Friday, June 27, 2014

26 per annum A

年間26主日 Α
【マタ21:28-32「二人の息子」のたとえ】

父から兄弟は命じられます。ぶどう園に行って働きなさい。
 兄は、いやだと言う気持ちを正直に表し、初め断ります。しかし父の言うことと思い直し
、働くことにしました。
 一方弟は口では簡単に「はい」と引き受けました。しかし誘惑が襲って怠けの気持ちが勝
ったのでしょうか。結局は働きに行きませんでした。父に喜ばれるのはどちらか--思い直
して働いた兄のほう。
 「不言(げん)実行」と言う言葉があります。黙って実行すること。兄に当てはまります。
それに対し弟は、有言不実行の人。言うだけ言って、実際には何もしない人。「口先だけで
なく、実際に行うことが大事」。あるいは信仰をしっかり持つなら、それに伴って行いもな
ければいけない。これが理解の一つです。しかしもう一歩深めましょう。
 ここで主人はもちろん神様です。ぶどう園はイスラエルに代表される神の民が作る国。
 兄は徴税人や娼婦。初め神様に従っていなかったのですが、思い直し、最後に神に従った
人。
 では弟は……。「あなたたち」つまり聞き手。聖書の流れでは「大祭司や民の長老(マタ
21:23)」です。神様に「はい」と従って歩んでいるつもりでした。ところがいつの間にか
、神様から離れていた。
 なぜ兄である徴税人や娼婦の方が、弟である大祭司や長老より先に神の国に入ることを約
束されたのでしょう。「洗者ヨハネを信じて、悔い改めた」からです。時が満ち、救い主が
この世に来た、神の国が近づいたその大切なときに、回心できた。自分の罪を認め、心を神
に向け、神様に従うことを選んだからです。
 しかし大祭司や長老は、洗礼者ヨハネが指し示したメシア・イエス様を信じませんでした
。肝心なキリスト到来のとき、神様の方に心を向け、歩むことができませんでした。
 なぜ。今の地位や名声、プライドのためです。宗教の権威者で身分の高い自分たちを認め
ず、かえって偽善者と批判し、律法に対してもより自由に振舞う。そのイエス様への激しい
恨みのためです。自分たちこそが正しいという思いのため、自分の罪を認めませんでした。
メシアを待ち望んでいるはずなのに、実は、メシアは要らなかったのです。必要だったのは
自分たちの地位と名誉でした。こうして神の国の到来のしるしであるイエス様の奇跡も、エ
ルサレム近くでの徹底的な奇跡であるラザロの死からのよみがえりも、ただの悪魔のわざと
批判しました。そして救い主イエスを、国への反逆者(内心は自分たちへの反逆者)として
、殺してしまったのです。
 愚かな大祭司や長老。しかしここで言われる「あなたがた」はもちろん、祭司・長老のこ
とだけではありません。この私も含めたここに集う「私たち一人ひとり」に語られた言葉で
す。
 自分は兄だろうか、弟だろうか。今神の子として、神の国にふさわしい生活ができている
だろうか。神様に従うものか、それとも離れ去ってしまうものか。誰もこの神様からの問い
かけから逃げることができません。
◇人間はなかなか自分の罪や弱さ、快楽に負けそうな自分を認めることができません。本当
に罪を認めたなら、改めるしかないからです。今もっているものを手放し、失う恐れがあり
ます。今までの仲間を失い、人間関係も変わっていく。
 今までの慣れ親しんできた罪の生き方。楽な生き方を捨てて、新しく生きることは、知ら
ない恐ろしさもあります。昔を思い出し、懐かしむ気持ちがあり、あるいはそれを思い返し
たとき、失ったものの多さに、たまらない気持ちになることもあるでしょう。
 それで「これは罪ではない。これにはこういう正しさがある」「社会が悪い」「他にも同
じような人がたくさんいる」。そう言い訳し、ごまかし、回心の時を遅らせようとします。
 しかし徴税人の頭であったザアカイ、この福音を記した徴税人のマタイ、罪の女と言われ
たマグダラのマリアは回心しました。罪の中から起き上がり、イエスの立派な弟子に変わり
ました。
 もちろん回心は一生涯の話でもあります。最初従ったイエス様の弟子たちの多く。十字架
を前に最初「はい」と言ったのに「いいえ」と断わってしまいました。しかしその裏切りの
後でも、ペトロはまた回心し「はい」と答えました。しかし最期まで「いいえ」と言い続け
、イエスの救いのもとに入ることを自分から拒んで、自殺し、永遠の滅びにいたったユダも
います。
 私たちの回心に完成はありません。この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続
けられます。一度失敗し、新たに歩み直しても、昔はこうだったと後ろ指さされることもあ
るかもしれません。しかしペトロもパウロも、そんな失敗だらけの自分が神様に用いられた
ことを、かえって誇ったのでした。
 恐れることはありません。傍観者でいるのでなく、兄のようにすぐに回心し、行動を始め
ましょう。回心の機会を逃さないよう。もしかしたら今こそ、最後の審判の時、イエス様の
再臨の時かもしれないから。

2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの部分(この箇所の前半部分)だけを取
り出してみると、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大
切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるのではないでしょうか。しかし、
たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このた
とえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「
祭司長や民の長老」たちのことを表していて、行動の問題というよりも、「回心の呼びかけ
を受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体
とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だった
のではないかと考える人もいます。

徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々か
ら神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたよう
な人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべ
ての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあず
かることができる」ということでもあるからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)
とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪
深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言う
のです。

(5) 一方、当時の社会や宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんで
した。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。し
かし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを
自分たちに向けられたものとして真剣には受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自
分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生け
る神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。このたと
え話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由は
どこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親
とともに生きようとはしていなかったからだと言えるのかもしれません。

わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ると言えるのではないでしょう
か。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界
に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけなのではないでしょうか。


絵と福音の対応を考えてみたい。二人の息子が前に、父親は後ろにいる。父親を見て何が感
じられるだろう。他の絵で描かれるキリストの姿に似ていないだろうか。もちろん、父親で
あるから、父なる神のイメージを見てもよい。福音書では、ここで洗礼者ヨハネと、彼に対
する人々の相反する対応を思い出させているが(ルカ7・29-30参照)、洗礼者ヨハネも結局
は、神のみ旨を伝える預言者だったという点では、この絵の中の父親には、父なる神、ひい
ては父と一体である御子キリストを見るのが適切だろう。神の望みがこの「父親」にたとえ
られているのである。
 その神の望みに対する人々の異なる対応が、二人の息子の姿の対比によって示される。(
向かって)右側の息子は、何かほくそ笑んでいるようで、自分の右手を左手の上に置いてい
るところに、自分の力へを自信が示されている。「ぶどう園に行って働きなさい」という父
親の言葉に対して「いやです」と拒否した瞬間の兄の態度を意味していよう。左側の息子は
、父親をうやうやしく仰ぎ、右手を開いて、父親の意向を真正面から受けとめている。「お
父さん、承知しました」と答えた瞬間の弟の態度にあたるだろう。言葉による答えだけを見
るなら、兄は非難すべきもの、弟は称賛すべきものであった。しかし、問題はその後の展開
である。兄は「いやです」と答えながら、後で思い直して出かけた。弟は「承知しました」
と言いながら、実際には出かけなかった。実際の行為のほうを見ると、右側の息子が弟、す
なわち、表面では愛想のいい答えをしながら、心の中では思い上がっている態度、左側の息
子が兄の態度、すなわち「いやです」と一時は答えながらも深く考え、後で思い直して神の
望みに従うようになるという態度を示しているように見えてくる。どの時点での態度を見る
かで、兄と弟がすっかり入れ替わる。絵画表現のおもしろいところである。
 このように、「絵の中の、二人の息子はどちらがどちらを表していると思う?」と問いか
けながら福音を読んでいくと味わいも広がり、我々信仰者の心理に鋭く迫るイエスのメッセ
ージの深さに、しだいに気づかされるのではなかろうか。

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