Saturday, January 11, 2014

2 per annum A


 年間第二主日  A

(ヨハネ1・29-34)

  「神の小羊-人類を救う偉大な方」

 

 表面的に見れば、私たち人間は、砂粒のような小さな小さな存在です。満員電車の中で、もみくちゃにされ、職場では組織の一員となって働く姿からは、一人ひとりのかけがえのない価値は伝わってまいりません。会社などでは、だれかがいなくなれば、別のだれかがその役割を引き継いでしまっています。人間の尊厳と神秘を無視してしまっています。それが現代社会の恐ろしさです。 しかし、信仰の光で見れば、どんな 〈生まれ〉の人間であれ、すべての人間は、かけがえのない存在として神から生命を与えられ、その人にしかできない固有の役割を与えられて生かされています。一人ひとりの人生の絶対的な意義を理解するためには、人間の常識とは異なる、神の光に照らされた量りが必要です。

 きょうの福音書の洗礼者ヨハネの言葉も、そのような視点からとらえるべきことのように思えます。

 ヨハネは、自分の方に近づいてこられるイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」と叫びます。しかし、この言葉を聞いた周りの者はびっくりしたに違いありません。イエスは、まだ、そのとき、説教や奇跡など、公の活動は何一つしておりません。全く無名の人です。人々の目にはナザレの村の平凡な男としてしか映っていなかったはずです。しかし、ヨハネは、何の変哲もない人間としての生活の奥に、神からゆだねられた神秘が現存していることを指摘したのです。

 「神の小羊」という言葉は、イザヤ書五十三章の、人々の救いのために屠所に引きずられていく小羊を思い起こさせるものです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。…屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。事実、イエスは、いけにえの小羊として、十字架の上で流された血によって、全世界の人々を救っていくのです(ヨハネ1936)。
 家柄、学歴、職歴、家族や職場での目に見える貢献度という常識的な評価基準にとどまる限り、十字架の死で終わるイエスの人生は、嫌悪すべきことであり、否定的にしか受け取れないでしょう。しかし、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」が新しい評価基準です。 「見よ、神の小羊を」という洗礼者ヨハネの呼び掛けは、人となられたイエスの神秘だけではなく、神の手の中にある私たち一人ひとりの人生にも、深い神秘と限りない意味があることを示す、呼び掛けでもあったのです。(みことばの調べ)

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