年間17主日 A
【マタ13:44ー52「天の国」のたとえ】
年間 第17木曜日
マタイ13・47-53
イエスさまのたとえ話を読み続けています。その多くが「天の国は、次のようにたとえられる」、あるいは、「天の国は○○に似ている」というような語りだしで始まる、天の国のたとえ話。私たちは天の国のことを学び続けているのです。これはすごいことだと思うのです。理科や社会や数学は学校へ行けば教えてくれます。自動車の運転は、自動車学校へ行けばよい。料理が習いたいなら、料理教室へ行けばよい。あるいは、料理の上手な人に教えてもらえばよい。およそ世の中のことは何でも教えてくれるところがあり、教えてくれる人がいるものです。
しかし「天の国」のことは、どこに行けば教えてもらえるのか? 「教会だ」と言う人もいるでしょう。「教会ばかりではなく、宗教ならどこでも良い」と言う人もいることでしょう。なるほど、どんな宗教に行っても、それらしき話は聞けるような気がする。しかし、本当のことを言うと、「天の国」のことは、やはり「天の国にいた人」でなければ知らないはずです。「天の国」に行ったことがないのに、天の国の話をまことしやかにしたところで、それはまた聞きに過ぎないわけです。絵に描いた餅になってしまいます。あくまでも想像の世界、空想の世界になってしまいます。「本当にそうか?」と問われれば、「いや、そう言われると‥‥」とか、「そう書いてある」とかいうことになってしまうでしょう。
しかし天の国のことを、本当に天の国から来た人が語るのであれば、そして「天の国とは」と語るのであれば、それは初めて「本当の話」ということになるでしょう。そうすると私たちは、イエスさまというお方を、そういうお方だと信じている、あるいは信じたいと思っている人がここにいるわけですから、そのイエスさまのお語りになることというのは、口から出任せでもないし、作り話でもない。
本当に本当のこととして聞くことができるということです。
すなわち私たちは、「天の国のこと、神様のことは、どこに行ったら教えてくれるの?」という問いに対して、はじめて答えることが出来るわけです。「それは、イエスさまの所に行ったら良いのだ」と、初めてどこに行けばよいのか、わかったということです。これは本当にすごいことだと思うのです。考えれば考えるほど。そんなお方がこの地上に来られたということですから。ですから、「教会に行けば天の国のことが分かる」というのは正確ではない。正しくは、「イエスさまのみもとに来れば良い」ということです。もちろん、イエスさまは主イエスの名によって二人又は3人が集まるところにいてくださるのですから、私たち教会と共にいて下さるはずです。いつも私たちは、悔い改めて、ゆるしあって、心を一つにして、聖霊なるイエスさまが共にいて下さる教会でありたいですね。そうするとそこは、天の国が満ちあふれている教会、ということになるのです。
思い出してください。使徒ペトロと使徒アンデレ、そして使徒ヨハネと使徒ヤコブはどのようにして最初にイエスさまから声をかけられたのか。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」といって声をかけられたのではありませんか。(マタイ4:19)
えり好みをなさらない神さま
ですから、このたとえ話はやがて弟子たちがこの世に出かけていって、主イエス・キリストの福音を世界の人々に向かって宣べ伝える
、そのことを想像させたでしょう。したがって、海に投げられたこの網は、この世にキリストの福音が宣べ伝えられる伝道のことを指しているし、その中に入っていた魚とは、神によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指していると考えても間違いではないでしょう。そうすると、その網の中にはすべての種類の魚が入っていた。
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年間 第17水曜日
マタイ13・44-46
わたしたちは、ともすると、信仰というのは「捨てる」ことではなくて、「加える」ことであると思ってしまうのではないでしょうか。
今までの自分の人生、それにさらに「天の国」を加えることである、と。つまり「+アルファ」であると。たとえば、私には囲碁という趣味があり、音楽という趣味がある。それにさらにもう一つ、「キリスト教」という趣味を加えたのだ、などということと同じように考えることはないでしょうか。このようなことはいろいろと考えられます。たとえば、地位があり、さらに名誉が与えられた。これにさら
に「キリスト教」というものを加えるのだ、と。キリスト教がステータスになるかどうかは別として、今までの自分はそのままで、さらに+アルファをする、という発想です。聖書が言っていることは、それとは違うように思われます。
昔、教会に来ているある青年が、クリスチャンではない友達に、「キリスト教は良い」と自慢しました。私はそれを聞いて、うれしくなったのですが、その続きがありました。それはなぜキリスト教は良いかというと、彼が言うには「キリスト教は安い」と言うのです。それを聞いて私は、複雑な思いになってしまいました。何が安いのか、葬儀の時の費用が安いということなのか、それとも彼は献金をあまりしていないということなのか、そのへんは話がそこで終わりましので、それ以上聞くこともしませんでしたが。
「わたし」を丸ごと神さまに差し出す
安いか高いか、ということであれば、もう論外でしょう。結論から言えば、主イエス様の天の国は今日のお話しにあるように、「持ち物すべてを売り払っても惜しくはない」というほどのものであると言えるでしょう。それどころか、主イエスの世界は、「献身」の世界です。財産どころの話ではない、自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。
「献金」はなにか「会費」のようなものとは全然違う。献金のお祈りで兄弟姉妹たちが祈られるように、私たちの献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。
もちろん、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように日曜日の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。
それ以上のものを与えてくださる神
そのように、私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様におささげするのです。言ってみれば、「捨てる」わけです。それは、「捨てる」ように見える。「神様この私をどうぞ、あなたの御心のままにお用い下さい」と祈る。神様に信頼してゆだねるわけです。そして神様が祝福してくださる。私たちの持ち物もそうです。いったん神様にすべておささげしている。その上で、神様が必要に応
じて与えて下さるのです。
きょうのたとえ話をご覧下さい。彼らは自分の持ち物を「捨てた」わけではない。代わりに、畑の中の宝を得た。あるいは、世界一の真珠を手に入れたのです。神様がそれほどすばらしいものを与えて下さったのです。この人たちは、喜んで売り払いました。無理に売り払ったのではないのです。喜び勇んで売り払った。言い換えれば、天の国、イエスさまを信じる世界は、それほどすばらしいものがあるということです。すべてに換えても良いほどの値打ちがあるということです。私たちはその値打ちに気がついているでしょうか。どうか多くの人が、この天の国のかけがえのない値打ちに気がつくように祈ります。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_mat94.html
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年間第十七主日 A
2005-07-20 17:23:14 | Weblog
年間第十七主日
マタイ13・44-52
きょうの福音書には、二つのたとえ語がならべておかれています。内容的にはまったく同じものです。そこには共通した特徴があります。
一つの共通点は、それぞれ、土地を掘る人、真珠を捜す人、つまり、それなりに求めている人がいるということです。もう一つの共通点は、宝も、真珠も隠されていたということ、もう一つは、発見した人はよろこびいさんで、すべてを捨ててそれを自分のものにしようとしたということです。
それでは・それぞれの共通点として指摘できるもののが、なにを意味しているのか確かめてみましょう。まず、掘り・捜す人。この人びとは、なにがそこに隠されているか知らないのです。彼らが見つけだすものが、あらかじめ、そこに現にあることを予想もしないのです。なにかあるだろうという期待感はあったでしょう。なにかを求めて努力していることは確かなのですが、それがなんであるかを明確にできないままでいるのです。ばく然とした期待感があるのですが、なにに出会うかは定かではないのです。つまり、イエズスは、この二人の主人公の中に、なにかに飢えているのですが、それが神に対する飢えであることをみきわめられない魂、絶対的なあわれみに渇いているにもかかわらず、その渇きがイエズスに向かっていることを知らずにいる魂をみているといってよいでしょう。
たしかに、わたしたちの周囲には無数の善意の人びとがいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人びとがたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練にうち倒されたり、信煩する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ちあがりたいと願っている人びともいます。そうした人びとは、なにかに飢え、なにかを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人びとなのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています。
「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「苦労する者、重荷を負う者は私のもとにきなさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできるかたが、私のために与えられているにもかかわらず、だれも私にことばをかけず、だれもわたしに力をかしてくれないといって嘆き苦しむ人々がいます。
わたしはすでに世に勝っていると、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺しつづける人びとがいるのです。あなたの罪はゆるされたといって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできるかたがいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人びとがいるのです。
キリストは、すべての人びとの求めに、願いに、こたえることができるだけの光と力と愛をもっている。ですから、もし、人びとがそれに気がつけば、それこそすべてを捨て、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエズスとの出会いをたいせつにすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもないよろこびであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるはずです。しかし、現実には、残念ながら、人びとの飢え、渇きとイエズスとの出会いがなかなかおこらないのです。わたしたちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。どうしてでしょうか。人びとの責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。わたしはそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人びとのほうに責任があるような気がいたします。現代の人びとの問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。わたしたちは、もっともっと努力して、宝であリ真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。(森)
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