留めた。彼らはもうその時には、この人はただの人ではないと思い始めていたのだろうと思います。それで無理に引き留めたのだろうと思います。
 そして一緒に食事をした。イエスがパンをさいて彼らに与えた。その時に彼らの目が開いたので、それがイエスだとわかったのです。 
 
 イエスの十字架の話は受け入れる(分かる)ことはできても、復活ということは信じられないとよくいいます。あるいは、一度は信じたつもりでも、またわからなくなるということもあると思います。 それは復活ということだけを切り離して信じようとしたりするからで、信じられないと思うからではないか。復活を信じるということは、聖書全体から信じようとしない限り信じられないということです。
 
イエスから直説に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのです。この感激の仕方というのも面白いと思います。
 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。
 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。
 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。
 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのです。
 
 

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