復活節第4主日 A 伊丹教会 2008
ヨハネ10:1-10
イエス様は自分を羊飼いに、そして人間を羊にたとえます。
昔英語を習ったとき、羊はsheepと言って、単数でも複数も同じだということを学んだことがあると思います。群れという漢字も羊という字から成り立っています。羊はそれほど群れを成したがる、個性のないと思われる動物です。実際、羊の群れの中から一匹一匹を見分けるのは難しいことでしょう。ところがイエス様のたとえ方では、その一匹一匹を区別し、個性を大事にし、名をつけて、これは「メー子ちゃん」、これは「メリーさん」と、特別に大切なものとして扱うというのです。
私たちにはもっと分かりやすい例え方をすると、例えば入園したばかりの幼稚園児の集合写真をとるというのがあります。これは大変なことだそうです。ある子が落ち着けば、あの子が泣き出す。また別の子が走り回る。というわけでなかなかうまくいきません。長い時間をかければ、いっそう子供は飽きてしまいます。大変です。それでもそんな中、短い時間の中で全員がいい一枚の写真に収まるように、プロの写真家はおもちゃで気を引かせるなどして、一人ひとりすべてをベストショットを収め、集合写真を撮りあげます。イエス様はこのように集団の中でもしっかり一人ひとりを大切にする、そんなプロの写真家であるという例えです。
ザアカイのことを思い出します。ザアカイは、背が低く、徴税人として、人に軽蔑されるばかりでした。そのザアカイがイエス様を見ようと思って、木に登っていたとき、イエス様から突然、声をかけられました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まります」と。ザアカイは、このイエス様の呼びかけに答え、さっそく、イエス様に聞き従って行きました。せちがらい(世知辛い=打算的)この世の中で、自分のことを気にかけてくれる人がいる。驚きだったでしょう。そして喜びだったでしょう。その喜びは、その人が孤独であればあるだけ、強いでしょう。人間の孤独につけこんで、だまそうとする人がいると言うのも、現実です。話し相手のいない家に入り込んで、いろいろ話をしてくれる。それですっかり信じきって、自分の財産までまかせるケースがあります。しかしそれでもその孤独だった人は、たとえだますためであれ、話してくれる人が自分のために、費やしてくれた時間の方を大切に思うことがあります。それほど群れの中に埋没すること、自分を発見してもらえない、大事にしてもらえないというのは、人間にとって悲しいことなのでしょう。
イエス様は言います。「私は同じ顔に見える羊一匹一匹を見分ける羊飼いだ。私は集合写真の中でも一人ひとりをしっかり写す写真家だ。盗人は、盗み、屠(ほふ)り、滅ぼすために来るが、私は、魂の牧者、飼い主として、命を与えるため、それも豊かに与えるために来たのだ」と。
実際、イエス様のそのような一人ひとりを大切にする思いが、イエス様自身の利己的な利益のためではなく、本当に命を、すべての人に命を与えるためだというのは、イエス様に本当に聞き従い、行動した人たちの実りから分かるのです。
こういうふにイエス様がおっしゃっていることがすべて事実だと分かっている私たちは、それでも別の声を聴きたくなる弱さを持っています。イエス様の跡をついていくのに飽きて、わざとイエス様の見ていない隙間を狙って、別の道に行こうとするときがあります。しかしまた私たちは知っています。イエス様は、そんな道に迷いだした私を一所懸命、自ら探し回ってくれる羊飼いなのだ、決して迷ったままにしておかないという約束をして下さっています。こんな大変ありがたい、嬉しいことはほかにあるでしょうか。 Moseos
羊飼いと羊が声によって結び合わされているのです。羊飼いの声を信頼する羊。羊は目は近眼(きんがん、近くの物ははっきり見えない)であり、その反面音には大変敏感なのだそうです。羊飼いも自分のヒツジたちには一匹一匹名前を付けて呼びながら羊をまとめてゆくのだそうです。
復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。
私たちは、今ここに生きています。自分から望んで生まれてきた者はいないでしょう。それは、今この時代に、この私がここに生きる事を神がお望みになったからです。私は、神の永遠のご計画のうちに生きています。羊飼いは羊の名を知り、それぞれの個性を把握し、その羊にとっての最良の道を理解しています。
さらに神は私たち一人ひとりの想い、わずらい、強さも弱さも、通るべき道も全てご存知です。み手の中で平安のうちに憩い、たとえ暗闇の中にあっても、主への光を見失わないように希望と勇気を与えてくださいます。神の大きな愛に包まれている私は、主の呼びかけを聴きたいと願います。
しかし多くの物質に囲まれ、豊富な情報が、多様な価値観が渦を巻いています。目先の利益に流されそうです。本当に大切なもの、本当に守るべきもの、伝えていかなければならないものを見分けたいものです。毎日の出来事の中に込められた温かい神の配慮、それは必ずしも私にとって都合の良いことばかりではないでしょう。むしろ悲しみや苦しみ、多くの困難を伴うものかもしれません。神のご計画は計り知れません。喜びのときも悲しみのときも、神の愛を信じましょう。羊飼いの声を聞き分け、永遠の命をいただきたいと思います。
主よ、あなたの声を聞き分けられる良い耳をください。出来事にこめられた深い配慮に気づき、あなたと喜びを共にすることができますよう御導きください。sese07
私たちは人生の中で羊飼いの声を聴いた体験を持っています。だからこそ、私たちはここにまで導かれてきているのだと思います。それは直接イエスさまの声を聴くという体験かもしれませんし、聖書を通して聴くということかもしれませんし、間接的に神父や宣教師や先輩の信仰者を通してイエスさまの声が届けられるということかもしれません。いずれにせよ、私たちは羊飼いの声によって導かれてきたのですし、これからも導かれてゆくのです。神父となるためにも召命感というものが問われてゆきますが、それは主の召し出しの声をどこに聞くかということなのです。
イエス様の言葉はこの世を作られた神様の言葉と同一だからです。裏切った弟子たちが、またイエスの群れに戻り、イエス様の言葉を伝えていった。そのように、わたしたちもこの絶対的な言葉に戻り、賭けていきたいと思います。神の子が確約した言葉だからこそ、私たちはこの言葉に戻るしかないのです。
私たちに向こう側から「おおい、きみ」と呼びかけてくださるお方がいる。耳を澄ませば、そのお方の声が聞えてきます。私たちは本日、ミサ聖祭に与ります。「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちに呼びかけてくださるこの羊飼いの声に信頼し、このお方にすべてを委ねて、今日もご一緒にこの恵みの食卓に与りましょう。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/123.htm
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