Monday, June 2, 2014

聖霊降臨の主日 A 野の百合会-gooブログ

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聖霊降臨の主日 A 野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)

あいさつ・招き

皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
 日のミサを捧げることといたしましょう。

インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
 しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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~ 神を餌食にして、権力を得るために使う instrumentum imperii 
~ 神を敵に回して殺す、神の子イエスのように
~ 神との正しい関係。仲良く付き合う関係
我々はほとんどそれに気づくことない、最も重要な事柄は人目につかない。最も重要な事柄が、空気や光、空間と時間の配置や我々が立っている地点、また我々の特定の出発点からゴールへの道(訳注:  方向感覚)が、生活の先験的な部分であり、それについて考えることなく、我々はそのうちに生活している。それらが、どれほど本質的であるか、それらを失うまで気がつかない。
  上記のキリスト教的生き方の原理はこれに似ている。ただ、桁違いに大きいものであり、より大きく聖性にかかわるものである。これが神ご自身が生きておられ、創造し、贖ってくださる原理であり、神の真理と愛が働く原理である。神が我々に勧めているのはこれである。
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人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
 教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。

 参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)
 

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