Saturday, January 11, 2014

18 per annum A

 年間18主日 A

マタ14:13ー21】

年間第18主日(A年)
マタイ14.13-21
残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった
(マタイ14・20より)
 人々を満たすイエス
オットー三世朗読福音書
ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀末
 イエスが5000人を5つのパンと2匹の魚で満たし、パン屑は12の籠一杯になったというきょうの福音の出来事を描く。イエスが(向かって) 右側の弟子に2匹の魚を手渡し、真ん中に籠が12個描かれているところからわかる。4つの福音書すべてが伝える(きょうのマタイ14・13-21、マルコ6 ・30-44、ルカ9 ・10-17、ヨハネ6 ・1-14)。この話の興味深い点は、イエスが直接人々に食物を渡したのではなく、まず弟子たちに渡し、弟子たちがそれを人々に与えていったという点にある。食物を受け取る二人の弟子の姿は大変うやうやしく、救い主キリストへの礼拝心が強調されている。人々の群れは2つの層に分けて描かれている。籠の両側にいる人々は、イエスの教えに従っていく弟子たちのように見受けられる。下のほうには、向かって左端には赤ん坊に乳を与える女性、右端には赤ん坊を抱く女性、中央には杖をもつ人が見える。ほかにも手厚く保護されなくてはならない弱者たちが描かれているのだろう。そして、これらすべての人の目がこぞってイエスに向かっている。このまなざしの集まり方こそがこの絵の最も深い印象をかもし出している。キリストに仕え、キリストに従い、キリストにより頼む民の姿が写し出されているのである。


今日の奇跡物語は、新約聖書にある4つの福音書全部に記録されている出来事なのです。私たちの新共同訳聖書では、見出しに「五千人に食べ物を与える」と書かれていて、その左下の所のカッコの中に、他の福音書のどこにこの同じ出来事が書かれているかを親切にも書いてくれています。実は、4つの福音書全部に載っている事柄というのは、そんなに多くないのです。しかし、この五つのパンと二匹の魚の出来事は、すべての福音書に記されているのです。
皆さんはこの物語を読んで、どう思われますか? 私はこの箇所を読むと、ものすごい希望が与えられるのです。
 4つの福音書すべてにこの出来事は書き留められている。イエスさまが天に帰られた後、弟子たちにとって、この出来事は常に励ましとなったのではないでしょうか。最初の教会。それは、12使徒と、その他の男女の弟子たちわずか120人だとされています。イエスさまは「出ていって全世界に福音を宣べ伝え」なさいと、弟子たちにお命じになりました。ペンテコステ(聖霊降臨)の前、120人の人々しかいなかった。それに対して、これから弟子たちが宣べ伝えようとする全世界には、いったい何人の人がいるというのでしょうか。1億でしょうか。2億でしょうか。いずれにしても、120人という数字は、まるでこの時の、5つのパンと2匹の魚のようなものです。それはまったくわずかです。その時、弟子たちはこの出来事を思い出したのではないでしょうか。
 5つのパンと2匹の魚が、もしイエスさまの手に渡らなかったとしたら、それはやはり5つのパンと2匹の魚のままです。何事も起こりません。しかし、何の足しにもならないように思われるわずかのパンと魚であるが、それがイエスさまの手に渡されたとき、イエスさまはそれを感謝して受け取ってくださり、イエスさまの手の中で豊かに増え広がるのです。
     わたしたちを用いられる主
 「御子イエスさまのことだから、パンも魚も一つもなくても、人々を満腹にすることができたのではないか?」と思う人がいるでしょう。しかしそれは違うのです。イエスさまは、一人芝居をなさろうとはなさいません。全体から見たらわずかではあっても、その人が持っているものをすべてささげたときに、それを用いて事をなさるのです。
 最初の教会は、たった120人でした。しかしその120人は、自分たち自身をそのままイエスさまにささげました。その結果、ペンテコステの日に聖霊が降って、その日教会は3000人になったと書かれています。
 私たちが住んでいる社会を考えるときに、同じことが言えるでしょう。尼崎市のクリスチャンは、50万の尼崎市民から見たら、まことに少ない、わずかの人数かもしれない。しかし、イエスさまから見たら、少ないということは問題ではないのです。私たち自身を、イエスさまの前に差し出すか否か、ということです。私たち自身をイエスさまの手に渡したとき、主イエスは感謝してそれを受け取り、大きくお用いになるのです。それは奇跡なのです。私たちがするのではありません。イエスさまがなさるのです。nibanmati

現代の私たちは、この物語を聞いて、ここに書いてあることが文字通りおこったのであろうかと、とまどうかもしれません。 奇跡は史実であったか、そういう問題にだけとらわれると、福音書はこの物語を通して何を伝えたかったのかを見過ごしてしまいます。この物語に注意深く耳を傾けてみると分かりますように、中心点は弟子たちにあります。ここに登場するのは、群衆と弟子たちとイエス様ですが、群集は面前にでてきません。満腹した群集には、それがイエス様の奇跡であることが直接に知らされていません。ですから群集が感動したという表現もありません。それがイエスの力であることを直接知っているのは弟子たちです。彼らの動きが目立ちます。群集を見て心配するのはまず弟子たちです。食べ物がなかったら人間は倒れます。私たちの信仰は、自然の法則、この世の道理に直面するのです。そこで、弟子たちは、この世のことはこの世の道理や法則に従っていかねばと考え、「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った。
私たちもそうではなでしょうか。キリストのことを知りたい人々はたくさんある。「神父さん、聖書を読みたくても時間がないのです」「難しいです」「分からない」という人がそこで問題としていることは、このところの弟子たちと同じです。この世の道理に信仰生活が当面したときに、信仰をやめ、この世に従うのです。けれども、そこにはキリストの力が感じられない。キリストの力は、この世の道理を突き抜けていくところにあるのです。
弟子たちにも人々の疲れやさびしさ、労苦や重荷が、ひしと伝わってきたことでしょう。手に取るようにわかっていたでしょうが、しかし、弟子たちにはその現実に対してなすべき手段がないのです。村に帰らせ、そこで食べ物を買わせましょうという普通の方法しか、考えられないのです。弟子たちは無力なのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」このことばによって、弟子たちは、よりはっきりと、自分たちの限界、無力さを自覚することになります。
「パン五つと魚二匹」しかもたない弟子たち。つまり、弟子たちは、人々の飢え、渇き、人々の労苦と重荷に対して、まったく力がないのです。社会問題を解決する力がないのです。救いという次元に関して弟子たちが完全に無力であることを自覚させようとするイエスの意図がここにあると思います。弟子たちは自分たちがなにかできると思ってはなならないのです。人々の労苦、重荷を背負い、救うことの出来る方は、イエスだけなのです。弟子たちではないのです。弟子たちはしっかりとイエスをみつめて、イエスから人々のための光りと力を引き出さなければならない立場です。弟子はイエスなくしては無力なのです。彼らが意味を持つのは、彼らが常にイエスをみつめ、イエスの心と一体となるときだけです。キリストの弟子たる私たちにも求められるのは同じことです。もっともっとイエスを信頼し、もっともっとイエスの神秘にふれ、イエスからもっともっと光りと力をくみとることなのです。 

人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese

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