Saturday, January 11, 2014

10 per annum A


年間10主日 A

 【マタ9:9-13 マタイを弟子にする】 


 

 今日読まれた第1朗読のホセアは、私生活と預言者としての生活が見事に合致している預言者です。

 というのも、ホセアは結婚していましたが、奥さんは、他の男性と関係を持ち続けます。こうして3人の子どもが生まれますが、誰の子どもか分かりません。そうした中で本当に苦しみます。しかし結局は妻と子どもを受け入れて生活します。

 これがそのまま、祖国イスラエルへの預言活動となっていきます。当時イスラエルは、イスラエルの神を忘れ、土地の神、豊穣の神様、バアル神への礼拝へと傾いていました。つまり大きく言えば国全体が、神を裏切り、他の神々に仕えるという姦淫の罪を犯していたわけです。

 そこでホセア(裏切りの妻を赦し、子どもを我が子として迎え入れたホセア)は、イスラエルの国に叫び続けるのです。他の神への偶像崇拝をやめ、イスラエルの神に立ち戻れと。

 つまり妻に裏切られ、子供が実子か疑われ苦しむホセアは、自分の体験から、民の裏切りに同じように苦しむ神を見て取ります。そして民に回心を呼びかけるのです。ホセアは、自らの苦しみをとおして、神の苦しみを知り、そして人々への回心を呼びかける預言者となって働くのです。

 

 イエス・キリストも同じようなところがあります。イエスは神の独り子ながら、まったく普通の人間になったのです。だから同じような人間としての弱さも限界も味わったのです。悪魔にも誘惑されました。飢えも乾きも感じました。神殿の腐敗には怒り、不幸な人を見れば腸が痛むほど苦しみ、友の死には泣きもしました。そして神から見捨てられる思いも味わいました。

 ヘブライ書には次のように記されています。

 「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(ヘブ2:17f)」。

 イエスは罪人ではありません。しかし罪の傾きを持つ弱い人間になったのです。だからこそ、まずもっとも人間としての弱さを持つ罪人のもとに行きます。病人のところに行きます。

 徴税人はユダヤ人にとっては、自分たちを占領するローマのために、ユダヤ人から税を取り立て、また私腹を肥やす人間として軽べつされていました。しかしイエスはわざわざこのような罪人、汚れた人間とみなされている人の中から弟子を選び出しました。このようなことをなぜわざわざなさったのか。人間には理解できないことです。しかしイエスがこのような方であるので、私たちはますますそのようなものであるべきなのです。

 「私に従いなさい」。罪人や病人を大切にしたイエスに従いなさい。今日の呼びかけは、罪人に話しかけられた言葉というよりも、まさに私たち自身に呼びかけた言葉として受け取るべきでしょう。

 

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 今日はイエス様がマタイを弟子にする場面が読まれました。私たちはある意味で、聖書に慣れっこになってしまっていて、しかしそのために驚きと言うものを感じられなくなっていることがあります。今日の箇所も、本当に自分自身の今の生活に当てはめてみれば、わからなさに満ちた箇所だと思います。

 公に知られている不正ばかりしてきた、その結果として金持ちとして知られている人を思い浮かべてみましょう。その人は、自分の国を裏切って、宗教も違う敵国のために働き、それで私腹を肥やしているのです。あらゆる点で、裏切り者としか思えないその悪人が、別に外面的に回心を表したわけでもなく、その同じ不正の仕事をしている、その場で、イエス様に呼びかけられたのです。それも共に食事をする。彼の仲間たちと一緒と言うわけです。

 私たちが2000年前そこにいた普通のイスラエル人だとしたならば、この憎き人に対するイエスの態度を見てどう反応したでしょう。大体私たちは、自分の狭い見方でしか人を判断しません。自分より恵まれ、地位が高く、金持ちと見える人に対しては、いつもどこかで妬み、嫉妬する心が潜んでいます。だからイエス様に対しても、「金のあるものには何だかんだと言っても妥協してしまうのだ」。そう思って、裏切られたと疑いを抱くかもしれません。

 しかしこう咎めた人々に対し、イエス様は言います。「医者を必要とするのは病人だ。私は正しい人でなく、罪人を招くために来た」。それはそうだけれど、しかしそれでイエスの行いに納得できる人は少ないと思います。

 それでもイエス様はこういうことを行ったのです。イエス様はすべての人間の救いを願います。実際マタイはその後、イエス様の使徒として活躍したのですから、マタイがこのイエス様の呼びかけに対して、誠実に答え、回心して、歩みをしたことは確かでしょう。そのように決して今の生活で満足していない、神様に答えようとする心がマタイにはあると知っていたからこそ、イエス様は呼びかけたのでしょう。

 神様の呼びかけと言うのは、このように時に人間の理解を超えることがあります。キリスト者を迫害していたパウロへの回心も、突然で、しかも強引なものでした。しかしパウロもそんな中から何が本当の神様の声かを聞き分け、逆にイエス様を命がけで伝える使徒に変わりました。パウロにも本当の神様に従うためなら、自分の地位を捨てても、そしてどんなに誤解される恐れがあっても、それでもかまわないと言う熱意があったからこそ、神様の介入も実を結び、迫害する側から宣教する側に変わったのでした。

 このように神様の特別な呼びかけに答え、また続けて起こる出来事の中に神様の計らいを見て取って、ある人間が突然生き方を変える。そのようなことは、それ以後も今日にいたるまで歴史の中では、何度もありました。しかし神様の声を聞き分け、自分のそれまでのすべてを捨てても、神様に従って歩みたいという謙そんな心がなければ、そのような実は結ばなかったでしょう。もしもマタイが、パウロが、イエス様の呼びかけを謙虚に受け入れ、それによって自らが回心する心構えがなかったなら、呼びかけも無駄に終わったでしょう。しかしまた逆に、外面的にしか人のことを判断できない人間には、回心の余地などない非情な人間に思えても、実はその人が深く回心し、より完全な人間に変わることもありうるのです。

 いつも神様の声を聞き分け、そして神様のみ旨が表れたと思える時に、それに従える心が持てるように。そして他人を表面で判断し裁くことのないように、誰に対しても愛することができる広い心が持てるように恵みをいただきましょう。

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