Thursday, June 26, 2014

19 per annum A

年間19主日 A

【マタ14:22ー33 湖の上を歩く】

年間第19主日 A年
マタイ14・22-33

D.R.A. ヘア著、塚本恵訳、『マタイによる福音書』、現代聖書注解、日本キリスト教団出版局、2006年(再販)。

先週の物語と同様に、水の上を歩くことに関するこの物語も、現代の私たちにとっては、つまづきになりやすいのです。手品みたいなものに聞こえる。おそらく、2000年前にもこうした物語を信じない人は結構いたと思いますが、けれども自然法則というものは、超自然的なものが介入することによって留保(りゅうほ)することができると広く信じられていたのです。ユダヤ人でしたら、あの出エジプトの神なら、イエスに水の上を歩く力を十分に与えることができるということは、自明のことだったでしょう。昔の人々にとっては、「そんなことは可能だろうか」というよりも、「この場合、実際にそんなことが起こったのだろうか」というのが問題なんです。
この奇跡について合理的に説明する試みがなされてきています。例えば、ここで起こったことは錯覚のようなものだったと言われるのです。すなわち、実際には湖の浅いところで、波打ち際(なみうちぎわ)を歩いておられたのだが、夜という薄暗い光の中では、そのイエスの姿が、あたかも水の上を歩いているかのように見えた。ちうのです。なるほどこれは合理的な説明としては分かります。
けれども、(24節)では「舟は既に陸から何スタディオンか離れており」と記されてあって、福音書のテキストには合わないのです。その他にもいろいろな説明がなされていますが、ここでこの出来事の歴史性の問題をわきに置いておいて、その代わりに、この物語がマタイにとってどういう意味を持っているのか、という点に焦点を合わせてみたいと思います。
マタイにとって大事なことは、イエスが湖に現れた時、船が岸から遠く離れていて波に悩まされていた、という事実です。こうした細部が示唆しているのは、マタイにとって、イエスが海の上を歩かれたのは、単に力を「見せびらかす」ためではなく、おびえている弟子を助けるためだということです。イエスはメシアとして、神の民を牧すると共にその配慮をするようにと、神によって委託を受けかつ力を賦与されているお方なのです。
マタイ8章(13-17)で嵐を沈める物語がありますが、そこと同様にここでも、船は、誘惑や試練、および迫害に翻弄(ほんろう)されている教会(信じる人々の共同体)を表しているように思われます。両方の箇所でイエスは、信仰において彼を呼び求める人々を救うのに十分な力を持って、教会のために先頭に立つお方であるように思われます。従って、マタイが、「弟子たち」と書くことが予想されるような箇所(33節)、「船の中にいた人たち」と書いているのは、おそらくマタイは福音書の読者(私たち)をも含めたかったからでしょう。すなわち使徒たちだけというのではなくて、すべての信仰者たちが、危険にさらされた船の中にいるのであり、救い主に信頼をおいているのです。
ペトロのように、信仰者は信仰と不信仰(疑い)の中間に立ち往生しつつ、キリスト者であるということはどういう意味をを持つのか、ということを鮮やかに描き出しているのです。すなわちペトロは大単にイエスは救い主であると信じ、彼は自分たちを支えることができるという確信を持って第一歩を踏み出し、それから、彼らを飲み込もうと脅しをかけている、渦を巻く波に目を留めてしまって、その代わりにイエスに目を留めることを忘れてしまうような、すべての人々を代表しているのです。そしてすべて失われてしまったように思われる危機の深みの中にあって、彼らは、その力が弱さの中でこそ完全なものとされる(2コリ12・9)、救い主の名を呼び求めることを思い出し、彼らが必要とするに十分な恵を見出すのです。
それと同様に、ペトロは、信仰上の危険を冒す人々を代表しています。つまりキリスト者は、不確実な状態の中で、生きることを学ぶのです。たしかに信仰の知識は、科学の知識のように確実なものではないけれども、私たちが見たりさわったりすることができること以上に、究極的な重要性を持つ現実について、語っているのです。イエスの救済の力を信じるということは、危険を冒すということなのです。
31節で使われることば、「信仰の薄い者よ」oligopistosというのは、マタイでは、いつも信仰者に関連して用いられていて、決して不信仰者に関連して使われていない。すなわち、その意味することは、信仰はあるけれども、自分の信仰を頼りにすることのできないような人々を叱咤激励(しったげきれい)することなです。ヨハネ福音書では信仰ということばいつも動詞であって、決して名詞では出てこない。つまり、信仰とは、所有することではなくて行動なでです。それは、私たちが歌うのをやめてしまうと消えてしまう歌のようなものであると。したがって信仰の薄い人々は、その小さな信仰を働かせなければならないのであって、さもなければ、使われていない筋肉のように、枯れてしまうだろう、と警告を促すことなんです。

さて、「疑う」と訳されている言葉distazoは、新約聖書ではマタイだけに見出される。キリスト者の実生活では、疑いと信仰とが混在したものなのです。ただ恵によってのみ、疑いを二次的な状態に置くことができるのです。マルコ福音書のことばを借りていえば、「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9・14)というようなことはキリスト者の常です。
弟子たちもキリストのことを完全に理解するためには、十字架と復活を待たなければならなかったのです。面白いことに、マタイ福音書はそれを先取りの形でここで信仰告白を入れています。マタイには、後の時代の信仰がイエスの地上での宣教活動の中に予示されいるというのがひとつの特徴となっています。例えば、異邦人の占星術の学者たちが、異邦人に対する宣教が開始されるはるか以前に、イエスの誕生の時に彼を「拝む」のとちょうど同じように、「船の中にいた人たち」もまたイエスを礼拝するのです。「本当に、あなたは神の子です」というペトロの信仰告白もそういう形になっていると思います。マタイによる福音書全体もそうですが、ここでも「神の子」というのは、職務上の称号であって、イエスが、超自然的な力を賦与された、終わりの日の王であることを証し示すものです。

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