Saturday, January 11, 2014

15 per annum A

年間15主日 A      伊丹
【マタ13:1ー23種を蒔く人のたとえ】

最近見た新聞のマンガには、こういうストーリがありました。コボちゃん「鼻血が出たー」、お母さん「しばらくここをつまんでなさい」といって、その場を離れます。そこへお父さんが帰宅。コボちゃんが鼻をつまんでいるのを見てひと言。「そんなにくさいですか。すいませんね、エーエー飲んできましたよ」と。
 おなじみの新聞の四コマ漫画です。四コマ漫画を読んでひとりで笑ってみたり、納得してみたり、よく考えられるものだと感心させられたり、楽しみにしているものの一つです。この日のお父さんは、酒を飲んで気分が大きくなって開き直っているのか、酒を飲んで帰宅すると、いつも何かを言われ、「意地悪な」ことをされているのか、ひがみっぽく子どものコボちゃんに絡んでいるようです。飲んで帰るといけないと自分でも思っているところがあり、ついついその心が表に出てしまうのでしょうか。そのような心の状態では、物事をまともに見、感じることは難しくなります。酔っているせいか、「斜め」に見えてきます。
 最近新聞によく見かけることは、「自殺」をする人です。仕事上の悩み、この不景気による生きることへの失望感、マイナスのことを考えてしまうと、その中にはまり込み抜け道を見出せなかったといいます。家族の人もサインに気づかず、不幸な結果になりました。追い詰められると、孤独感、さらには孤立感へと誘導されていきます。自分でも何を考え、何をしようとしているのか判別がつかなくなるといわれます。仮に他者からの気遣い、応援があったとしても、かえってわずらわしくなってしまうのだそうです。
 この「自意識」のないことが、本当はサインなのでしょうが、周囲の人には見えません。自分がどのような人なのかをしっかりと知ることは、情報交換、互いのコミュニケーションを持つために大切なことです。そこから新たな「自分」の発見ができるからです。
もっと正確に言うと、発見させていただくという心が尊いですね。イエスさまは、無駄だとわかっていても、人を差別することなく等しく同じことを伝えます。しかし、聞く側のわたしたちの状態によって、同じ質の話、会話も非常に変わってきます。
 今日の福音はこのことをわたしたちに促します。まかれる種はみな同じです。種の威力が発揮されるのはよい土地に落ちたものだけです。「よい土地」の状態にいる人はそうそういるものではありません。よい土地にする仕方は知っていても、それを実践していない人がなんと多いことか。今「わたし」が信じている神を意識しましょう。そうすれば自分が見えてきます。究極的には神を相手にすることが「自意識」の芽生えの絶対的、確実な道なのです。そのために祈りのときを持つ、聖書を読み、現実の姿を神に訴え、最良の結果を希望するのです。そうできるようにも祈ります。神は悪がはびこることを望みませんが、存在することを受け止めています。であれば、人が悪から救われることをもっと望んでいるはずです。(第二朗読参照)
http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2005/05-03/050710/
種には命があるということのが今日の話の大前提です。み言葉には命があるということが、イエスが言おうとしているメッセージです。
二千年の眠りから覚めた大賀ハスの話はご存知ですか。
大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、千葉県で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。
大賀(おおが)一郎博士が発見したので、「蓮博士」と言われている。
 
エジプトのピラミッドの中で一つの壷が発見され、それがロンドンの博物館に飾られたが、掃除係りの人は落として壊してしまった。ところが中から何か小さいものが出てきたので鑑定に回した。それは小麦の種だった。何千年も前のものですっかり干(ひ)からびてはいたが、いのちがあったのです。蓮博士の話とよく似た話であるが、そういうように命があれば、それがどんなに古いものでも、そこから成長していく力を持っているのです。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものです。だから、そのまま読んでいくと何も感じないと言っても無理のない話しです。二千年という時間や、日本とイスラエルという空間的隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように読んでいくと、私たちの主観的な立場で曲解(きょっかい)することになりやすい。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということです。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。イエスは「神の国」を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、み言葉には命があるのだということであり、このことをまずしっかり覚えたいと思います。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、「み言葉には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくる。
マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これが「受ける、受け入れる」となっている。み言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識によってみ言葉を軽く料理しやすいです。
み言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということです。これをしたらもうかるのにとか、これをしたら人から喝采(賞賛)を受けるのに、と思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということです。そういうふうに受けいらなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。命は受け入れたときに「ああ命があるんだ」ということを見ることができる。だから聖書の言葉がどんなにすばらしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識はふえても、私と聖書のかかわりを見いだすことはできない。受け入れたとき、はじめて種の持っている命にふれることができるのです。

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