復活節6主日A
【ヨハ14:15-21 聖霊を与える約束】
今日の箇所、要するに、神様はいつもこの私と共にいてくださるということです。
最後の晩餐の席で、イエスは、聖霊を弟子たちには約束しますが、世に対しては、はっきりと否定的な表現をします。「この世は、そのかたを見ようとも知ろうともしないので、受けることができない」。聖霊を約束された弟子たちと拒絶されるこの世。弟子たちとこの世、どこがちがうのでしょうか。弟子たちに何があったから彼らは聖霊を受けることができたのでしょうか。あるいは逆に、この世には何が欠けていたから、聖霊を受けることができなかったのでしょうか。
それをみきわめることは、とても重要なことです。なぜかといいますと。弟子たちは、この聖霊を受けることによって、新しい活動を始め、教会をつくり、育てていくことができたからです。もし、この聖霊が与えられなければ、教会は誕生することができなかったともいえるのです。聖霊は、教会の原動力であり、魂ともいえるのですから、聖霊を受けられる、受けられないということは、教会の死活問題ともいえるのです。
したがって、聖霊を受けるための心がまえを確かめ、それを学び取ることは、教会を育てていかなければならない私たちにとっても、重大な課題です。
さて、それではこの世と比べて、弟子たちが聖霊を受けられたのは、彼らが聖人であり、完全な人だったからでしょうか。
そうではなかったはずです。最後の晩餐の時点では、弟子たちはじつに弱い弱い、ごく平凡な人々でありました。
誰が一番偉いかと議論しあうほど、俗っぽい人であり、イエスの神秘をほとんど理解していません。また、ユダの手引きによってイエスは捕らえられたときは、イエスを捨てて、逃げ去ってしまう人々です。「あんたもあの人の仲間だろう」と問われれば、誓ってまで自分の師との関係を否定します。弟子たちは、互いに競争心が強く、俗っぽく、卑怯で、自分勝手な人でした。おせじにもりっぱな人とはいえません。(現代、教会に通っている平均な人に似ているのでしょうか)。
彼らの隠れていた弱さや醜さを徹底的にあばきだしたのが、十字架の出来事でした。十字架は弟子たちに、そのやみと弱さをつきつけたのです。弱さとやみがあるということに関するかぎり、弟子たちとこの世の間には大した違いがありません。
イエスご自身も弟子たちの弱さ、醜さには驚かれなかったはずです。弟子たちが気がつく以上に、イエスは弟子たちのやみを知り、その悲しい姿を知っていたはずです。それを知るがゆえに、イエスは、人間を救おうと手をさしのべ、自ら十字架につけられた方です。そのためにこの世に来たと言います。
イエスにふれ、イエスと一つになるためには、人間の弱さは妨げにならないのです。罪があるということも、イエスと私たちとの間の壁にはならないのです。やみがあるところに、明るさを伝えていくのが光の特質だからです。
イエスと私たちとの間に壁をつくるものがあるとすれば、それは、ごうまんな心でしょう。ごうまんとは、弱さがあるのにそれに気がつかず、やみの中にいるのに光の中にあると思う錯覚の心です。罪をおかしているのにそれを正当化し、ゆるしと救いを求めなければならないのに、その自覚のない心です。この世と弟子たちを区別する心とは、まさに、ここにあるのではないでしょうか。
弟子たちは、自分の弱さと罪の現実を、十字架を通してみつめてしまったのです。そして自分の底なしのやみのなかで、ゆるしを求め、救いを求めて涙を流すのです。救いに飢え渇き祈る心を学んだのです。やみの中で光に向かってひらかれた、謙虚な心があったのです。
光に向かってひらかれた謙虚な心に、聖霊が惜しみなくそそがれていくのです。謙虚に、飢え渇き祈る心のすみずみにまで聖霊は浸透し、あたため、照らし、強め、導いていくのです。謙虚な祈りのあるところには聖霊による生命があふれ、おごりのあるところには生命が枯渇(こかつ)していくのです。(森)
私たちはいつも今という時間の中で生きています。だから、いつも今の問題がとてつもなく大きな問題として振りかかってきます。そしていつも、とてもこんな大きな問題、立ち向かっていけないと弱音(よわね)を吐きます。そして神さまに不満を言います。どうしてこんな目にあわせるんですか。私はとてもこんな中やっていけない……。
しかし私たちはまた知っています。10年前、あれほどまでに悩んだことが、今はもう何ともない。何とでもなっている。あの時、あれほどまで悩んだことはなんだったのだろうか。
そうなのです。いろいろ降りかかってくる今のとてつもない大きな問題。しかししょせんすべては小さなことなのです。とりわけ永遠という時間、永遠の命、神様のもとでは、です。私たちには、いつも共にいてくださる神様がいます。思い悩みはすべて神様のもとに放り投げてみましょう(Iペト5:7思い悩みは神に委ねよ)。そして幸せ探しをしてみましょう。不幸の中から幸福を探すことをしてみましょう。
まだたった4歳の子どもがいました。彼は手話を使ってじょうずに話すことができます。身障者でした。手術をしました。しかし失敗して、一層手足が動けなくなってしまいました。しかし手話で「神様ありがとう、僕には目、口、耳があるから」と示したのです。ないものでなく、あるものを考える心がこんな小さな子どもにもあるのです。
またある方の一人息子が、白血病で亡くなったとき、お母さんに、「僕、感謝することがこんなにたくさんあるよ」。「お父さんお母さんとブランコ遊びしたね。お誕生会をしてお友だちがたくさん来たよ。ディズニーランドにも行ったね……」。こうして感謝することがなんと60にもなり、「疲れたから僕寝るよ」。そう言って亡くなっていきました。この子どもの残した言葉は、残された両親にとって、最大の報いとなり、今もこころに残り続けているのです。
ある信者の奥さんが不知の病のためいよいよ死を迎えるとき、そのだんなさんが言いました。自分も洗礼を受ける。それは奥さんが本当に望んでいたことでした。それを聞いたとき奥さんは、「私が死ぬのにも意味があった。永遠、永遠」と繰り返し言いながら、天に帰っていきました。
まったく逆にあるご婦人は、46歳で乳がんで亡くなりました。口癖のように二人の娘たちに、何度も何度も「私が死んでパパが再婚したら、継母(けいぼ)にうんと意地悪するのよ」と言ったそうです。愛の表現ではあったとしても、いったいこの娘たちは、どんな印象をもって、母を見送ったのか心配になります。
自分の側ばかり見ているときには、不幸しか見つかりません。しかし神様を信頼し、神様の目から見たときに、自分に与えられているものを見ることが出来るようになります。心を上に向けましょう。たとえ八方ふさがりにみえても、上には、神には、道が開けているのです。神様は決して見捨てられません。神様は今私に、人が価値を認めず、自分自身が意気消沈(しょうじん)しているまさにそのような時にこそ、この私に価値を認め、引き上げようとしてくださっているのです。私たちがその神様の声を、拒みさえしなければ。
私たちには確かにたくさんの不幸があります。そして神様は、その苦しみを理解されない方ではありません。イエス自身が、どうして私を見捨てられるのかと叫ぶほどの苦しみを負ったのです。親友ラザロの死を前に、蘇らせると分かっていながらも、はらわたが煮えくり返る苦しみを味わい、思わず涙したイエス様が、共にいます。それほどの苦しみを知っているイエス様・神様が、どうしてこの私の、人間の、悲しみを理解しないでしょうか。
「どうせ私の気持ちなど分かるわけない。誰も分かってくれない」。時々そう人間はぼやきます。でも、そうやって人の助けを拒んでいるから、人は助けられないのです。あなたが心を開けば、小さな助けの声を聞きだすことができます。不幸探しはやめ、幸福探しの旅を始めてみましょう。たとえ今がどんなに苦しくても、神様がいつも必ずついていてくださるのですから。
信じる者たちよ。なぜあなたは喜ぶ代わりに、悲しむのか。 なぜ暗い予想に従うのか。
誰があなたに、あなたの不満の冬が、雪とひょう、さらに深い雪、さらに重い失望の嵐に進展すると教えたか。
あなたは知らないか。夜は昼に、冬は春と夏に変わることを。
だからいつも希望を持ちなさい。神は決してあなたを捨てない。Moseos
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