年間20主日 Α
【マタ15:21-28カナンの女の信仰】
イエスは、ガリラヤ地方から離れておられます。そして、今のレバノンの南部にあるツロとシドンの地方に行かれました。ガリラヤには、ユダヤ人が多くいましたが、ツロとシドンは異邦人が多くいる場所です。
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
この女はカナン人でした。私たちがこの前、創世記でカナンが最初に出てきた部分を読みました。ノアの息子ハムは、父ノアの裸を見たので、父は彼の息子であるカナンを呪いました。「のろわれよカナン、兄弟たちのしもべとなれ(11:25)」 このカナンの子孫がカナン人ですが、彼らは不品行と不法の行いで非常に汚れている人々でした。神はイスラエルの民に対して彼らを全滅するように命じられたほどです。したがって、カナン人は神にのろわれた、神から離れた代名詞のような人々だったのです。だから、彼女が神から何かを願う事は、非常に不利な立場にいたのです。ところが彼女は、「ダビデの子よ。」と叫びました。これはメシヤの称号です。彼女は、自分は神の祝福を受けるのに値しない者であることを認識しながらも、必死になってイエスにすがりついています。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。
イエスは、彼女を完全に無視されました。ものすごくひどいと思われるかもしれませんが、この後を読み進めますと、イエスが彼女を試されていたことがわかります。
そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。 弟子たちは本当に彼女が嫌だったのでしょう。自分中心になっています。 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
イエスは、ご自分の使命を告げられました。イエスは、イスラエルの民を罪から救うメシアとして来られました。だから異邦人はその救いには入りませんよ、と言われています。ここで、彼女はあきらめませんでした。次を見て下さい。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
先ほど、彼女は、イエスを「ダビデの子」と呼びましたが、今度は、「主よ。」と個人的な呼び名で呼んでいます。つまり彼女の心は、さらにイエスに接近しているのです。イエスが彼女に一言も言われなかったのはこのためでした。彼女の心がイエスに近づくためだったのです。ここで、物質的には彼女もパリサイ人も同じようにイエスのみもとに来ていることに注目してください。同じようにイエスのところに来たのです。が、彼女の心はイエスに限りなく近づき、パリサイ人の心はイエスに限りなく離れたのです。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
イエスは再び、ご自分がイスラエルのために来られたことを話されています。子供たちとは、イスラエルの民の事です。子どもは、父からの資産を受け継ぐ権利がありますが、イスラエルの民は、神の資産を受け継ぐ特権を持っていました。そして子犬とは、ペットのことです。子供たちのパンを父親が取り上げてペットに与えないように、キリストにある祝福を異邦人に与えるのはよくない、とイエスは言われています。
ところが、彼女の答えを読んでください。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
これはものすごい答えです。イエスは、次に、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」
と言われましたが、この発言から私たちは、多くのことを学ぶ事ができます。まず、彼女はイエスのたとえを理解していました。先ほどペテロが、イエスのたとえの意味を聞いて、イエスは、「あなたがたも、まだわからないのですか。」と言われましたが、彼女は的確にイエスのたとえを理解しています。次に女は、「主よそのとおりです。」と言って、自分が置かれている立場を理解していました。自分はカナン人であり、キリストにある祝福にあずかるような資格はない、ということです。ここで普通ならあきらめてしまいます。しかし、彼女はイエスについてさらに深いことを理解していました。それは主のあわれみと恵みです。自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。
私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。それか反対に、自分の立場や行いを神の前に持っていって、「私は、これだけのことをしているのだから、あなたの祝福を受ける資格があります。」と訴えます。「私はこれだけ、人に親切にしてきたし、特に悪い事もしてこなかった。でもなぜ主よ、私を祝福してくださらないのですか。」という感じですね。しかしこれもまた、主から祝福を受ける方法ではないのです。なぜなら、心が高ぶっているからです。私たちにとって難しい事は、自分が神の祝福を受ける立場にいないこと、神にのろわれて、さばきを受けるのが当然の存在であることを認めると同時に、それでも主の祝福を願う事です。
けれども、私たちは、キリストの十字架を見るときに、それをはっきりと知ります。キリストが受けたあのむごい死は、私たちの罪のむごさを現しています。私たちは麻原彰光のような悪人を見て、死刑に値すると思う人はたくさんいますが、神の御前には、私たちも死刑に値するむごたらしい悪人なのです。しかし十字架は同時に、神のとめどない祝福の入口であります。十字架のキリストにあって、あなたの罪はすべて赦された。あなたは雪のように白くされ、あなたは正しい者だ、汚れも傷もない、と神が宣言してくださいます。私たちが受けるのに値しないものを受けるのが「恵み」の定義ですが、この女は、イエス・キリストのあわれみと恵みを、的確に把握していました。その理解にもとづいて、彼女は大胆に恵みの御座に近づいたのです。
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
彼女の娘はその時から治りました。パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。
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きょうの表紙絵は、ローマのカタコンベの壁画「オランス」の作品例である(部分)。オランスは、初期の教会の人々の魂の象徴として描かれているものといわれ、カタコンベ(地下墓所)という場に描かれたことから、来世の幸福を願う死にゆく人々の魂を形象化したものともいわれるが、絵自体は、もっと普遍的な祈る人の姿としても鑑賞することができる。ローマ時代の比較的高貴な家柄の女性の姿を表現する作品であり、いわば「祈る異邦人の女」の姿として、きょうの福音朗読箇所と関連づけて鑑賞することができる。ローマは、まさに異邦人世界の象徴であり、新約聖書の範囲における使徒たちの宣教の一つの目標地点であった。そのような中でキリストの福音を信じていく諸国の人々の増加していく様子とその心をローマ芸術的な自然描写や女性の人物描写の雰囲気をそのまま残しながら描きとどめ、印象づけた作品ともいえる。
イエスに対して「主よ、憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という率直な祈りを差し向けていく異邦人世界の人々の姿をこの絵の背後に感じていたい。このことばが同時に、すべての人の主であるイエスに対する信仰告白でもあることはいうまでもない。願いが願いにとどまらずに何よりも信仰告白であり、しかも賛美をこめた信仰告白となっている。ミサの開祭で告げる「主よ、あわれみたまえ」とこのカナンの女の姿はまっすぐにつながっている。我々はカナンの女の後継者なのである。
もちろん神がお造りになられた一週間、六日働いて一日休み、主を礼拝することはとても良いことです。けれども、「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:6)」とパウロは勧めています。
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