Thursday, June 26, 2014

11 per annum A


  年間11主日 A
【マタ9:36-10:8
弟子を呼び寄せ派遣した】
 

 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

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 アメリカでの話です。ニューヨークのダウンタウンを、移民の人とネーティブアメリカンと二人で歩いていたそうです。人と車が込み合う都会の雑踏、騒音しか聞こえません。ところが突然、ネーティブ・アメリカンが「あれこおろぎが鳴いている」と言い出したそうです。

 もう一人は答えます。「こんなうるさいところでこおろぎなんて聞こえるわけないだろう」。しかしネーティブが「確かに声がきこえる」と言うのです。もう一人は「ばかげている」と一笑に付します。

 ところがネーティブ・アメリカンがはずれの歩道近くの、コンクリ・ブロックの隅からこおろぎを見つけ出したのです。一人はあきれて言います。「すごいね。超人的な耳!よくこんな小さな声が聞こえたね」。するとネーティブが答えたそうです。「僕の耳が君のと違うわけじゃない。ただ耳は何を聞こうとしているかで違うんだ」。

 一人は言います。「馬鹿なこと言ってんだよ。こんなところでこおろぎなんて聞こえるわけない」。ネーティブは言います。「本当のことだよ。何がその人にとって大事か。何を聞きたいのか。それによって聞こえてくるものが違うんだ」。

 そういうとネーティブはポケットから小銭を取り出し、歩道に投げました。するとコインが落ちた音がした瞬間、人ごみの人がほとんどコインのほうを振り向いたのです。ネーティブは言います。「分かったろう。君にとって何が大事か。それが何がきこえるかということなんだ」と。

 リストラの時代で、失業者があふれる時代でありながら、どの国を見ても、いまだ「収穫は多いが、働き手が少ない」状況が、このイエスの時代以来、相変わらず続いています。教会では、司祭、修道士、シスターなどたくさんの働き手が必要なのです。教会やさまざまな施設での働きを求めています。

 働き手が必要と神様は絶えず呼んでくださっているのに、多くの人は呼びかけを聞き取ることができません。耳が何を聞こうとしているかで、同じ耳でも聞けるものが違ってくるのです。金、名誉、清潔さ、自由、親の希望、セックス、家庭や子どもへの憧れ……。もちろんこれらがすべて騒音であるわけではありません。大切なものであることは確かです。しかしそれ以外にも、小さな声があるのです。永遠のいのち、犠牲、真の喜び、神さまの呼びかけ。そしてこの小さな大切な声を聞こえなくしている家庭の騒音と言うのもあるのではないでしょうか。

 もしも家庭からテレビやビデオの騒音を少しでも消し、成績や能力ばかりにとらわれたせわしさを少しでも抑えることができたなら。この世の価値観の囚われから解放されるなら。もしかしたらそのときに、小さな神様の呼びかけの声が聞こえてくるのかもしれません。最も大切な神の声を聞こえなくしない、そういう環境を整えることも大事です。

 マザーテレサは、汽車の中「貧しきものたちと共にあれ。貧しきもののために働け」という神の声を聞き、貧しい者への奉仕を決意しました。そして修道会を出て、本当に貧しい人のための修道会を作っていきました。このような小さな声を本当に神様の声として受け取ることのできる感受性。そして神様から与えられた自分の使命に進み出していく勇気。それをぜひ養っていきたいと思います。収穫は多いが,働き手は本当に少ないのですから。

 

マタイによる福音書・連続説教 68  

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「 収 穫 の 主 」 


 

  ●聖書 マタイによる福音書9章35~38

 

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」  

     「収穫は多い」のか?  

「収穫は多いが、働き手が少ない。」(37)と主イエスは言われました。この「収穫」というのは、このほかのイエスさまのいろいろな話から考えると、これは神の国に入る者が多い、という意味です。つまりイエス・キリストを信じて、神の国に入る者が多い、と主イエスはおっしゃるのです。これが主イエスの言葉です。そうすると、この言葉を聞いて、私たちは「果たしてそうだろうか???」と思うのではないでしょうか。「収穫は多いが、働き人が少ない。」‥‥主イエスキリストを信じる者が多い、神の国に入る者は多い‥‥本当にそうだろうか?

 むしろ私たちが思うのは、「収穫は少ない」ということのではないでしょうか。‥‥イエスさまを信じる者はそんなに多くない。むしろこの日本にあっては少ない。日本のキリスト教人口は、長い間たった1%未満にとどまっている。これは、戦国時代の16世紀にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に伝えて以来、あんまり変わっていない数字だと言われています。たしかに町ではどこでもクリスマスが祝われ、教会で結婚式を挙げてくれと、相談に来る人はたくさんいます。ミッション・スクールは多く建てられていますし、キリスト教に対する親近感は多くの人が持っています。しかし、それにもかかわらず、主イエス・キリストを信じる人は少ない。教会に来る人は少ない。それが現実です。するとなぜイエスさまは、「収穫は多い」とおっしゃったのか?私たちは不思議に思いっても無理のないことです。

 また、イエスさまの時だって、人々はなるほどイエスさまのまわりに集まってきたが、イエスさまがとらえられて十字架につけられた時にはみんないなくなってしまったではありませんか?と言いたくなります。

 けれども、主イエスは、私たちのそのようないろいろな疑問を越えて言われるのです。「収穫は多い」と。神の国に入る者、イエス・キリストを信じる者は多い、と。

 

     「収穫は多い」と宣言される主イエス

 

 そうすると、私たちはこのイエスさまのお言葉が、神さまの宣言のような言葉として聞こえてきます。つまり「収穫は多い」という言葉が、ぞろぞろと人々が神の国に入っていくのを端から見て、「ああ、収穫は多いのだなあ」というような感想をおっしゃったものではないのです。そうではなく、主イエス・キリストが「収穫は多い」とおっしゃった、その言葉によって収穫は多いのです。イエス・キリストを信じ、神の国に入る者が多いのです。それは例えば、天地創造のはじめに、神が「光あれ」とおっしゃった、その言葉によって光ができたのと同じです。福音書に出てくる、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」、というイエスさまの言葉によって、12年間も流血をわずらっている女性の病がいやされたのと同じです。またそのあと、ふたりの盲人が「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」と叫びながらイエスさまについてきた時、イエスさまが「あなた方の信じているとおりになるように」とおっしゃり、その言葉の通りその盲人の目が開かれたようにです。

 イエスさまがこのとき、「収穫は多い」と言われた。それは真実の言葉であったに違いありません。イエスさまがうそを言うはずがないのです。‥‥イエスさまは、一握りの人が救われるためにこの世に来られたのではないのです。例えば、日本の国家試験で最も難しいと言われる司法試験に受かるためには、一部の優秀だといわれる人が必死になって何年間も勉強しなければなりません。そういうものではないということです。

 またあるいは、今の社会の現状は、そのような神の国に入りたいと思う人が多いが入れてもらえない、というようなことかもしません。教会はサークルの一つのように思われているのかもしれません。‥‥書道の好きな人が「書道サークル」に入る。俳句の好きな人が「俳句のサークル」に入る。‥‥そういうものであると。だから教会も好きな人が行っているのだと。今の日本の問題は、むしろ誤解、無関心ということになるのです。

 しかし主イエスは、そういう現実でもやはり同じことをおっしゃるでしょう。「収穫は多い」と。イエスさまは、関心と興味のある人だけを天国に入れるためにこの世に来られたのではないからです。イエスさまが「収穫は多い」とおしゃったとき、イエスさまの生涯の働きが、多くの収穫のためのお働きであったと考えるべきです。‥‥イエスさまがこの地上で働かれ、そしてやがて十字架に向かわれたとき、それはただ一握りの人の救いのために十字架へ向かわれたのではなく、多くの人々のために向かわれたのです。‥‥イエスさまが十字架にかかり、血を流されて死なれたとき、それはただ一握りの人のためのものであったのではなく、多くのもののためであったのです。

 それゆえ、イエスさまはおっしゃるのです。「収穫は多い」と。だれがなんと言おうと、断固としておっしゃるのです。「収穫は多い」と!!

 多くの人がイエス・キリストを信じ、神の国に入るのです。少なくとも、神の国はそのように準備されているのです。そして父なる神と主イエス・キリストは、多くの収穫のために働いておられるのであるということを覚えたいのです。

 

     わたしがする、のではなく

 

 収穫が少ないから働き手も少ない」のではないか? と私たち考えるかもしれない。

 きょうのみことばを続けて読んで下さい。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 なんと書いてありましたか?‥‥「収穫の主に願いなさい」と書いてあります。収穫の主人公は私たちではありません。収穫の主は、天の父なる神さまだ、というのです。その神さまに、祈りなさい、願いなさい、と主イエスはおっしゃるのです。「人にはできないことも、神にはできる」のです。その神さまに目を向けなくてはなりません。すなわち私たちが第一にするべきことは、収穫の主に願う、祈るということです。

 

「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」‥‥新たな収穫のために人を起こして下さるのは主です。その主に願い、祈りを熱くするようにと主イエスはおっしゃったのです。

 祈る人となりましょう。私たちは現状を見て、あわてる必要もなく、将来を悲観する必要もありません。私たちは、責任を持ってくださる主イエスと共に言うことができます。「収穫は多い」と。あなたはそれを信じることができますか?まずわたしたちがこのイエスさまの御言葉を信じないで、世の中のだれが信じるのですか?

 主イエスと共にいるとき、そこには未来があるのです。
    

 私たちは覚えておきましょう。収穫は多いのだと。豊かに実るものが、収穫の主と共に歩むとき、あるのだと。私ではなく、主イエス・キリストが未来を開いて下さるのです。

 

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