Friday, June 27, 2014

29 per annum A

年間29主日 Α

【マタ22:15-22 皇帝への税金】


パリサイ人とへロデ党のものたちがいっしょになっています。パリサイ派とへロデ党はどちらもユダヤ教の宗派ですが、互いに激しく敵対し合っていました。というのは、パリサイ人は愛国主義者であり、ローマ帝国からのユダヤ人の独立を強く求めていました。ヘロデ党はその反対に、ローマ帝国こ忠誠を誓っていました。この相容れない2つのグループが、イエスを滅ぼす目的のために一つになっています。それほど、彼らのイエスヘの敵対心は激しくなっています。

 これを見て思うのですが、私たち人間はお互いに身分が違うとか、主義が違うとか、性格が違うとか、ほんのちょっとで違いがあれば、「あの人とは私と違う」と言って、人を蔑んだり、自惚れたりしています。場合によっては、それが戦争になったりもします。だけど、本当は同じ穴の狢 ムジナ なのではないでしょうか。こういうジョークを聞いたことがあります。「人間が戦争をやめて一つの地球国家になるためにはどうしたらいいのか。それには宇宙人が地球に攻めてくればいいんだ」 なかなか的を射たブッラク・ジョークだと思うのです。要するに、人間というのはどんなにお互いに違いを主張し合っても、結局は、みんな同じ穴の中に住む運命共同体なのだということなのです
「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。」
これは言葉遣いとしてはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅(おど)しです。
ユダヤ人は異邦人の国であるローマ帝国に税金を納めることをひどく嫌がっていました。もしイエスが、「律法にかなっている。」と答えれば、イエスはユダヤ人たちの反感を買います。今まで付いてきた群衆たちは、イエスから離れるでしよう。けれども、もし、「かなっていない。」と言ったら、今度はへロデ党の者たちがローマ帝国の役人のところに行き、イエスを帝国の反逆者として訴えることができるでしよう。この、税金を納めるという問題は、彼らの間でも論争していた点ですが、彼らはそのことを利用して、イエスを捕らえようとしているのです。
 イエスは見事に言い返されて、彼らを驚かせました。言い返しただけでなく、納税についての神の真理を明らかにされています。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すということは、言い換えると、世に対する責任は世に対して果たすが、自分は神を礼拝しなければならないということです。パリサイ人にもヘロデ党にもそれぞれ間違いがありました。パリサイ人は、世は悪と汚れに満ちているから、世に関わることはみな離れなければならないと考えたのです。確かに、世は悪魔の支配下にありますから、抵抗しなければならないことが多くあります。
 しかし、私たち一式それ以前に、世に対してキリストの愛を示すという責務があります。国の法律を守り、納税することによって、世に対してキリストの証しを立てているのです。しかし、へロデ党の者たちのように、国の命じるすべてのことにおいて従うこともまた問題です。私たちが従わなければならないのは神であり、国が神のみこころに反することを私たちに命じるのであれば、私たちはそれに抵抗しなければなりません。こうしたバランスのある信仰生活が、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、というイエスのみことばに現われています。
社会的な義務と神様への義務というと言葉が重くなりますが、私たちは神様の恵みの中で、そのどちらも無視しないで生きていく必要があります。しかも、これは同列ではなく、まず神様への感謝が先立ちます。この世の社会は移り行くものだ。
しかしこれは本題ではない。イエスはむしろ「神のものを神に返す」ことを要求する。
これは実に難しい。なぜか。
神はご自分の所有物に銘を刻んだり、肖像を貼り付けたりはしないからだ。
人間は貪欲で愚かだ。だから自分の所有物には名前を書く。自分の作品だといって印をつけたり、サインをしたり、偉そうに「ブランド」などといってエゴを押し付けたあげく、人はそれに服従する。
おかげでそれが人間のものであれば、どれがだれのものか、我々にはよくわかる。
しかし神はさらに愚かだ。自分のものなのに名前も付けず、印もつけないからすぐに忘れ去られてしまう。
だれも気付かない。名前が書いてないのだから神がそれを自分のものだと主張することすら不可能だ。
神はただ、人がそれを見出して自ら申し出るのを待つだけだ。「これはあなたに属するものです、私自身あなたに属しているのです、あなたが密かに刻んだ刻印をわたしは見出しました、世界のいたるところに、そして私自身に」、と。
外交官であった、杉原ちうねさんの話を聞いたことがあるかたもいらっしゃると思いますが、杉原さんは、かつて第二次世界大戦のとき、リトアニアの領事をしておられたのですが、杉原さんは、ナチスがユダヤ人を迫害し、強制収容所に送って虐殺していることを、知っていたわけであります。そして多くのユダヤ人が日本を経由してアメリカに渡ろうとしていたわけですが、彼はそんなユダヤ人を救おうと、本国日本に問い合わせる。しかし、当時日本はドイツと同盟関係を結ぶ方向にあり、ユダヤ人に対するビザの発行は禁止されてしまったのであります。
 しかし、杉原さんは独断でビザを発給して、6000人以上のユダヤ人を救ったのであります。そんな杉原さんは、戦後、謀反人として外務省を辞めされられたそうであります。
 国の権力や支配者の意思が絶対なら、まさに、国が神でありますならば、杉田さんのしたことは、謀反であって弁解の余地はないかもしれません。しかし杉田さんはクリスチャンとして、まさに、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す生き方を選択したのではないでしょうか。国民として生きる現実から逃避するのでなく、その現実の中で苦悩しつつ、しかし、神のものは神に返す生き方。神に与えられた人間らしい生き方を貫こうとした。神を愛し、人を愛し、仕えていきる、そういう人間らしい生き方。神に与えられた人生。神のものは神に返す生き方を杉田さんは貫いたのではないでしょうか。
 目の前の現実から逃げたり破壊しようとするのではなく、今与えられている秩序の中で生きていく大切さ。しかし、同時に、その現実の営みの中に埋没してしまい、流されて、知らず知らずのうちに人間性を失ってしまってはならない。現実の秩序の中にいきながら、しかし、ただ流されていくのではなく、その中で、神に造られた自分らしく、人間らしく、人間性を失わないように、神のものは神にお返しすることを忘れずに生きる。

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